路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする付記1信達風土雑記のこと

 付記1信達風土雑記のこと
 秋山村冒頭に引用された『信達風土雑記』(元文五年)は日下兼延著、福島県史第24巻に掲載されている。一行28字の二段組印刷28頁分、その中の川俣部分27行を以下に写す。和歌と俳句以外はすべて訓点返り点なしの漢文表記。次に本文と重複するが素人デタラメ読み下しを置き、いくつか語注し、更に私見を述べる。

 従福城巽阻三十余里之嶮路而有一邑謂川俣也是小手庄而廿一郷
 之庶民儈合県也郷裏有古舘曰朝日舘焉於当邑在春日明神社伝聞
 古昔山陰中納言東遊日勧請於此和州三笠山神社焉
  吉田社与春日社為同躰貞観中納言藤原山陰卿建焉春日四所
  大明神者第一殿武雷神第二殿斎主神第三殿天津児屋根命第四
  殿姫大神貞観元年十一月九日始行此祭矣
  当邑春日祭九月九日也
   禰宜達の碁盤きよめや神無月   馬耳
   命もやおのれをうつす鹿のこゑ  既白
 爾来年々祭祀無怠慢也亦近邑渾以絹機為産業焉其織出品類巧於
 綾而至干繊穀者応飾豪貴之襟其細綸綃紈者軽羅一衣重三両也無
 大無小昼夜各不止矣或嫗婦之繰車音如雷声響亦淑女之機杼音似
 冬風烈矣毎月六度儈県而為商賈交易者也所謂於三都有斯之絹名
 矣亦以紫染為名誉隣国好賞之也当郡於立子山邑有古舘号北裏舘
 焉天正年中石橋氏何某居之亦於青木村有神社鎮祭悪源太義平之
 尊霊焉伝謂納白幡及武具太刀等矣凡此廿一村者委稼穡産業故山
 舎田屋豊饒而富家並於軒寛々矣東隣於相馬地南旁於田村郡而西
 向於安達郡恰如凾中也雖為伊達郡之中小手庄三七之村民者言語
 人物等別有風姿也亦県阜飯野筑舘小島穐山等雖多舘舎旧塁恐繁
 泄之也夫廿一村之産物者絹綿紬紙煙艸良材薪木畠穀等数品也
   伊達郡之内小手庄廿一郷者
  大波    小国[上下]  御代田   布川   手渡
  糠田[上下] 小嶋   [川又]飯坂   大綱木 [川又]小綱木
  五十沢   鶴田     小神    羽田   松沢
  飯野    大久保    立子山   青木   秋山
  築舘   村数廿一ヶ村
   此高合三万千三百四拾石壱斗九升余也

 福城より巽(南東)三十余里の嶮路を阻(へだ)てて一邑有り川俣と謂う。是、小手庄にて廿一郷の庶民儈合(かいごう)の県(まち)なり。郷裏に古舘有りて朝日舘と曰(い)う。当邑に春日明神社あり、伝え聞くに古昔(そのかみ)山陰中納言東遊の日、ここへ和州三笠山神社を勧請すと。
 吉田社と春日社は同躰にして貞観(じょうがん)の間、中納言藤原山陰卿建つる。春日四所大明神は、第一殿武雷神(たけみかづちのかみ)、第二殿斎主神(いわいぬしのかみ)、第三殿天津児屋根命(あまつこやねのみこと)、第四殿姫大神(ひめおおかみ)なり。貞観元年十一月九日始めてここに祭を行う。
  禰宜達の碁盤きよめや神無月  馬耳
  命もやおのれをうつす鹿のこゑ 既白
 爾来(じらい)年々祭祀怠慢なきなり。また近邑は絹機(きぬはた)を産業となしもって渾(ふる)う。その織り出す品類は綾に巧みにして、至って繊穀(せんこく)を干(もと)むる者に応じ豪貴の襟を飾る。その細綸綃紈(さいりんしょうがん)は軽羅一衣重三両(ちょうさんりょう)なり。
 大なく小なく昼夜各々止(やす)まず、ある嫗婦(おうふ)の繰車の音は雷声の如き響きし、また淑女の機杼(きじょ)の音は冬風の烈(はげ)しきに似たり。
 毎月六度儈県して商賈交易(しょうここうえき)をなすものなり。所謂(いわゆる)三都における有斯之絹(うすのきぬ)の名なり。また紫染(むらさきぞめ)をもって隣国好賞の名誉となす。
 当郡立子山邑に古舘有りて北裏舘と号(なづ)く。天正年中、石橋氏何某居す。また青木村に神社有りて悪源太義平の尊霊を鎮祭す。伝に謂う、白幡(しらはた)及び武具太刀等を納むと。
 此の廿一村は稼穡産業に委(くわ)しきゆえ山舎田屋(さんしゃでんおく)豊饒にして富家(ふうか)軒を並べ寛々たり。
 東は相馬の地に隣し、南は田村郡に旁(そ)い、西は安達郡に向かう。恰(あたか)も凾中(かんちゅう)の如きなりと雖も伊達郡のうちに小手庄三十七の村民は言語人物等、別しての風姿あるなり。また県阜(まちざと)、飯野(いいの)筑館(つきだて)小島(おじま)穐山(あきやま)等、舘舎旧塁多しと雖も繁を恐れこれは泄(はぶ)く。
 それ廿一村の産物は絹綿紬紙煙艸(たばこ)良材薪木畠穀等数品なり。
  伊達郡のうち小手庄廿一郷は
  大波 小国[上下] 御代田 布川 手渡 糠田[上下] 小嶋 [川又]飯坂 大綱木 [川又]小綱木
  五十沢 鶴田 小神 羽田 松沢 飯野 大久保 立子山 青木 秋山 築館  村数廿一ヶ村
  この高、合わせて三万千三百四十石一斗九升余りなり。

 この『信達風土雑記』も著者自筆本は失われ誤字脱字や後人の書き込み多い写本が流布しているという。県史が底本としたのは寛保三(1743)年西海逸民氏が写したものを文政年間北城という人が写した本とのこと。この本は序文と後序、殿語が置かれて書写の経緯がわかる。県立図書館には三種の写本があって逸民氏のは奥書が元文五年(1740)、他は宝暦元年(1751)と慶応四年(1868)、これらは全頁写影のCDで確認できる。川俣部分を見ただけでも文字の違い章句の異同は数多い。私は古文書を読めないが活字本との文字照合ぐらいはする。

 「三十余里」は古代里程。五、六里。
 「郷裏」は「郷里」の意味で用いている。
 「命もやおのれをうつす鹿の声」を『小手風土記』は「おのれを福に」と意味不明の変更。
 「繊穀」の「穀」は適切ではないと本文の私注で述べた。逸民氏の筆写本や宝暦本は正しく「縠」を用いており県史編纂者の誤読か誤記、もしくは印刷会社の誤り。慶応本は偏の「糸」部分を「米」か「禾」。それ以前に「至干繊穀者」を「至於織穀者」とする。
 「軽羅一衣重三両」の「重」の字、他の二写本にはない。「十三両」と解することもできようが三の倍、六両として「ちょうさんりょう」の読みにした。素人山勘読み。
 「青木村に神社有りて悪源太義平の尊霊を鎮祭」は松沢村の甲大明神。他の二写本は「悪源太源義平」、そして「此廿一村」の前に頭陀寺と開山青牛和尚についての書き込みがあり「川股町」「川俣町」の表記を用いている。
 「泄」は「もらす」が適切な訓読みだろうけれど音調が合わず省略の意味に読んだ。他の写本はこの文字を「泜」とする。「泜」は「川」あるいは「齊」のこと、それでは意味が通らない。
 「此高合三万千三百四十石…」、他の写本は三石加えている。この石高は後の書き込み。

 『小手風土記』のガリ版本で編者の木村氏はこの『信達風土雑記』からの引用を「しかし筆跡等より見て、本文は後世に書き加えたものと思われる」と述べる。そうだろうか。町飯坂春日神社の項に置かれた馬耳と既白の句の並び、立子山の村上や鮎滝記述が『信達風土雑記』からと見え、しかもそれは三浦氏の地の文に章句が織り込まれている。また飯野村阿武隈川の歌四首は雑記から拾ったと見えることからして氏の手近に写本はあったと考える。筆跡について確認できないけれど漢詩漢文は楷書、和文は草体字にするのは当時通常の筆記法、この部分が楷書だからとて筆跡が違うとは言いきれない。そして編者の木村高橋の両氏は『雑記』からの引用と人づてに聞いただけで本文は見ていないかもしれない。あれほど『信達一統志』の記事を註に置きながら『雑記』との相違は記さず、既白の句の違いさえ註にない。


 ついでなので鮎滝と村上の文を見る。『小手風土記ガリ版本の立子山村では、
「鮎流春景尤夥杜鵑の比諸人爰に遊んて酒を汲詩詠をなし鮎の飛を心を移して迎星て帰る也
 一、村上薬師堂 壱丈四面 別当大楽院 縁日四月八日
 抑村上山は天暦年中阿武隈川の川中に一夜に湧出したる石山也数十丈巌石そひへて鳥も翔りかたく古松枝を垂れ藤葛花を洗いて蒼苔露なめらか也嶺には薬師如来を安置す林下は隈川帯て白浪岩を砕く勢ありて水流の委曲驚蛇に似たり伊達第一の勝地にして千巌秀を競い萬壑流を争ふたる山水の美といひつべし石窟ある処々土俗呼んで蝦夷穴と云上代穴居巣居の蹟かその所由をふ知十人は十景百人は百景有の絶景也」

 『信達風土雑記』は村上を先に述べる。
「東於阿武隈川之澹中有嵓嶼名謂村上也嶢崢@@磈々焉於爰臨坻延筵卜座睒@之者青松浸枝藤葛洗花嶮巌帯苔槁木曝雪矣四時風景更無窮也伝聞可謂遊海中之於蓬莱瀛洲焉旋此両岸有別風而如異邦矣於乎茲数代之国守促駕士民運歩四衆遠尋来而賦詩題歌焉掎歟堪惜如斯風景遠於中国奇異巌隯陰於夷塵焉」
「嶢崢(ぎょうそう)」は高い山、「@@」は山偏に聿と山偏に兀、「ろつごつ」、転がりそうな危うい大石の重なり。次の「磈々」筆記は磈の上に山が書かれているがパソコンのフォントにない、「磈」も同意味、「かいかい・ぎぎ」、ろつごつと同意反復、剥き出しの岩壁描写。「坻(てい)」は川中の島。「卜座」は意味不明で「卜」を「外」の略と読んでみた。あるいは「占」で「座を占める」と読むも可。「睒」の下の@は目偏に矞、「だんきつ」、驚き見ること。「槁木(こうぼく)」は枯れ木。「蓬莱(ほうらい)」と「瀛洲(えいしゅう)」は東海の彼方、古代中国人が空想した不老不死仙人の島。『史記』秦始皇紀「海中に三神山有り、名は蓬莱・方丈・瀛洲という。遷人ここに居す」。「掎(き)」は引き寄せる。「隯(とう)」は島。

 東、阿武隈川の澹中(たんちゅう)に岩嶼(がんしょ)あり名を村上と謂う。嶢崢(ぎょうそう)ろつごつとして磈々(ぎぎ)たり。ここに坻(てい)を臨み筵を延(の)べ外座(がいざ)し睒@(だんきつ)す。青松(せいしょう)枝を浸し、藤葛(とうかつ)花を洗い、嶮巌(しゅんがん)苔を帯(たい)し、槁木(こうぼく)は雪に曝さる、四時(しいじ)の風景更に窮まりなし。伝え聞く海中の仙界、蓬莱・瀛洲に登り遊ぶとも謂いつべし。この両岸は異邦の如き別風ありて茲(ここ)へ数代(すだい)の国守が駕を促し、士民歩を運び、四衆遠く尋ね来たって詩を賦し題歌す。かくの如き風景は遠き中国奇異の巌隯(がんとう)を掎(まぢかにせる)ものか、夷塵(せぞくのちり)を陰(かく)し惜しむに堪う。

