路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

使わない言葉や嫌いな言い回し

 先の記事で「詩」に「うた」とルビを振る表記は殊更めいて使わないと述べた。きょうは私的好悪にすぎない語感の列記であり、読むに値しないどうでもよい記事の典型になる。それも悪口ばかり。
 長年私は世の人々より抜きんでた資質を何一つ持たないと思い込んでいたが、最近、それが一つはあると気づいた。何か。心の狭さである。これならば人後に落ちないと自負する(額の狭さはゴルゴ13氏に比べ見劣る)。しかも最近心が狭くなったのでなく、気づいたのが最近ということ。「ヤクザ役人お巡り国鉄NHKは嫌いだ」と宣言したのは十八の年、私の精神年齢はそこで成長を止め、現在、心はガキ、身体はジジイという情けない複合体になっている。


1、「生きざま」
 死にざま、ぶざま、ザマぁみろ、と濁音のザマは心根の汚さを表現して音調もまた汚い。
 「生き方(いきかた)」、口語での「生き様(いきよう)」なら使う。

2、「真逆(まぎゃく)」
 これも音調の汚さゆえ使わない。「正反対」を用いる。

3、呼称の「先生」
 若い時からヘルメットに安全靴、埃と機械油に汚れる筋肉作業ばかりしてきた。昔風に言えばブルーカラーに属する。しゃべりはどうでもよく身体が優先の職場において相手を先生と呼ぶのは敬称でなく愚弄の意味、仕事はトロいのに自尊心は強い手合いによく用いる。「よう、先生」は「おい、バカ」と同義。私の辞書にそう書き込まれて以来「先生」の呼称は用いていない。
 この地に戻り老母に付き添い十年間病院通いをした。医者への呼称は皆さん「先生」だけれど私は使わない、「誰々さん」と苗字で呼んだ。ムッとした表情を浮かべた医者が中に居た。
 以前のテレビニュースで国会議員達が互いを先生と呼び合っていることを知った。また何かの新聞記事に見たところでは官僚の議員への呼びかけも先生らしい。「先生と呼ばれるほどバカじゃねえ」と啖呵を切れる政治家は何人居よう。国会答弁、記者会見、すべて官僚に負う。キャリア官僚が政治家を愚物と見ているのは間違いないところ。
 現代日本で己を頭がいいと意識している職種代表を三つ挙げるなら医者、弁護士、キャリア官僚になる。頭がいいと思っている者ほど口先世渡りの傾向を見せる。小人の過つや必ず文(かざ)るとは孔子の言。その者らが高給を得ることで社会の品性が落ちてゆく。……いや、政治家に世襲議員と元官僚が多いことを述べようとしたが腹立ちばかりの言葉になりそうで止める。ついでながら、頭の良さを自慢の職種では他に棋士がいる、こちらは世に実害がない。

4、「何々させていただく」「何々したいと思います」
 「何々します」でよい。

5、「好きな小説家の一人です」
 「私は誰それの作品が好き」と言うつもりが、この言い方では「私ってすごい読書家なのよ」の意味になる。

6、「何々と言って過言ではない」
 ただの勿体付け話法、新聞の論説に頻出し投書欄にも時に見る。政治家が反っくり返った姿での発言でも用いる。同じく「何々と言わざるを得ない」「断ぜざるをえない」など権威主義的話法に属する。

7、「ウソッ」「ホント?」
 現代人の話し言葉では驚きや感嘆の意味で用いられる。「マジかよ」「ヤベッ」と同類。私が使わないのは若くないだけかもしれない。
 35年程前、とある田舎町の閑散とした駅ホームに立ち文庫本に目を落としていた。電車が来て止まりドアが開く。目を落としたまま乗り込みドアが閉まる。喧騒に奇異の感あって目を上げるとその車両は女子高生ばかり一クラス分以上の人数が三々五々の塊を作り喋っている。キャバクラ通いの男には天国だろうが私には地獄、連結部の窓から見える隣の車両はまだしも人は少ない。しかし三人四人と続く塊のいちいちに「通してください」と声を発し服さえ触れないよう通過する勇気がない。電車に乗った場合ドア付近には立たない方針だけれどこの日は別、次の駅まで三分の我慢、彼女たちに背を向け本に目を落としたものの活字を視認したところで言語として脳まで届かない。女子高生たちの「ウソッ」「ホント?」「ヤダー」の三語ばかりが続けざまに脳を打つ。彼女達はその三語の間に名詞や動詞を一つ二つ入れるだけで会話をなす。恐るべき才能。語と語の隙間は「キャッハッハ」「キッヒッヒ」の金属音質笑い声が埋める。(おばちゃん集団の場合は土瓶を叩き割るような「ギャハハッ」の声)。耳栓は声質の不快部分を緩和してくれるがこの日は持っていなかった。次の駅に着くや脱兎のごとく飛び出し隣の車両に移った。以来、当時の高校生を三語族と呼んでいる。現在五十才ぐらいの世代になる。
 ついでに言えば無意味な修辞ゆえ「しっかりと」「きっちりと」「全力で」を政治家のバカ三語と名づける。
 真偽を問う意味での「本当ですか?」は警官がよく用いる。この連中、背広を着ていなくて貧乏ったらしい姿の男を見るやいいカモとして声を掛ける。私は人相の悪さも加わり若い頃から職務質問を受けた回数は多い。ただし不快さに慣れてはいない。どこへ行くかと聞かれ「そこの酒屋へ煙草を買いに」とか「上野の博物館」と答えて「本当ですか?」と反問された。どう答えればいい。「本当です」と言えばいいだけかもしれないが声を発する気力も出ない。私は常々会話でも文章でも誤解なく意味が伝わるよう単語を選び述べ方を脳裏に整理して言を発している。それに私の場合、煙草を買いに行ったついでに酒も買おうと店に入り煙草は買い忘れて出てきたり、上野の博物館へ行く手前で気が変わり西洋美術館に入ることもある。その場合、嘘をついたことになるわけだが言を発した時点では真実の意図を述べている。警官の汚い根性についてはいつか改めて述べるかもしれない。
 また、電話で何かの事情を説明しているさいに、「アッ、ホント……アッ、ホント」の相槌を用いる人がいる。話す気が失せてゆく。

8、「お食事」
 いたずらに「お」を冠する言葉。お米、お肉、お魚、お野菜、お豆腐、お醤油…は使わない。昔、テレビの主婦向けモーニングショーで男のアナウンサーが「おめざ」と発語していた