 また鮎滝の記述は、
「亦陽渉岩渓十余町而有謂鮎滝処矣春景尤夥毎歳花杜鵑之頃者村民覃士庶隠人遊興於此而酌酒詠歌為詩惜於落日矣十人有十景百人有百景之絶境也沙頭@於楊柳芝間枕於怪石山上哢於花月滝下汲於鮎魚優游舞踏無谷酔侶為之必迎星而帰也凡隈川之辺諸村水涯峡谷之間有岩窟焉四壁者以石而累々其高十尺或一弓其広逮尋常上蓋盤石焉其戸口僅而一仞一尺容易不可成人力処也如斯之空窟在於処々也土俗呼此曰蝦夷穴訝億有穴居巣民之人乎不知其所由也亦村上怪嵓之流下飛石伝桟行数十町而有碧潭名謂大渦也斯処両岸如合壁亦似累卵彎水時々作巴字雖大旱更不窺淵源之処也於岸上有虚空蔵大士之殿宇焉名山謂黒岩呼寺号満願寺前有垂桜矣枝条蔓四隅十余間也其景色溢隣郷未開花客者待弥生而為群終日忘帰家矣」
 「杜鵑(とけん)」はホトトギス。「覃士」の「覃」は筆者が「單」を誤用したもの。冊子すべてにこの誤用がある。書写子でなく著者日下氏の誤り。「落日」を他の本は「斜日」。@は木偏に原、パソコンのフォントになし。「げん」。「甘蔗(バナナ)に似た実がなり皮核皆食える」と中国での古義を辞典は記す。芭蕉や棕櫚かもしれない。「哢」は鳥のさえずり。寸法単位の「一弓」は五尺、六尺、八尺、時代により変わった。「一仞」も同様でほぼ七尺ぐらい。戸口の「一仞一尺」は高さと幅を言っている。「訝億」は「億」にママのルビ、「訝憶」に読んでみた。

 また陽(みなみ)へ岩渓を渉(わた)ること十余町にして鮎滝という処(ところ)あり。毎歳春景に尤(はなはだ)夥(ひとおお)し。花と杜鵑の頃は村民、単士(ひとりもの)、庶(そんじょそこらの)隠人(よすてびと)、ここに遊興して酒を酌み詠歌し落日を惜しんで詩をなす。十人あれば十景、百人あれば百景の絶境なり。沙頭(かわのほとり)、楊柳と芝の間には怪石を枕に@、山上の花月に哢(とりのさえずり)、滝の下に鮎魚(あゆ)の優游(ゆうゆう)舞踏して谷(きわ)まりなきを汲む。酔侶(よっぱらいども)必ず星を迎えて帰るなり。
 およそ隈川辺の諸村、水涯峡谷の間に岩窟有り。四壁は累々たる石を以てその高さ十尺あるいは一弓、その広さ尋常に逮(およ)び盤石を上蓋(うわぶた)す。その戸口僅かに一仞一尺、容易に人力にては成るべからざるところなり。かくの如き空窟処々にあり、土俗これを呼んで蝦夷穴という。訝しく憶(おも)えり。穴居巣民の人あるかその所由(よるところ)を知らず。
 また村上怪嵓(かいがん)の流れを下り、飛び石伝い桟行(さんこう)数十町に碧潭(へきたん)有り、名を大渦と謂う。この処、両岸合壁の如く、また累卵に似たる彎水(わんすい)時々巴字(はじ)を作(な)す。大旱(たいかん)と雖も更に淵源を窺えざるの処なり。
 岸上に虚空蔵大士(こくぞうだいし)の殿宇有り、山を名づけて黒岩と謂う、寺号は満願寺。前に垂桜(しだれざくら)有り、枝条(しじょう)四隅(しぐう)に蔓(のび)ること十余間なり。その景、溢るる色に隣郷の未だ花開(さ)かざるところの客が弥生を待ちて群集し終日家に帰るを忘る。

 重ねて言うが私の読みに信を置かないで頂きたい。文字の一つなら辞典を引けばわかる、しかし文節の区切りは矣、焉、也、乎などを目安にした山勘による。
 「穴居巣民之人乎」を慶応本は「穴居巣居之蹟乎」としており『小手風土記』筆者が見ただろう写本の系統になる。
 「垂桜矣枝条蔓四隅」を他の写本は「桜樹枝条垂四隅」。このような違いはきりがなくいちいちは挙げないが『小手風土記』三浦氏の援用した章句はお分かりいただけるだろう。『都名所図会』から引用した部分は本文私注に述べておいた。

 またついでにこれらを『一統』の記述は、
「藍飛泉(あいたき)
 岩上の流十四丈 流色藍をそゝぐが如く 故に斯は名付しなるべし 一説に年魚滝(あゆたき)とも云ふ 年魚此滝まで游ぎ来れ共登ることを得ず 故に鮎の止るを以て斯は名を負はせしならん 風土記に春景左宜母之花杜鵑之頃は邨人単士殿隠者遊興干茲酌酒作詩詠歌之情斜日十人有十景百人有百景云々
 村上山
 邨西逢隈川の水中にあり 薬師如来を安置す 是を村上薬師と称せり 堂一丈四面也 四月四日祭礼 古伝説に云天暦年中阿武隈川の中に一夜に湧出たる岩山なりと 高さ数十丈 鳥も翔がたく古松枝を垂れ藤葛花を洗ひて蒼苔の露なめらか也 岩下隈水を帯び白浪岩を砕くの勢あり 流水の委曲竜蛇に似たり 伊達第一の勝地にして千巌神秀を競い万壑流を争ひたるは山水の美と云ふべし 岩窟ある所土人蝦夷穴と云ふ 上代穴居巣の古き跡か 其由所を知らず 実に絶景なり」
 文中の「風土記」が『信達風土雑記』、「邨人単士隠者」の所、日下氏が「単」の意味で「覃」を誤用しているのを改めている。そして「左宜母之(花)」は志田氏の挿入とわかる。
 村上山の記述は『小手風土記』の援用。

『小手風土記』を現代仮名遣いにする27附録(神主の書き込み)

 27附録(神主の書き込み)
 この文章はガリ版本の上糠田村末に置かれ活字本にはない。編者前書きの通り明治時代の文であり現代仮名遣いに直す必要もないけれど、当時の神主たちを風靡した平田篤胤流の情緒が濃くさらに作話に類する記述もあって参考資料にはなろう。送り仮名のカタカナ部を平仮名にし適宜改行も施した。一ツ書で二十五項目、中に小手六十三騎の一覧あってそれとて正確さを欠き編者が括弧して改めている。
        *
 この附録は底本の奥州川俣@渡辺(弥左エ門家)本が明治年間に上糠田村(現在月舘町大字糠田)の熊野神社神主伊藤氏の所有となり当時の伊藤氏が底本の欄外又は別紙に覚え書を記入しておいたものである。極く一部を除いて殆んどが附会の説に過ぎないが、一応附録として収めた。(*1)

一、女神山
 女神山、上古は御上山と称して鎮守府将軍文屋綿麿(ふんやのわたまろ)(註、弘仁二年四月征夷大将軍任命、同年十月閉伊(へい)の蝦夷覆滅の捷報を奏す)、東夷征伐の際、当山に登って東屋国の神を鎮祭し給う事熊野宮社記録に見ゆれば尤も古くより開山せし事押して知るべし。抑(そもそ)も現在女神明神は元御上(みかみ)明神にして、延喜式名神の大社臨時祭二百八十五座の内、陸奥国十七座の内にして将軍登山以前より是御山へ鎮座坐(おわ)す御神なり。
 然るに元暦の頃から当山に薬師の尊像を安置するや@(アヤ)まり語って曰く、吾れ嘗て瘧病(おこりやまい)患う、薬餌を用いて功なし、然るに尊像に祷(いの)りて忽ち平癒す。尊像甚(はなは)だ応あり。一度求めあれば則ち疾痛者は之を治し、痿痺(いざり)の者は立ち、瞽者(めくら)は明復し、聾者(つんぼ)は忽ち聴く。その他之を祈れば必ず効あり。之を聞きて倶(とも)に耳を驚かす。是より隣里郷党時差を薦め粢盛を具え、駿々として一山挙げて仏法守護の山と化せり(建武の頃、当山の麓へ遷し後ち天正元年眉間山へ安置す。委しくは薬師寺の条を見るべし)。(*2)
 御上明神の神威次第に少縮となり建武の頃明神へ佐藤民部義忠の娘小笹姫の霊を合祀して女神明神と改称せり。是より社号乱雑となり、筑波山の男体女体を形とりて小手神森を陽神明神とし女神山を陰神明神とす。また石社中へ鏡を納む。また鏡明神と改称し、或いは仏号をもって水雲山天井尊と定め、また五大尊大日如来と改称し、実に千変万化の名目を附会し、大社の号を失い、これ皆神道その職を怠るより出づ。しかして伝記由来を失うも浮屠神明を潜めて仏宇を雑(まじ)えるより出づるなり。嗚呼、釈徒異端何ぞ無情なるかな。挙げて歎ずべけんや。(*3)
一、東王塚山名義
 君中経に東王父は青陽の気世云々。
 在蓬莱山十州記に扶桑地方万里上有太帝宮太真東王父所治之処也とあり此太真東王父は太皇伏羲氏なり云々。
 三洞部に老子中経東王父の條に各曰伏羲云々。(*4)
 古老伝説に曰く、往昔神仙の二僧あり、東王坊大徳坊と云う。常にこの山頂に於て相撲を試む。また老鹿を愛し白狼を馴(てなずけ)けて相伴う。後、東王坊の死体を山頂に葬むる、よりて山名起こる。鹿狼を埋めしところ鹿狼山と云う。所謂(いわゆる)上之内ともある山上これなり。
 山頂に大徳坊の足跡と称せし水溜りあり、渇水と雖も水常の如し。大徳坊和尚の事を称して大徳と云う。駅燈随筆に曰く、大徳坊山鬼をもって上人を称し、一日、信夫郡の稲を負いここに来りて之を曝す云々とあり。郷中に大徳坊の事跡伝えて所々にあり。
 一名経塚山とも云う。往昔凶年の際、千部の経を埋めて豊年を祈る。よりて山名起こる、所謂四岳中なる一切経山の如き類なり。
一、正一位熊野三所大権現は管領上杉家三代[景勝、定勝、綱勝]の祈願社にして創立の紀元を尋ぬるに人王五十代桓武天皇御宇、延暦年中、陸奥出羽両国の按察使(あぜち)兼鎮守府将軍大伴家持卿、陸奥国府へ下向の際、安積郡に於て夷賊蜂起せし時、高旗山に坐(おわ)す宇奈己呂別(うなころわけ)の神の威力により儘(ことごと)く之を征伐す。(*5)
 然るに一の賊膚大墓なる者逃れて奥に至る。将軍跡を追うて山岳原野を跋渉して追いける程に、深くも奥に迷い入らせ給う。于時(ときに)空中より三羽の霊烏飛び来りて駅路を指して導き給え如きを将軍大に悦び、その霊徳を感じて宮柱太敷立て熊野三所の神霊を祭らせ給う。郷土をもって神領に供え給う。(*6)
 然るに郷土を監察するに往古和銅の頃、南部行基、山川を経紀して国郡郷里を定むるも未だ麤(そ)にして細(くわ)しからず。土民普(あまね)く皇沢に沐浴すると雖も草昧野蛮にして村に長(おさ)なく邑に首(かしら)なく各々封堺を貪り衢(みち)を遮りて相盗略するの意あり、山野に入りて鳥獣を捕獲するを以て営業となせり。土地沃壌なりと雖も未だ農耕に精しからず。(*7)
 将軍扈従(こしょう)の臣下を置かしめ熊野三所の神徳を示して教化を敷き、皇徳を宣揚して庶頑を化尊す。原野を開拓して以て民に農桑を教え、浴堰を築(かま)えて灌漑を起し、道路を開鑿(かいさく)して通行を便にす。此時始めて村堺を分かちて五ヶ村を置く。所謂(いわゆる)掛田村[寛正元年洪水後大波、小国を置く]、御代田村[寛正元年洪水後布川を置く]、糠田村[寛正元年洪水後、小島、手渡を置く]、福田村[寛正元年洪水後、秋山、青木、立子山、飯野、大久保を置く]、富田村[寛正元年洪水後、小神、松沢、鶴沢、五十沢、綱木、飯坂を置く]是なり。(*8)
 村々に桑穀木等を殖えしめて養蚕機業の道を奨励し、広布狭布の絹布を織らしめて調庸の道を起さしめ、その業、歳を逐(お)うて大いに開け、後ち奥羽に普及したり。古(いにし)え所謂奥羽の調庸広布狭布是なり。稼穡開くるに従い山舎田屋豊饒、富家軒を並んで寛々たる郷里に一変し大いに民風の改善を得たるは誠に御神徳の余沢なりと云うべし穴賢。(*9)
一、嵯峨天皇御宇、東夷等歴代時を渉り辺土を擾乱せしかば鎮守将軍文屋綿麿詔(みことのり)を奉じて東夷を征伐するの際八幡奥(以下約九〇字欠、この欠字は紙を切りとりたるもの以下同じ)
一、天喜二年、陸奥の豪族安部頼良謀叛し源頼義綸命を奉じて逆賊追伐のため奥州へ発向せらるるや頼良の二男貞任三男宗任等部下を従がえ伊達信夫に出陣す。頼義之を聞き逆賊追伐のため社前に於て流鏑馬の神事を奉納し軍馬を調練して士卒を励まし給え。(*10)
一、永萬元年三月陸奥藤原秀衡西舘[一名月見舘とも云う]の地頭佐藤民部義忠をして普請奉行となし、高舘より飛騨匠八人を遣わして鴻(おお)いに土木を起し、既に三カ年を経て本殿、拝殿、雷殿の楼閣、五重の塔、経殿の五宇造営す。実に輪奐壮麗その美を極む。(*11)
一、仁安三年六月十五日、藤原秀衡の臣河辺五郎行定を遣わし金泥の大般若経一部を納む。国土安穏の祈祷あり。(*12)
一、崇徳天皇御宇大治三年、堀川鳥羽両院の勅使として中納言顕隆卿当国平泉へ下向の際、当社境外なる東南二カ所の大華表(おおとりい)へ御染筆の額を遺(のこ)させ給う。世にこれを石の勅額と云う。(*13)
一、建久七年四月、常陸介念西(ねんさい)藤原朝宗、当社の本願藤原秀衡時の領主修造致すべき例沙汰の旨(むね)御置文残せらるの処、然るに近年鴻(おおい)に廃破、供物燈明以下已(すで)に断絶の由愁うるにより堂殿修繕を加う。就(つい)て百貫文の地を以て社家に賜う。(*14)
一、延元二年八月、北畠中納言顕家(あきいえ)卿、西征の軍議を決して霊山城を発し、義良(のりなが)親王を奉じて檄を伝えて便宜の軍を催さるるに、結城入道道忠、伊達行朝らを始めとして伊達信夫下山の勤王の輩来従するは凡(およ)そ六千五百騎なり。その時、当熊野堂をもって仮の御所と定めさせられ給い、親王は十余日の程御通夜あらせられ給う。于時(ときに)親王の御供なる広橋修理亮(しゅりのすけ)藤原経泰、神前に菊花を奉りて皇運の隆昌を祈願し奉る。世俗今に御所宮大明神と唱称し奉るは是縁(えにし)なり。(*15)
一、応仁以降、管領(かんれい)乱れて梟雄割拠の世となり疆壌(きょうじょう)を争うを既に百三十有余年、時に慶長五年八月十五日、上杉景勝伊達政宗と戦いて雌雄を決せんと欲す。上杉家の老臣本庄越前守繁長、宇佐美弥五右衛門、岡左内、二本松七郎、山上道友、武倉隼人、色部修理之介、須田大炊長義等の諸将、当熊野社前に於て小手郷へ檄文を伝えて野武士六十三騎を召集して知行割印を相渡す。于時、本庄繁長神前に於て契願して曰く此度の合戦は上杉家の盛衰存亡の秋(とき)なり、願(ねがわく)は神霊の加護を垂れ給いて敵陣を攻伏し給いて上杉家の軍威を発揚されんことを謹(つつしみ)て祈念奉る。終(おわり)て宇佐美弥五右衛門神前に於て熊野神軍隊と軍旗に大書し、軍旗を押立て大軍蹶起、隊列を作り組旅を整え梁川城へと発向しける。同年十月八日、上杉勢六十三騎を先鋒として藤田桑折の間に対陣せし伊達と大戦のこと、並に敵将政宗茂庭山中まで追伐して上杉勢の大勝利を得しこと委し(約九字削除)(*16)
  小手六十三騎熊野神軍隊左の如し
一、下糠田村  二百五十石  田代五左衛門
一、町小綱木村 二百五十石  安斉藤兵衛
一、立子山村  二百五十石  小貫太郎左衛門
一、鶴田村   二百五十石  関太郎左衛門
一、手渡村   二百五十石  斉藤五左衛門
一、町小綱木村 二百石    菅野与兵衛
一、飯野村   二百石    岡 金五郎
一、小島村   二百石    佐藤藤兵衛
一、糠田村   二百石    佐藤弥右衛門
一、御代田村  二百石    渋谷助左衛門
一、御代田村  二百石    佐藤 帯刀
一、小綱木村(町小綱木村)  二百石    氏家惣右衛門
一、大波村   二百石    栗原新左衛門
一、秋山村   二百石    高橋清十郎(清四郎)
一、小綱木村  二百石    佐藤与右衛門
一、飯野村(飯坂村)  二百石    渡辺弥次右衛門
一、飯坂村(飯野村)  二百石    関 帯刀
一、飯坂村(飯野村)  二百石    大河内藤治
一、飯坂村(飯野村)  二百石    高野馬之助
一、大久保村  二百石    高野 備中
一、大久保村  二百石    高野内蔵之介
一、大久保村  百五十石   高野次郎兵衛
一、大久保村  百石     佐藤 源内
一、大久保村  百石     佐藤新右衛門
一、大綱木村  百石     菅野八郎右衛門
一、小綱木村  百五十石   佐久間庄蔵
一、小綱木村  百石     菅野利左衛門
一、小綱木村  百五十石   蒲田(香野)三郎右衛門
一、松沢村   百五十石   斉藤十郎左衛門
一、羽田村   百五十石   佐藤平左衛門
一、松沢村(羽田村)   百五十石   斉藤(佐藤)次郎右衛門
一、飯坂村(飯野村)   百五十石   関太郎左衛門
一、松沢村(飯野村)   百石     本田彦十郎
一、飯野村   百石     高橋(高野)九右衛門
一、飯野村   百五十石   朝倉六郎左衛門
一、飯野村   百五十石   小和田彦作
一、飯坂村   百石     斉藤雅楽之助
一、飯坂村   百五十石   氏家孫兵衛
一、飯坂村   百五十石   斉藤(安斉)四郎左衛門
一、五十沢村  百五十石   菅野七郎兵衛
一、五十沢村  百五十石   渡辺助右衛門
一、五十沢村  百石     菅野次郎右衛門
一、五十沢村  百石     渡辺 隼人
一、五十沢村  百石     高橋 大学
一、五十沢村  百石     斎藤 清蔵
一、大波村   百五十石   安部清右衛門
一、布川村   百石     犬飼彦右衛門
一、秋山村(小神村)   百五十石   武藤 大学
一、秋山村   百五十石   金野(今野)金右衛門
一、小神村(秋山村)   百五十石   菅野(神野)与惣次
一、青木村   百五十石   阿曽平次郎
一、青木村   百五十石   白根沢将監
一、青木村   百五十石   斉藤縫之助
一、青木村   百五十石   斉藤 丹波
一、青木村   百五十石   阿曽内蔵之助
一、立子山村  百石     橋本内蔵之助
一、立子山村  百石     佐久間治郎左衛門
一、立子山村  百石     本田作兵衛
一、立子山村  百石     阿曽四郎右衛門
一、小島村   百石     佐藤彦右衛門(*17)

一、慶長六年十一月朔日、上杉景勝公前年出陣の際当社へ祈願のことありしが霊験顕著なるを以て福島城臣本庄越前守繁長を遣わし百二十五石の寄進書、並(ならび)に上杉家武運長久の為め(以下約十字欠)
一、元和三年三月十七日、上杉定勝公福島城代本庄出羽守充長を遣わし先例の如く社領寄進相続書、並に上杉家武運長久の為め(以下約十字欠)(*18)
一、寛永三年三月十五日、上杉定勝公の願、神祇官の執奏により朝廷より神階奉検正一位こと。(*19)
一、寛永十三年五月、上杉定勝公御寄進奉改造
  一、拝殿[八間三間半] 一、御石間[六間五間] 一、本殿[三間半三間]
一、承応二年五月十三日、上杉播磨守綱勝公福島城代臣本庄出羽守政長を遣わし(以下約三十五字欠)(*20)
一、寛文四年五月七日、上杉綱勝公薨ず。嗣なくして封土を削らるや同時に社領をも没収されたり。嗚呼遺憾なるかな、恰も一陣の天風颯と吹来って赫々たる神燈忽ち其光りを失いたる如く社頭寂々たり。社家愁うるも何ぞ及ぶべけんや。嗚呼歎じても猶余りあることぞや。(*21)
一、寛文五年四月八日夜、丑の上刻炎上す。偶風激烈にして糠塚山頂の火葬穢火飛び来りて大木の梢を焼く。忽ち拝殿幣殿本殿に延焼し、猛火防ぐの術なく社殿及び境内蓊鬱たる古木をも瞬時間にして灰燼に帰せり(以下約九字欠)無事たることを得たり。嗚呼これ千歳無辜の恨み事と云うべし。(*22)
一、寛文六年十月、惣氏子寄進社殿改造す。
 本殿[壱間半四面] 雨屋[四間五間] 拝殿[六間半三間]
一、安永七年正月十二日夜丑刻炎上す。御神体猛火(以下二十五字欠)(*23)
一、天明三年十月総氏子寄進、本殿改造す。続いて拝殿改立の計画ありたるも不幸にして大凶年に遭遇したるを以て遂にその目的を達せず。  本殿[一間四面] 雨屋[三間五間](*24)
一、抑も当社は官使の創立にして世々の征討使等の祈願奉幣のことあり。降(くだり)て中近古に至りて上杉家三代の祈願社となるや神威赫々として栄花その美を極む。然(さ)れども豈(あ)に不幸にして上杉家の削封となるや同時に社領没収せらるること始めとし続いて壮観偉麗を極むる殿堂一朝烏有に帰するを以て衰廃の原因此処に基づけり。社頭は年を逐(お)うて次第に少縮し僅かに一村落の叢祠に過ぎず、嗚呼挙げて歎ずべけんや。有志の君子有為の人主、造営を盛んにし社格を古昔に再興せしなば則(すなわち)千(あまた)庶幾(こいねがわくは)国豊かに民安んじて其神徳に帰らんか。識者弁焉(以下約二十字欠)(*25)
一、岳林寺、元亀三年[壬申]四月一日心悟和尚の開山にして由緒縁起詳(つばら)ならず。伝に曰く、当山は元上ノ坊なりと云う。然れども文献の徴すべき事なければ知り難し。(*26)
 宝暦十年二月十一日夜の四ツ時、上ノ内入野より野火洩出て未申(ひつじさる)の風激甚にして石砂を飛ばし忽ちの中に当村築舘町御代田布川石田の五ヶ村へ延焼し火勢猛烈にして防禦し難く、遂に四百軒余りを以て灰燼に帰せり(委しくは熊野宮社記録にあり)。此時当山寺門伽藍旧記過去帳に至るまで全く焼失す。(*27)
 同十一年三月十七日、食堂仏殿宝蔵の三殿を改造す。此時寺場今の地に移す。
一、薬師寺、治承四年西舘[月見ヶ城を云う]の地頭佐藤民部義忠の開基にして寺領百貫文の地を納む。観月和尚の開山なり。始めは女神山麓にありて寺門益々繁栄なりしが建武の頃山上より薬師の尊像を当山の麓へ奉遷するや寺門と共に稍々衰えて修繕の力なく遂に廃滅に帰せり。
 天正元年八月八日、紀州奈智の大智和尚巡錫し来りて廃寺の跡より薬師の尊像を掘り出しければ斉藤因幡なる者と相謀り眉間山頂上を伐開(きりひら)き一宇を建立して薬師の尊像を遷祭し猶(なお)麓に薬師寺を建立して再興す。(*28)
 元禄元年六月廿二日(註)薬師堂改造す。
 安政三年十二月三日、薬師寺炎上す、その砌古文書等焼失すと云う、嗚呼惜しいかな。
 (註)貞享五年九月丗日元禄に改元する従って六月廿二日は貞享年度である。
  千社札なる起因
一、本朝六十五代の花山法皇は御在位僅(わずか)三年早くも世の無常を感じ開眼上人を導師として剃髪し入覚とさえ御改名あり。後、西国三十三カ所の観世音を巡礼納札の御企てのありてより以来、今の千社納札と云うものの起りし所以(ゆえん)とあり。(*29)

*1@は渡辺家の家紋、三星一文字。
  「当時の伊藤氏」とは伊東直衛氏と思われる。
*2@は謬を省略した字。
  「尊像甚だ応(こたえ)あり」は「応験(おうげん)あり」がより相応しい。
  「時差を薦め」は「時羞(じしゅう)を薦(すす)め」の誤記か編者の誤読。「羞」は料理食品の意味。
  「粢盛」の「粢」には編者による「繁」の脇注あるも「繁盛」ではない。「粢」は黍や餅のこと。つまり「粢盛(しせい)」は供物。下の「具え」は「供え」が適字。
  「駿々として」は「駸々(しんしん)」であろう。勢いよく盛んになる意味。
*3「浮屠(ふと)」は元々「ブッダ」の音訳で僧侶一般をさす。それが「屠」の文字によって想起する屠所屠殺の言葉のため口調によっては「クソ坊主」ほどの気味合いになる。
*4この「何々云々」並びの文は筆者が読み齧りを羅列したか文法的にも読み下しにできないところがありそのまま写した。
  「気世」は「元気」の誤記。「君中経」は『老子中経』。その第三神仙に「東王父者 青陽之元気也 萬物之先也……治於東方 下在蓬莱山……其精気上為日……名曰伏羲」とある。 
  「東王父」は道教における男仙のトップ、「扶桑大帝東皇父」「東君」とも呼ぶ。古仙の西王母と対になるよう後代発案された神君。
  「十州記」は志怪小説集『海内十洲記』のこと。
  「三洞部」は道教の経典中「洞真、洞玄、洞神」の三部。「洞真部」は鬼神を呼び出す術らしいが私は読んでいない。
*5郡山に「宇奈己呂和気神社」がある。
  大伴家持陸奥按察使鎮守府将軍に任命されたのは延暦元(782)年と記す史書があり、また延暦三年に持節制東将軍、翌年鎮守府将軍と述べる書もある。家持の生年は養老年中718年頃、六十を超え大将として実際に多賀城へ赴任したかそれはわからない。延暦四年に没している。
*6「賊膚」は「賊虜」の誤記だろう。
  蝦夷の総帥「大墓公(たものきみ、おおものきみ)阿弖流為(あてるい)」が政府軍と最初に戦ったのは延暦八年、時の将軍紀古佐美(きのこさみ)を破った。坂上田村麻呂に降伏したのは延暦21(802)年のこと。前記女神山の項目にある文屋綿麿の制夷はそれより後、弘仁二(811)年。この折の東夷と大和政府三十年に及ぶ争いが決着した。日本武尊から幾度となく行われた大和政権の東征と神功皇后三韓征服を日本の神官は好んで言及する。
  「三羽の霊烏」。春日神社は鹿の導き、熊野神社は烏が導く。
*7「南部行基」は「南都」(奈良)の誤記。
*8この分村記述はでたらめ。
*9夜郎自大話法。「山舎田屋……寛々たる」は『信達風土雑記』の言葉。
*10天喜二年は1054年。頼義が貞任と戦ったのは天喜五年、一度敗れている。
*11永萬元年は1165年。「輪奐(りんかん)」とは美しく大きな建物のこと。
*12仁安三年は1168年。
*13大治三年は1128年。
*14建久七年は1196年。常陸入道念西は常陸海尊から義経の遺児を預けられた伝説がある、真偽不明。
   常陸国伊佐庄中村に住んでいた念西の、その四人の息子は文治五(1189)年頼朝の奥州征伐に従い石那坂の戦で佐藤庄司基治を討つ手柄あり伊達と信夫を与えられた。長男為宗は伊佐に戻り、念西が伊達へ移り。保原の高子岡に築城。名乗りも頼朝から一字拝領か伊達朝宗とした。後の仙台藩伊達家の始祖となる。念西の祖は藤原北家山蔭中納言と伝え、ゆえに藤原朝宗の記名がある。ただしこの家系は諸説あり。
*15延元二年は1337年。南朝の年号。
   顕家は親房の長子、陸奥守となって下向したのは元弘三年、時に数え年16。相伴う義良親王6歳であった。後醍醐の行った建武の中興が公家社家を厚遇したことに武家は反発し尊氏が叛旗を翻す。霊山に拠を移していた顕家が親王を奉戴して西上した延元二年はまだ20歳、転戦して翌年高師直と戦い和泉石津で敗死する。
 義良親王後醍醐天皇の第7子、延元四年、後村上天皇として南朝に立つ。
*16慶長五年は1600年。
*17この六十三騎については郷土史鈴木俊夫氏が寛永十五年に書かれた文書を発見し『小手郷文化』第一巻に発表した。『川俣町史Ⅰ」の記述はそれによる。記載の人の家系はほとんどが帰農後名主や在家層の地域ボスとなっている。
*18元和三年は1617年。
*19寛永三年は1626年。
*20承応二年は1653年。
*21寛文四年は1664年。
*22「偶風」という言葉は知らない。「颶風」かもしれない。
   「火葬穢火」の概念、とくに修験道では清い火と穢れ火の区別立てを厳密にする。
   原本は「千歳無こ」とあるのをお節介で「千歳無辜(せんざいむこ)」とした。
*23安永七年は1778年。
*24天明三年は1783年。
*25「則千庶幾国豊ニ民安して其神徳ニ帰ん乎」の読みはヤマ勘。「庶幾」は「こいねがわくは」と読む熟語としてあるが「千」の字が掛かる所なく浮く。「庶」と「幾」どちらも単独で「願う」の意味に使う。最初は「千庶(せんしょ)」「幾(こいねがわくは)」と読んでみた。無理筋だろう「千万」「千歳」などのように「千」の下に欠字があるか、或いは「于」かもしれない。「于(ここに)庶幾(こいねがわくは)」なら自然な読みになる。
*26元亀三年は1572年。
*27宝暦十年は1760年。
*28天正元年は1573年。
*29「花山(かざん)天皇」は右大臣道兼の策略により出家させられた。寛和二(986)年のこと。

『小手風土記』を現代仮名遣いにする26小嶋村及び奥付

 26、小嶋村(おじまむら)及び奥付
一、[十九社内]植田社御霊宮 神主菅野因幡
 御手洗、その滴り数反の公田を潤す。
 鳥居 階十二枚 長床
 本社 祭所 天御中主命(あまのみなかぬしのみこと)(*1)
一、薬師堂 近年梅松寺となる 地主高橋源右エ門
 三州鳳来寺峰の薬師を模し二菩薩十二神を安置す(*2)
 御服籠りは伝教大師の御作四寸八分の尊像なり (*3)
一、内宮外宮
一、熊野三所権現
一、深海地蔵堂 地主高橋弥兵衛(*4)
一、平内 加老(*5)
一、伊豆大権現 地主高橋小兵衛
一、狐石 四角なる石なり 下にうつろあり
一、天の逆石(アマのジャクいし) 石面に手のひらの跡あり
一、南 大槻あり
一、古賀坂堤
一、古内
一、地蔵堂 地主高橋伝右衛門
 古川備後と云う人居たりしとなり。今に城形わずかに残れり。仙台へ行きて高三百二十八貫三百九十八文、加美郡宮崎村所拝領して代々住すと云々。(*6)
一、皀樹(サイガシ)橋(*7)
 加老深海の流れここに落ちて小手川に合す。
一、小志貴宮
一、細橋堤
一、池ノ入 古舘[何人の居たるという事知らず 八幡宮あり 古舘の鎮守なりと云い伝う]
一、虚空蔵堂 修験 大善院
 往昔ある僧都、虚空蔵求聞持(こくぞうぐもんじ)の法を修せんとてこの山に一百日参籠し給う。五月ごろ皓月西山に隠れ明星東天に出る時、前川に閼伽水(あかみず)を汲むに光炎頓(とみ)に輝きて明星天堂の内に来影し、忽ち虚空蔵菩薩と現れ給うと言い伝えたる尊像なり。(*8)
 いにしえは五月十三日なりし縁日を近代三月廿三日に移したるとなり。
一、橋本橋
 池ノ入[岩屋あり二間四方程の岩穴なり 往古蝦夷住みけるとや]
一、壁屋橋
一、舘 梅松という人の旧地なるよし言い伝えたり。伊達俊宗の子か是非を知らず、後人猶考うべし。この舘の北にて手渡川小手川に合す。(*9)
一、熊野宮 菅野因幡
一、佐須奈辺稲荷大明神 舘の鎮守なりとぞ(*10)
一、念仏堂 京都知恩院末庵
一、上ノ橋
一、下ノ橋 両橋の間小嶋町駅
一、名号碑 六地蔵
 橋 階
 門 額 梅松寺
一、経塚山梅松寺
 当寺の旧地は上ノ橋より南に古碑あり、南無阿弥陀仏の六字も中は埋りて見分らず。その後今の地に移る。山号も梅松山と云いしに近代経塚山と改む。
 客殿の東には異石怪樹をならべ庭中に造化四時の風光玄妙にして比類なし。
 宝物石摺の観世音、我が朝に三幅渡りしその一ツなり。懐妊婦人産所にこの御影を安置すれば必ず安産ならしむ霊験あらたなり。(*11)
一、大乗妙典六十六部供養石 [願主]新関氏茂兵衛建 享保元[甲辰]年南呂(なんりょ)吉祥日(*12)
一、階十五枚 左に名号石[無能筆]並杉数株あり
 右に古碑あり銘は星霜ふりて見えがたし 階八枚
 地紙形(じがみがた)の手水石五輪あり、そのほか古碑多し。(*13)
一、阿弥陀堂[五間四面] 額往生山[福王@@筆](*14)
 四面に茂林脩竹ありて幽閑なる地なり。往古は安倍宗任の開基にして七堂伽藍巍々たりと云々。
 朝変暮化の世々山かたぶき谷埋れて其所々々も少なからず、阿弥陀堂の旧地は田の字(あざ)となり中御堂と唱いて印の榎あり。(*15)
 この寺の鐘、兵乱によりて伽藍回禄の後、木幡山へ賊徒等盗み取りて逃げ行きけるに俄に雨風激しくこの鐘自然に声を出して小島恋しと響きさまざまの不思儀ありけるによりて木幡山より当寺へ返せしと申し伝えたり。(*16)
 真言宗安養寺瑞光山と改む。この尊像は伝教大師の御作、一寸八分の尊像なり。
 当寺の鐘の銘に曰く
 奥州伊達郡小手之郷小嶋村往生山安養寺 願主別当法印大僧都実諺 享保三年[戊戌]春三月四日(*17)
一、亀岡山と云う 仙台へ移して亀岡八幡宮と崇め奉りぬ。往昔伊達俊宗公勧請にして深く敬い信仰ありしとや。
一、八幡宮 自然の大石数多有り
一、太郎坊山
一、御林
一、中嶋 道場 岸波
一、梅松宮
一、三百田
一、寄居館 伊達俊宗の居城なり
 御壺松 古墳なりと云う。今にこの松の根に手を入れれば腫るるとなり。
 御檀松 藤原俊宗古墳なりと云う。ある年、この塚をあばきて金銀を得たる人有り、即時に興隆寺回禄に及びしもそれゆえなりとぞ。(*18)
一、観音堂 小手三十番札所[九尺四面] 如意輪観音菩薩(*19)
 松山なり古木の桜あり
  慈悲の舟おしまに寄居万代もまふて来る身を松のむら立(*20)
一、蠶神(かいこがみ) 祭所 倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
一、比丘尼帰り 正徳年中ころ義縁法印とて蕭然と山居の僧有り。小手三十三番札所の観音の御詠歌作者なり。
一、修験 妙香院
一、反田(そりだ) 中屋敷 上平(かみだいら)
一、小嶋山興隆寺 階
 本尊は釈迦仏を安置し文殊普賢左右にす、大権(だいごん)達磨を脇檀に安置す。
 開山大檀那 伊達藤原俊宗
一、稲荷宮 興隆寺鎮守宮なり
一、冨士大権現
一、岩久
 いにしえこの地美良なりといえども水少なくして土地の利を尽すに不足たり。小手川の流れをここに更(かえ)んために岩をくりぬきて水を引寄せ田地に注ぐその功大なり。何人のなせる事か知らず。よりて岩くると云いしを下を略して岩くと唱う。(*21)
 古ヶ坂の流れこの下にて小手川に合す。
一、十三仏 一風和尚建立
一、観音堂
一、秋葉堂 天明元年建立
一、岩久橋 道平(どうたいら) 葭之内 狗石 内野山
一、御林 上杉中納言御領分の時、鷹を取りて米沢へ上げれば、鷹の住む所ならば深山たるべきとて御林となるとなり。寛永十六年己卯 山守 甚四郎。(*22)
一、修験 大中院(註2)
一、田代 @沢(*23)
一、地蔵堂 小手地蔵詣第三十番 地主 弥左エ門
一、蛇塚山(註3)
一、麓山大権現
一、阪 瀧 茂庭 新関 @股橋 細越橋[ここに石馬と云う石有り](*24)
 唱名橋 唱名 川の岩瀬に音高く白波みなぎりて太鼓などのように聞こゆるとぞ(*25)
一、地蔵堂 小手地蔵詣第廿九番 地主 甚四郎
一、六十三騎 二百石 左藤藤兵衛
一、小手の庄東にあたる村なり相馬領境
一、村高 千五百十四石五斗三升六合(註4)

註1及2一統「妙香院大善院大中院 各修験者 同郡大久保邨貴見院配下」
註3一統「むかし此山に大きなる蛇住みて人をなやましけるを麓山権現地蔵尊の御加護を以て其大蛇山中に埋めしとかや。故に此神仏を祭れると」
註4村高は朱書。後世加えたもの。

 時々(よりより)四方山川の勝(しょう)を遍覧し、昔人の経蹟を尋ねてその由縁を詳記し、これを全くして名づけて小手風土記と曰(い)う。(*26)
 嗚呼(ああ)聆(きく)、左思の博才だも蜀都の賦に歴年たりし所を況(いわん)や予が撰、年を渉(わた)らず、寡聞浅識、何(いつか)その耻(はじ)を雪(すす)がん。後の君子の遺漏を正し澡洗(そうせん)を俟(ま)つのみ。仲春廿一日、此君庵に於て書す。旹(とき)に天明八年なり。(*27)
  伊達郡又水駅 撰者 平義陳(*28)
  川又 渡辺弥左衛門

(註)猶常泉寺所蔵の「渡辺嘉兵衛本」の奥書は左の通りで、復刻の底本となった「弥左衛門本」より写したことが記されてある。
「原本虚字誤文多是ヲ改正ス可キトコロ予も不孝短才不解三ヶ所多者其儘に写す見る人予カ字誤と誹(そし)ることなか連(*28)
 明治十八年六月 渡辺嘉兵衛君た免
         青々写之
 元渡辺弥左衛門所有なるを金子青々君をして写之 渡辺嘉兵衛所有」とある。
 猶、註に「一本に」とあるのは嘉兵衛本をさす。

*1「天御中主神」は高御産巣日神神産巣日神造化三神の第一、宇宙存在そのもの、仏教なら大日如来の格か。頭や手足を持った個体としての姿形はない。『古事記』は「この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)と成りまして、身をかくしたまひき」と述べる。『日本書紀』では国常立尊(くにとこたちのみこと)、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)の三神、「乾道(あめのみち)獨(ひとり)化(な)す、所以(このゆえ)に此の純男(をとこかぎり)を成せり」と記す。
*2「三州」は参河国(みかわのくに)。薬師瑠璃光如来は日光月光の両菩薩を脇侍とし眷属の十二神将が並ぶ。
*3「御服籠り」の意味不明。一統はただ「本尊は」と記す。
*4「深海」は地名。住所表記では「ふかうみ」と記すも地元の方は「ふこみ」と発語する。
*5現在地名は「平四郎内」と「我楼」。
*6「古川備後」は「古内」の誤りだろう。「城形」を活字本と一統は「堀形」。
  一統は「古内館 舘中地蔵尊を安置す」。また一統は古内備後の所領を「三千二百八十石」と記すも一村でその石高はありえない。
*7「皀樹」は「皀莢(さいかち)」のこと。

*8この文は『都図会』「智福山法輪寺」から引き写し。
*9「伊達俊宗」は掛田城主懸田俊宗のこと。16世紀半ば、伊達家の稙宗と晴宗親子紛争天文の乱では稙宗側で働くも天文二十二(1553)年、家臣桜田親子の寝返りに敗北し斬られた。
*10「佐須奈辺(さすなべ)」は把手と注口のある鍋、酒を温めるのに用いる銚子(さしなべ)のことだろう。
*11「石摺」とは拓本。どこの観世音かは不明。
*12享保元年は丙申、1716年。「南呂」は旧暦八月のこと。「吉祥日」の「祥」をガリ版本は「拝」と誤記。
*13「地紙形」は扇形。
*14@@は米偏に全と、「沓」の字の日が田になっている文字。
*15「朝変暮化」の「暮」と「中御堂」の「御」を活字本は「普」「郷」と誤記。
  「其所々々も少なからず」を活字本は「其所々々もすくならず」とさらに変な日本語、一統が「其所も定かならず」としてまともな日本語。
*16「回禄」は火災の事。「雨風」を活字本は「南風」。「不思儀」を活字本は「不思義」、一統は「不審議」。これは「不思議」でかまわない。
*17僧都名「実諺」を一統は「実誘」。「戊戌」をガリ版本は「戌戌」と誤記。
*18「回禄」を「回録」と誤記。
*19「菩薩」は二文字を一字にする草冠を二つ重ねた略字体の筆記。編集者が(尊)カと脇注したのは誤り。
*20声に出して読めば「じひのふね おじまによりい まんだいも もうでくるみを まつのむらだち」。
*21「岩くる」は「岩刳る」。現在の地名表記は「岩阿久(いわご)」。
*22「寛永十六年」は1639年。
*23@は金偏に内を縦に二つ並べた文字、(濁)カと脇ルビ。これは活字本の「鍋沢」が正。
*24@は月偏に夾。活字本は「膝股橋」。現在地名に「房又」があり、「総股橋」ではないかと推測する。
*25「唱名」を活字本は「唱石」、一統は「鳴石」。太鼓のように聞こえるなら「鳴石」が正しかろう。
*26この奥付は『都図会』の後記を写した文。書名、住居、年月を変えている。
*27「嗚呼」の「嗚」を活字本は「鳴」。これは筆記における筆の滑りでよくある誤字。
  「聆」は「聴」と同義、ガリ版本は「キリ」と誤ったルビ。
  「博才だも」の「だも」は何々でさえもを意味する副詞。(晋の人、博学の左思でさえも十年の歳月をかけて『三都賦』を完成させ洛陽の紙価を高めた。比べ菲才の私は筆耕とて一年にも及ばず、遺漏誤りもあろうし、いつか汚名を払いたいものだが後世の方々、誤りを正し欠を埋めてくださらんか)の文意。
  「此君庵」は活字本金子氏の筆記も「此」。「此の君の庵に於いて書す」として三浦氏は渡辺弥左衛門宅で筆耕を終えたの意味にとることもできる。しかし三浦氏の俳号「比君庵真丹」によるであろう。これは芭蕉庵桃青に模した名の構えで「びくんあんしんたん」と読める。「びくん」は「微醺」、「丹」は赤色、名の意味は「酔っばらって真っ赤」。
  「旹」の文字は「山レ日」を縦並べした不明字、現代では使われないので編集者も迷ったと見える。
*28「予も不孝短才不解三ヶ所多者其儘に写す」を活字本は「予も不学短才不解のケ所多は其儘に写す」。「の」は「之」の筆記。ガリ版本の編者は「学」を「孝」、「之」を「三」と読み誤った。

 「誹ることなか連」を活字本金子氏の筆記は「咎ることなか連」。「咎る」は「とがむ(め)る」「そしる」どちらにも読む。これだけ誤字と誤記の多い書冊を書き写したのだから金子氏の愚痴も正当ではある。(誤字があったってボクチャンの責任じゃないもんねー)の態度。これは現代も町のホームページに文献から誤字をそのまま写して注も置かず平然たる役人と同じ態度になる。
*29「平義陳」。活字本の解説によると三浦甚十郎氏の三代後が幕末期にぶ厚い家系図を書いており、筆頭は桓武天皇の子葛原(かづはら)親王とのこと。ゆえに桓武平氏の名乗り、「義陳(よしのぶ)」は字(あざな)。

 嗚呼聞く、博才の左思にして大著『三都賦』を完成さするに十年要せしを。我が菲才この小記に筆染めてより一年有半を過ぎたり。原本の誤字と誤記その八割は指摘しえたりと自負せしも却りて我がなしたる誤字誤記入力ミスまた多かるべし。後の人の澡洗を俟つのみ。季は旧暦元旦、歳は令和五年なり。破牆傾柱の陋居に之を記す。
   川俣町住人 佐藤幹夫
   日本では神も仏も八百万 凡脳

 と、まあ奥付まで書いてしまったもののまだ下書き、すでに加筆訂正したい箇所が二十ほどあり、その後ワード文書に落し込みプリントしてようやく知人に渡せる形になる。たぶんひと月後であろう。

 

『小手風土記』を現代仮名遣いにする25下手渡村

 25、下手渡村(しもてどむら)(註1)
一、熊野宮[不納六畝廿五歩] 菅野助太夫
 鳥居階 松数株あり
 祭所 伊弉並尊 事解男神 速玉男神
一、亀居館(註2)上杉家臣 手渡周防の居城なり(大内周防と云いし者か)。
 漆久保 上代 寺久保(*1)
一、小手廿八番札所観音堂[七尺四面] 聖観世音菩薩
 上代観音堂旧地、ゆえありて大破す。今、耕雲寺十王堂内に安置す、よりてこの所に札打つなり。
  法の華根こしてここにうへの台深き色香を手折りてぞ知る(*2)
一、耕雲寺 禅宗頭陀寺末寺
 いにしえ伽羅山と云いし、中近高広山と云いしを近代東光山と改む。不納一反八畝歩。
 開山頭陀九世金菊全室大和尚(*3)
 門前に池あり、白山大権現の宮あり。
一、小手地蔵詣第一番
 小手地蔵詣は耕雲寺淵丈和尚始められたるなり。(*4)
 宝暦十一年[辛巳]九月、三十三番地蔵詣始まる。(*5)
一、稲荷大明神 搦手(カラメテ) 菅野庄太夫
 不納一反三畝六歩 俗呼んでからめていなりと云う。
 この社、蚕養(こがい)守護神なり。蚕養の夜風除(よかぜよけ)の願上すれば、その家に使わしめの蛇来たりて鼠を防ぐ。霊応水月の如し。(*6)
一、御影像稲荷大明神
 その舘主の影像を納めし処を御影像と云う。土俗あやまりておゑんそうと唱う。
一、樋ノ口(といのくち) 天平(てんだいら)
一、文殊
一、地蔵堂 小手地蔵詣第一番 [天平]地主喜八(*7)
一、作ノ内 蟹沢 延田[上下] 河原
一、阿弥陀堂 原の阿弥陀行基の御作 地主磯右衛門
 行基菩薩は泉州大鳥郡の人なり、姓は高志(こし)氏百済国王の孫なり。天平二十一年に菩薩号、二月二日寂す。八十二歳。(*8)
一、朝日地蔵堂(註3) 石仏なり、坂本という処に有り、田と畑との間に有り、杉一本有り。(*9)
一、駅の端に石有り、二尺ばかりの石なり。この石を縛れば小児の咳とまると云い伝えて願上に侍(はべ)るなり。(*10)
一、大榎
一、御竹薮[長さ十六間 横十七間]三反四畝歩 山守 市十郎 六右エ門
一、村高 六百石七斗六升六合
 文化三年寅年 筑後三池より来たる一万石領主 立花碩之助(*11)

註1一統「封邑。立花長門守殿御在所」
註2同右「漆窪と云ふ所に在り、昔日此窪に亀住て人を…慶長年中上杉家の手渡周防守…其亀を土中に封じ…館を築き…居住しける故亀居と」名付く。「又当邨に手渡を名付しと云…此人後に…大内」と姓を改めた由。
註3同右「土人相説に木曾殿御内畠某此地に来り亡君の為建立せりと云」

*1「漆久保」を活字本は「染久保」。現在地名「漆防(うるしぼう)」。「上代」を一統は「植の台」、現在は「上代」で読みは「うわだい」。「寺久保」の現在表記は「寺窪」。
*2「根こして」は「根こじて」の意、「根掘じ」は根ごと掘って移植すること。一統は「根越して」と誤読。
*3「金菊全室」は「金室全菊」の誤写であろう。
*4「淵丈」を一統は編集者が「淵大」と誤読。
*5「宝暦十一年」は1761年。この『小手風土記』には第二十一番札所が無く、二十三番札所が三ヶ所あることを私は気づかず『月舘町史』の記述で知った。誤写であろう。一覧表は観音詣でと共に『月舘町史Ⅰ』にある。
*6「夜風除」をガリ版本は「度風除」と意味不明ゆえ活字本に従った。「其家」を活字本は「我家」。
*7「喜八」を活字本と一統は「善八」。
*8ガリ版本は年号の「天平」を「天正」と誤る。
*9「杉一本有」を活字本は「杦(すぎ)三本有」と誤記。
*10「縛れば」を活字本は「転れば」と誤記。「願上に侍(はべ)る」をガリ版本は「願上に待る」、活字本は「願上に転る」。
*11後年の追記。「立花碩之助」は「立花順之助種善」。一統は移封の年を文化二年と誤る。

『小手風土記』を現代仮名遣いにする24上手渡村

 24、上手渡村(かみてどむら)
一、[小手十九社]甑敷(こしき)大明神 渡部薩摩守(*1)
 祭所 天児屋根命なり。久代甑敷内より光輝きて託宣あるによりて鎮座すと云々。この手渡村にて今に甑敷を用いざるはこの謂れなりとぞ。
 遠鳥居[松二本有り] ここを鳥居所と字す。
 階五枚 石鳥居 石額 小志貴宮
 銘に曰く 安永四年[乙未]建立 渡部薩摩守
 拝殿[二間に五間]掛作り 階十九枚
 本社 祭礼三月十九日
一、麓山大権現
一、秋葉山大権現
一、地蔵堂 小手地蔵詣三十三番 立石 [地主]作兵衛(*2)
一、道祖神
 猿田彦命 伊勢国度会(わたらい)郡 大土公の神社を移せしと云う。(*3)
一、観音堂 小手廿九番札所 するすの田(*4)
  音もせずひくかあらぬかするすの田なのみも米の大悲なるらん
一、地蔵堂 小手地蔵詣三十三番[するすの田 地主紋右衛門][観音堂地内]
一、月読宮(つきよみのみや) 長屋
 祭所 月読命 土俗、お月の宮と唱う(*5)
 伊勢国度会月読社、また山城国葛野(カドノ)郡月読社を松尾の南に遷すよし文徳実録に出でたり。文徳天皇御宇、仁寿三[癸酉]年、疱瘡大いに流行し諸人これを愁う。この時当社の神託ありてその害を救い給う。是よりして貴賎疱瘡の災(ワザワイ)を免(マヌカレ)んためこの社に詣で神のたすけを祈るよし三代実録に有り。(*6)
 当社の勧請いつの頃という事不詳。
  影見れば秋にかぎらぬ名なりけり花面白き月よみの森
一、番匠内 小屋(*7)
 嘉祥年中、山蔭公春日大明神建立の砌、ここにて材木を切り、杣取(そまとり)木挽(こびき)の小屋掛けたるによりて字(あざ)を小屋と云い、大工の居りたるところを番匠内と云うと言い伝えたり。
一、地蔵堂 小手地蔵詣三十二番[番匠内]地主権右衛門
 南ヶ作 六角 冬室 経塚 谷本
 聖帰り あるひぢり、家有る事を尋ね得ずして帰りしゆえ名付くと云えり。一説に聖還俗(げんぞく)してここに住みたるゆえ字(あざ)とすとも云えり。(*8)
一、稲荷宮 舘石と云う大石有り 織姫御前
一、地蔵堂 小手地蔵詣三十一番 舘石
一、秋葉堂 惣善宮(*9)
一、庚申碑
 比叡山の三猿堂、伝教大師天台の不見不聞不言を以て三諦(さんたい)に表わし土の猿を作り給う。不見不聞不言(みず、きかず、いわず)の和語を以て猿の形とす。
 また申の字儀も有り、所々の庚申の碑にこの形を祭るは申(さる)の謂(いい)なりとぞ。
  見ず聞かずいはざるまではつなげども思はざるこそつながれもせず(*10)
一、舘跡
一、元禄九[丙子]年、室七郎左衛門様御支配の節、上下両村に分る。(*11)
一、村高 五百六十八石二斗三升四合(朱書)(註1)
一、六十三騎 二百五十石 斎藤又右衛門(註2)

註1,2 いづれも後に書き加えられたものである。村高の方は朱書である。

*1「甑(こしき)」は蒸し器。「渡部」を活字本は「渡辺」。一統「甑敷宮…所謂春日大明神なり」。
*2「三十三番」を活字本と一統は「三十一番」。また、数行後の「地蔵堂 舘石」は繰り返し。
*3「大土公」は「土公神(どくじん)」。陰陽道の土の神。一統は「土」を「工」と誤記。
*4「するすの田」の地名は現在「摺臼田(すりうすた)」。
*5月読尊は天照大神の弟。太陽神と月神の間柄はギリシャ神話と逆。古代の発音は「つくよみ」、「読」は数えること。
*6この文は『都図会』「月読社」から引き写し。活字本は「祈るよし」を「祈るより」と誤写。なお、『三代実録』仁寿三年の項にその記述なし。
*7「番匠内」と「小屋」の現在地名は「馬城内(ばじろうち)」と「古屋(こや)」。
*8「聖帰り」の現在地名は「聖ヶ入(ひじりがいり)」。「家ある事を尋ね得ず」では文章として不十分、一統は「坊家ある事を尋得ず」。
*9「惣善宮」の文字、ガリ版本に無し。一統は「総善宮」と書く。
*10この項、菊岡沾涼『諸国里人談』「三猿堂」から引き写し。ガリ版本と活字本は「三諦」を「三蹄」と誤記。一統は見ず聞かずの歌のあとに「聞けばこそ喜しくもあり腹も立ち聞かざるは実にまさるなるべし」と置き洒落ている。
*11元禄九年は1696年。

『小手風土記』を現代仮名遣いにする23下糠田村

 23、下糠田村(註1)
一、赤城大明神[小手十九社] 神主伊藤讃岐守
 土御門御宇 元久年中遷座という
 祭所 経津主神(ふつぬしのかみ) 元文二年[丁巳]正一位神階(*1)
 当社は専ら武運長久の弓箭の御守神なり。神徳の広大なる事なかなか拙き筆に書きちらさんは恐れあれば記すにあたわず。
 土人の言い伝えたるには上州細布(註2)というところより遷座なりと。今、掛田村桑嶋與惣左衛門、当社の鍵持つなりと云う。
 [○赤城大明神、天禄三年上野国勢多郡赤城山より同村広瀬川辺細布森(今の落舘明神ノ森これなり)に遷す。元久年中、田代五左衛門先祖、字本山(今本山神社これなり)に遷す。天正中須伯耆守親重なる者、城郭の腰に遷座して城内守護の奉仰す。のち仙台(米沢の誤りか)に移るや同時に遷座すと云う。](*2)
 [○姥ケ懐山舘、天正伊達輝宗羽州長井庄資福寺に葬るその時他に在して殉死すと云う(仙台御藩祖成蹟にあり)。後、須田家政宗に従い仙台に移る。(*3)
 古舘、天正年中、小柳太郎左衛門の居舘、臣本田某なる者あり伊達輝宗と語らい主人を落城す。輝宗、本田の逆臣なるを憎みこれを退く。後、布川に居住す。今の本田家これなり。小柳太郎左衛門は伊達家の臣となり、のち伊達家と共に仙台に移ると云えり。](*4)
一、石橋二枚 鳥居石ノ額正一位赤祇大明神
一、石燈籠二基[天明八年戊申 六月吉辰]願主 菅野新四郎(*5)
一、階二十六檀 長床[三間七間] 手水石 鉢敷石 大木数株有り
一、末社蠶養神
 細布 大ヶ谷 鎌ヶ入
一、真徳寺
 開山頭陀八世日慶伝朔大和尚
一、築舘城主須田伯耆居す 米沢官臣(*6)
一、宝筺院陀羅尼塔[寛政二戌年建] 願主菅野氏(*7)
一、小手廿六番札所三十三観音を安置す 安永酉年(註4) 願主菅野新左エ門
 清浄庵
  ここに来てめぐるつきたて清浄のかねのひびきにあくる東雲
 清浄庵鐘銘に曰く、奥州伊達郡築舘町清浄庵
 二代同州安達郡二本松渋川村日向(ひなた)火断木食(*8)
 寿福院 願主 月照海上人 願主 菅野新左エ門(*9)
 于時享保八[癸卯]天 九月晦日
一、稲荷宮 階二十一檀 石鳥居石額
一、天神宮(註5) 石の宮殿 地主 菅野新左エ門
 天明二年丑(註6)建立
一、愛宕山大権現[堂二間半四面] 別当修験清水寺(註8)
 それ、あたご山は地蔵龍樹摂化の地として唐の五台山の風景に似たるとかや。大唐の日羅の変化(へんげ)なり。勝軍地蔵は修羅闘諍の瞋恚(シンイ)を調伏し太平静謐の守護をくわえ給う忍辱(にんにく)慈悲の尊体なれば、それ利益あまねく衆生に施し給う。かのゆえにとおくこの地に勧請あり。その徳いよいよ高くして太平鎮護の安全まもり給う事あやまりなしとかや。(*10)
 この山に登りて眺望するに絶景なり。石段高くして二百九十七階あり、勇壮の者ならではこの坂よりのぼる事かたし。
一、石燈籠二基 銘に曰く[天明三年六月吉日] 願主菅野萬五郎
一、石燈籠二基 銘に曰く[奉納御宝前天明八年戌申六月吉辰] 願主菅野新四郎(*11)
一、大石数あり手水石物見石
一、十王堂(註7)[一間四面] 修験 大徳院(註9)(*12)
一、(空白) 修験 行清
一、包石 いにしえこの石落したりしに一夜の内に元の如く居りたると土人云い伝えたり。
  神秘ぞと包みし石の心かな 比君庵
一、琵琶石
  びわの名や石吹風も秋の声 画水
一、座頭石
  わらひには探る手もあり夜の石 以柏(*13)
一、伝女石[原本には@女石と書いてある。「@1」は「専」であり「@2」=「寺」ではない](*14)
  伝女石の後ろむすびや葛の節 蔵六(*15)
一、傾城石
  嘘や買ふて傾城石に苔の華 水舟老人亀六(*16)
一、西舘(註10)信夫城主佐藤庄司一門佐藤民部居す@(*17)
一、古田 片筆(*18)
一、目倫木山御林(*19)
一、合葭(アイヨシ)
一、六十三騎 簱頭 知行二百石 足軽五十人 田代五左衛門

註1一統「封邑」
註2同右「細布は東奥の古事なり此地も古は細布をおりし事も有しか」
註3この細字の部分は後に書き加えたものである。
註4安永酉年は安永六年に当る。
註5一統「三月二十五日祭礼」
註6天明二年は[壬寅]で同元年が[辛丑]である。
註7一統「閻魔の廰安置す十王一体なり」
註8同右「清水寺修験者当社別当…大久保貴見院配下」
註9同右「大法院正善院各修験者…大久保邨貴見院配下」
註10同右「須田伯耆守居住…東の方大手のよし北の方社あり…一説に元暦年中(元暦は二年で改元文治元年となる)…佐藤庄司基治が一門同苗民部と云人居住せる由」
註、本文には記されていないが一統志には
一、古碑
 貞治六年二月三日建立(*20)
 信達歌云利蝕一宇不存可惜(*21)
 按北朝貞治六年當南朝正平二十二年
 是時南朝将帥新田公楠公及義興等已戦死而唯正儀存焉(*22)
 如我信達間亦既奉北朝正朔者可以相隻時勢云々(*23)
 安政二[乙卯]歳迄四百五十八年也

*1遷座の年号元久は1204年の改元、神階を受けた元文二年は1737年。一統は「赤城」を「赤坂」と、また次の文の鍵の持ち主の名「桑嶋」を「来島」と誤記。
*2この○印の文は後人の書き込みで活字本には無い。天禄三年は平安中期の973年、天正は1580年前後の年号。
 「(米沢の誤りか)」は編集者の脇注。
*3殉死は須田伯耆。輝宗の死は1585(天正13)年。
  ガリ版本は「他ニ在フテ」と記すが「シ」を「フ」に書き誤ったと解し「在して」と直した。声に出して読むには「ざいして」「おわして」どちらでもよい。
  また、須田伯耆の子も須田伯耆を名乗っており、1590年に伊達政宗一揆を煽動したと氏郷に讒訴した記録が残る。その名を「親重」と記述する書冊もあり、今の私にそれを詮索する時間はない。
  「仙台御藩祖成蹟」の「成」にママのルビ。『仙台藩祖成蹟』のことでルビ不要。
  「長井庄」は現在の山形県長井市、資福寺は1280年頃の建立と伝え、後年、伊達氏夏茂城の一部になり輝宗の子政宗もここで育った。
  寺が城郭の機能を持つことは自然で飯坂の頭陀寺や立子山の一円寺なども地形にそれが見て取れる。城は大勢が雨風を凌ぎ寝起きできる建屋、武器兵糧の倉庫と兵馬の集まる平坦地、敵の進攻を防ぐ堀などからなる。世間の名城に見るような高層の天守閣や石垣が必須というわけではない。里山を歩くと草や雑木の茂りに隠れた切岸や削平地など昔の砦か山城をしのばせる地形をいくらも見る。
*4「古舘」は隣の布川村にある。「こだち」「ふるだて」読み不明。
*5ガリ版本は「戊申」を「戌申」と誤記。
*6「官臣」は「家臣」であろう。「米沢」とは上杉家。
*7寛政二年は1790年、『小手風土記』成立は1788年、つまり後年の追記か寛永など年号表記の誤りかそれはわからない。
*8「火断木食」(ひだちもくじき、かだんもくじき)は煮炊きを要する五穀十穀を去り、木の実や草の根を食べる。修験道では即身仏への第一段階修行、この修行を行った人を木食上人と呼ぶ。実際には鳥獣同士の戦いに敗死したものを焼くなど火食もする。稲作渡来以前の食生活に近い。
*9渋川村日向の寿福院は地名と寺、そして大日如来像、どれも現存する。寺は正徳五(1715)年に月照海の造立。上人は湯殿山に参籠して奥儀を得たと伝わる。僧の三字名は珍しく特定の一宗派が用いたかと考えたが曹洞宗常泉寺歴代住職墓誌には寛永から明和までの間に四人の三字名があった。当時は珍しくなかったかもしれない。ただ月照海の名については戸川安章氏の記述で解を得た。山外禁足の特殊で厳しい修行をした一世別行(いっせべつぎょう)者が行人と呼ばれ上人号を允(ゆる)された。諱(いみな)の下に海字をつけたと。
 寿福院の大日如来像は川俣の町飯坂にある大日如来と対になっている。
 その像について述べるのでここの注は長い文になる。
 密教系の大日如来金剛界胎蔵界の二像を対とする。この二像のわかり易い違いは手の形、印相(いんぞう)にある。
 金剛界大日如来は左手の人差指を立てそれを右手で握る、拳が上下に重なる形、親指は共に内側に握る。これを智拳印(ちけんいん)と呼ぶ。
 胎蔵界大日如来は座禅僧の姿で馴染の掌を上向きに重ね親指を触れ合わせた形、これは法界定印(ほっかいじょういん)と呼ぶ。
 印相の意味合いなら検索すればいくらでも出る。信仰者には納得の説明も不信心の私にはどれも漠とした言葉事でしかない。
 それは措いて、川俣大日堂の川向かいに金剛界の摩崖仏があり、月照海上人はその対になるよう胎蔵界を置こうとしたのではないか、その理由が台座の刻銘に書かれていないか。調べる中で渋川にある像の台座蓮弁に刻まれた銘の写しを『月舘町史Ⅰ』p410に見つけた。両脇の寄進者名は省き、正面蓮弁の由緒書を転記する。

  奥州安達郡渋川村火断木食
  上人月照誓願勧化男女
  一万人造立金胎両部之大日
  尊像然余素清貧有志而無力
  如短□不及痒處依之欲募一
  人六銭於一万人以遂所志手
  携化冊周施諸方則有志之士
  女□資財助余願夥焉是故両
  部之鋳像不日成□金界安置
  奥州安達郡渋川村胎界安置
  同国伊達郡川俣村古師所謂一
  縷不能制象必依多孫嗟非翅
  能所求願満耳教後来若干有
  縁人殖現常因不亦大乎
  于旹正徳五年乙未十二月吉辰
    奥州宇多郡中村城下□
    鋳像師 斎藤別当
         勘左右衛門尉
           藤原良實

 『小手風土記』の文ではないがこれまで同様デタラメ読みを試みる。補足資料は二本松市役所から送っていただいた渋川の如来像全体の写真(これの台座部分を拡大すれば一点一画は無理も文字の輪郭はつかめる)と、私自身が実際に見た川俣の如来像銘(こちらは町指定文化財とてガラス板に覆われ読めるのは正面蓮弁のみ、しかも台座湾曲部にある行末の二字分は読めない)の二つ。
 まず単語の説明や欠字誤字などの指摘をする。
 2行目「勧化(かんげ)」は仏の教えを広めるというのが本来の意味、実際は寄附集めを指す。
 5行目の□は偏が「眉」の字の目を月にしたかたち、旁は「辛」。これは「臂」と読んだ。背中が痒いけれど手が短くて届かない。
 6行目の「六」は月舘町史で行の二字目にあるも渋川像の写真では行頭にあってなを「文」とも読める。川俣像でも数字は行頭でその数は「一」。前行の末字を読めず確かなことは言えないが「募一人六銭」ではなく「募一文銭」としてみた。どなたか確認していただきたい。
 7行目の「化冊(かさつ)」とは奉加帳のこと。また月舘町史の「周施」は誤記で渋川像の写真でも「周旋」。
 8行目の□は明らかに「抛」。
 9行目の□は置字の「矣」。
 11行目の「所謂」は「いわゆる」の読みが一般的だけれど音調と意味合いに少々ズレを感じ、字のまま「謂う所」と読んだ。
 12行目の「一縷不能制象 必依多孫」。
  「制象」を二字熟語として読めば法律や掟の意味。しかしここでの「制」は「製」「つくる」の意味で用いている。『詩経』に「制彼裳衣(かのしょういをつくる)」の句あり。「象」は「かたち」。
  「孫」は「絲」を誤読したもの。刻銘は「系」が二つ横並びの形をしている。「多孫」では別の意味になってしまう。
  この句は『盂蘭盆経略疏』の「一縷不能制象。必假多絲。一人不能制業。必資衆徳」から引用したもの。「假」が「依」になるも意味は合う。餓鬼道に落ちた亡母をどうしたら救えるか尋ねた目犍連に釈迦が言った言葉。糸一本で服は作れない、必ず多くの糸から布を作り服の形にする。同じように人一人の力ではどうにもできない、衆徳の助けが必要だ。そこで十方衆僧を供養し目犍連の母は成仏できた。これが毎年雨安居(うあんご)のあける旧暦七月十五日を祖先供養の日と定めた由縁。『盂蘭盆経』は釈迦の言葉が入っているも中国僧竺法護による偽経の疑いあり。『盂蘭盆経略疏』は宗密(しゅうみつ)によるその注釈書、平安時代日本に入り盂蘭盆会は広く日本の習俗となった。
  「嗟非翅(ああ、つばさにあらず)」。この「翅」に対応する言葉が前後に見出せず、ヤマ勘で死者が天上界に昇るのは翅によるのではなく衆多の供養によると解した。
 13行目の「能所」は思弁の場合働きかける側と働きかけられる側の二面を言う。仏家の用いる「能化(のうけ)」「所化(しょけ)」は菩薩と衆生を指す。
  「求願(ぐがん)」は極楽往生への願いと解した。「後来」は「将来」。
  「若干」を現代では「少しばかり」の意味で用いるが一でもあり十でもある不定数のことで「たくさん」の意味に使う場合もある。
 14行目の「現当」は現在と当来(将来)の二世(にせ)。
  月舘町史の記述は「因」の上にある「福」の字を欠く。
  「不亦…乎(また…ならずや)」は定型句。
 15行目の「旹」は「時」の古字、川俣像では「時」になっている。「于時」は「ときに」と読む。
  「正徳五年」は1715年、「吉辰(きっしん)」は「好日」の意味。「年」の字を川俣像は「季」とする。
 ついでの話、私はこの鋳物師の名前が読めない。「斎藤別当 勘左右衛門尉(かんぞうえもんのじょう) 藤原良實」この方は斎藤勘左右衛門爺さんだろうか。「別当」は多義あって高家たる斎藤家で家宰を勤めている勘左右衛門爺さん、又の名が藤原良実さんなのか。「尉(じょう)」は判官か翁、先祖は蔵人や検非違使だったと表明しているのか。家系の始祖は藤原鎌足や秀郷と誇示して藤原名乗りか。隣にお住いの方から斎藤さんと呼ばれたか藤原さんか、この方の子供時代の呼び名はカンちゃんかヨッちゃんか、それがわからない。教えを乞う。

 奥州安達郡渋川村、火断木食上人月照海、男女一万人を勧化(かんげ)し、金胎(こんたい)両部の大日尊像を造立(ぞうりゅう)せんと誓願す。
 然るに余は素(もと)より清貧、志有りても無力、短臂の痒処に及ばざる如し。之に依りて一文銭を一万人に募り所志を遂げんと欲す。
 化冊(かさつ)を手に携え諸方を周旋すれば則(すなわ)ち有志の士女、資財を抛(なげう)ち余が願いを助くること夥し。是故(これゆえ)両部の鋳造不日にして成る。
 金界、奥州安達郡渋川村に安置す。
 胎界、同国伊達郡川俣村に安置す。
 古師の謂う所「一縷(いちる)制象す能(あた)わず、必ず多絲に依る」と。
 嗟(ああ)、翅(つばさ)にあらず。能所が求願(ぐがん)は耳に満てり。教えは後来若干(いくばく)も有縁(うえん)の人へ現当福因を殖(ふ)やさんこと亦(また)大ならずや。
 于時(ときに)正徳五年乙未十二月吉辰

 銘に刻まれた金剛界胎蔵界の配置が渋川と川俣で逆になっており、その原因を空想すれば口留蕃所での取り違えが浮かぶ。
 像は台座が下向き蓮弁と上向き蓮弁の二段重ね、それへ仏体が乗り、頭に五仏宝冠を載せる。後ろに輪光背、部品数なら5になる。冠や光背は人が背負うこともできようがおそらくそれぞれを薦包みにして牛馬に載せるか荷車を牽かせるかしたであろう。海岸沿いの中村城下から阿武隈高地へ登る。差配は塩商人が請け負ったかもしれない。国境の番所では荷改めが行われ薦を解く。再梱包の折に行き先である川俣と渋川の札を刺し間違えたなどはありうる話になる。川俣で一体分を下ろし、そこで胎蔵界でないと気づく人がいれば良かったけれど知識を持つ人なく胎蔵界像は渋川に運ばれた。渋川の月照海上人が「まあ、ええよ」と言ったかどうか、像の再配置は行われず現在に至っている。
 上人の本拠地が渋川ならば川俣にも有力な支持者が居たのだろう。現在では川俣と渋川に接点はないけれど天保の頃に下手渡藩主となった立花氏の参勤交代ルートは小島、羽田、西飯野、小沢を経て二本松の奥州街道に出る。その小沢が渋川村。当時は幹線道路に準ずる一筋道があって人と物の往来があったと見る。
 『小手風土記』成立の1788年はすでにこの像が置かれていたはず、しかも三浦甚十郎氏の住居から歩いて五分の大日堂記述は「唐銅大仏也寛文元辛丑鋳所也」となっているのがわからない。
 月舘町史によると月照海上人は九州の生まれ、天台宗の羽黒ではなく真言宗湯殿山で修行し、山を下りてからも木食を生涯続けた一世行人であったという。
 また「伝承では」と前置きし月照海は相馬の殿様の病気治癒のため千日祈願を行ない効験の礼を受けて大日像を建立したと記す。従って銘に並ぶ寄進者名で相馬人の名があることや中村城下の鋳造である説明になる。ただし秋山の小蓰王祠にある梵鐘も相馬の鋳物師によるもので小手郷には大型の鋳物を造る職人が居なかったとも言える。
 寄進者名には「霞春童女」「初夏童子」「妙松信女」など法名も数多く、この大日像が追善供養として造立されたことが窺える。
 とまれ上人の行動範囲は広く、享保六(1721)年には十万人講を立ち上げ二本松の薬師堂に宝篋印塔を建立し、享保八年は本文にある清浄庵と寿福院の鐘を造っている。没年は元文四(1739)年、墓は渋川にある。

*10「龍樹」は西暦200年頃のインド僧、空(くう)の観念を整理した。海中の竜宮から『華厳経』を持ち来たった説話もある。
 「日羅」は伝説の人。この書では大唐とあるも『日本書紀』では敏達天皇百済から招いた高官であり日本で暗殺された。聖徳太子伝説では百済の高僧、日本に三つの寺を建立している。それがいかなる理由か愛宕山伝説では天竺の人に変り魔王の仲間入りをしている。『都図会』が「一説には天竺の日羅、唐土(もろこし)の是界(ぜがい)、日本の太郎坊、この三鬼は衆魔の大将なり」と記したのは『阿多古山縁起』か『愛宕山神道縁起』の文であろう。『日本書紀』の記述ではその身から光を放ったという。
 「闘諍」を活字本は「闘浄」と誤記。
*11「戌」は「戊」。
*12「大徳院」を活字本は「大法院」。
*13「以柏」の「以」に(似)カと脇注。活字本は「以白」、一統は「一拍」。
*14「伝女石」は「傳女石」の筆記。その「傳」に(待)カと脇注。
 @1と@2は専と寺の草字体。
 「傳」の字を活字本はすべて「傅」と誤るもこの文字に関しては「傅女(いつきめ・もりめ)」と解することもできる。「でんじょいし」ではありえない。
*15「葛」にクもしくはカと読める送り仮名あり。一統は「ツタ」とルビする。また「後ろむすひや」を「後ろむすぶや」。
*16「水舟老人」の「舟」に(叉)カの注。活字本と一統はともに「水母老人」とし、戯れ句作者の名前ならクラゲ老人が合う。また一統は「苔の華」を「こけのあな」とするがそれは無意味。
 座頭石から傾城石までの三句について私見を述べる。
 中の句「傳女石の後ろむすびや葛の節」、その「傳女石」の「傳」は人偏を書写子が付け足したと勝手に解釈し「專女(とうめ)」と読んでみた。老女のことであり「伊賀専女(いがとうめ)」の語もあるように古狐をも意味する。前の座頭石の句「笑ひには探る手もあり夜の石」、これは暗闇を手探りで進む夜這いの句、それを受け、娘目当てに忍んだところ床にいたのは婆さんだったとの滑稽。「後ろ結び」は帯のことで堅気女の意味、そして「葛」の文字、「恋しくば尋ね来て見よ」と歌った信田狐(しのだぎつね)の葛の葉姫に繋がる。「節」は結び目の「ふし」と節義の「せつ」どちらでも読める。次の句「嘘や買ふて傾城石に苔の華」は(石が苔むすほど末永くあたしの心はあんただけ)と女郎の起請文を真に受け散財する男、「苔」は「虚仮」の掛詞。この三句は連句として成り立っており洒落本隆盛の天明期らしさがある。ついでに言えば中の句の作者「蔵六」の名、これは頭と尾と四足を甲羅の下に埋める亀の意味、したがって亀六氏かもしれない。
*17@は一の下に女、活字本は「一女」とする。意味不明。
*18「筆」に(革)カと脇注。活字本は「片草」。
*19「倫」の字は活字本から。現在の無垢路岐山(むくろぎやま)。
*20「貞治(じょうじ・ていじ)」は北朝後光厳天皇の年号。貞治六年は1367年。
*21『信達歌』は天明六年熊坂台州著。
   一統では「利」を「剥」、「宇」を「字」。歌の一字が石の剥がれによって読めない、惜しいことだの意味ゆえガリ版本の誤り。
*22「正儀(まさのり)」は楠正成の三男。
*23「隻」を一統は「見」。相見る。(我が信達の地でも既に北朝を正統と見る人が多くなったようだ)の意味。一統の文が優る。
 誰もが声に出して読めるようにするのが趣旨ゆえこの碑文も読み下してみる。
 『信達歌』に云う、剥蝕一字存せずして惜しむべし。按ずるに北朝の貞治六年はまさに南朝正平二十二年なり。この時、南朝の将帥新田公楠公及び義興らすでに戦死して唯正儀存(ながらえ)てあり。わが信達間の如きも既に北朝を正朔と奉ずる者、もって相見る時勢なるべし云々。

『小手風土記』を現代仮名遣いにする22上糠田村

 22、上糠田村(註1)
一、女神山
 小手五岳の一つなり。古諺に信夫城主佐藤庄司の娘、薬師の尊像を負い奉りこの峯に登りぬ。そのころ糠田村村民十八軒なりしが一同に霊夢を蒙りて互いに奇異の思いをなし、この峯に登りて見るに霊夢に違わず一女薬師の尊像を負い奉る。即ち、仮堂を営みしとなり。その後薬師堂を建立せり。然るに建武年中霊山に北畠中納言顕家卿在城の砌、今の負見山に遷せしと云々。(*1)
 この女神山は青木峠と陰陽の山にして筑波の女体を移せし山とぞ。祭礼は三月十五日。
 蛇石 釜石 東物見石 西物見石
  めがみ山しげき小笹の露わけて入そむるよりぬるる袖かな よみ人知らず
  山の名の紛わし花の裾もやう [隈左]呂角
  透通るめがみの山の落葉かな [又水]真丹(*2)
  笑ひ声玉も寄るなり山ざくら [保原]冑六
  花の香に猶奥床しめがみ山  帒児
 この山、東は糠田、南は手渡、西は秋山、北は小国、四ヶ村に根の張りたる山なり。
一、熊野大権現 小手十九社 [神主]伊藤紀伊
 鳥居 階 長床 本社
 紀伊国三熊野(みくまの)より三つの烏飛び来たりて化すと云えり。六月十五日祭礼。社は杉茂りていと神さびたり。(*3)
 祭所 伊弉册尊(いざなみのみこと) 事解男神(ことさかおのかみ) 速玉男神(はやたまおのかみ)
一、東王塚 山名なり。女神、東王塚、麓山、御代田五光山まで山つづきなり。
一、麓山大権現 [神主]伊藤紀伊
一、勢至堂 [地主]佐藤弥右衛門
一、岳林寺 いにしえ糠塚山と号し、近代東照山と号す。禅宗羽州米沢正眼寺末寺。橋二つ階十枚。
 葷酒不許入山門の碑[日州立] 本尊釈迦牟尼仏 前の森に石彫の十六羅漢(*4)
 石の羅漢 [天明年中]日州恵輪和尚建立
一、小手廿七番札所観音堂[三間四面] 階十八段
 石の燈籠二基、銘に曰く延享三年[当村]斎藤清右衛門 延享四年[当村]斎藤蔵人
 大木の柏木数株あり、銀杏の古木あり。字上ノ坊。
  おも稲の草をぬかだとまふで来て人の心のみのらざらめや
一、薬師寺[保原長谷寺末寺真言宗不納七畝歩]
 建武年中、女神山の頂より霊夢によりてこの地に移しけるとかや。その節迄山号を医王山と号しけるに、薬師瑠璃光如来の眉間放光の瑞相によりて眉間山と改む。四月八日八月八日縁日なり。参詣群集す。
一、観音堂 柳平 入山
一、小手地蔵詣第三番地蔵堂 地主與右衛門
 越途 細田 酒戸の内 引田 神ノ内 坊池
 八藤内[むかし藤氏の人居したるゆえ字名とすと云えり]
 入ノ内 @畑 日向(ひなた) 河原 早稲田 坂下(*5)
 踊り坊 古碑あり元暦元[甲辰]年(*6)
 「大水和泉田川、小手川に合す(*7)
 末ツ家 坂下 山ノ神 平(たいら) 道林澤 長畑 岫(くき) 元苗内 天坂(*8)
一、修験 高山院 浄法院[不納三畝歩] 清浄院
一、小手地蔵詣第四番
一、畑中 舘ノ腰 土橋[この下にて糠田川、小手川に入りける]
一、村高 千四百二石五斗一升
一、追分碑 右飯野 左川俣道
一、土地大豆に宜し
 大豆は申に於て生ず、子に於て壮し、壬に於て長じ、丑に於て老し、寅に於て死す。甲乙を悪(にく)み、寅卯を忌(い)む。(*9)
 豆を種(う)うるに夏至の前十日を上時となす、夏至の日を中時となす、夏至の後を下時となす云々。(*10)
一、六十三騎 二百石 左藤弥右衛門

註1一統「村邑」

ガリ版本はこの位置に附録を置く。明治期の書冊所持者、熊野神社宮司伊藤氏の書き込んだ文章が七ページほどあり女神山の前説や六十三騎のリストなど含む。それを今は略す>

*1一統は人々が山に登ったところを「霊夢に少しも違わず嬋娟たる一美女薬師如来を負奉り居給ける 邨民等是を労はり 即仮に草の庵を結び姫諸共是に入れ奉る」と記し文章は一統が上。また「負見山」を「眉間山」とする。
   集落の人々が同じ霊夢を見る設定は説経節の定型。
*2「落葉」を活字本は「若葉」。花続きの句ゆえ「若葉」が正しかろう。「又水」は川俣、「真丹」は筆者の俳号。
   前行の「紛わし」は音数が合わない。「ふさわし」かもしれない。
  次行の「冑」に「曾カ」とルビ。一統は「冑大」とする。これは保原とあるので「亀六」だろう。口太山の項でも「笑い仲間」の句がある。
*3「神さびたり」をガリ版本は「神久ひ多り」とし「久」にママのルビ。
*4「日州」は日向国、現在の宮崎県のことだけれどこの文章の場合は次行の僧名の意味、日向出身の僧かもしれない。「日州立」は欠字。実際は「日州立之(これをたつ)」。この石柱や羅漢像は現存する。
*5@は手偏に猪、活字本は木偏に猪として(楮カ)とルビする。
*6「元暦元年」は1184年、一ノ谷合戦のあった年、翌年壇ノ浦にて平氏滅亡。「踊り坊」を一統は「躍坊」。
*7この行、どの地名に付けたかわからない。活字本は「古碑あり 元暦元年 大水和泉守 関へ鍛冶修行ニ出テ関ヲ破リタリトテ大水と云々」こちらの文章も意味が通らない。
*8この行を含めた以下の四行はガリ版本に無く活字本より写した。修験の「高山院」を一統は「方山院」と記す。
*9これは『雑陰陽書』の言。活字本は「申」を「甲」、「老」を「考」と誤記。
*10これは『氾勝之書』の言。両書を引用した『斉民要術』からの引用になる。更に言えば『斉民要術』を引用した日本の農政書からの引用。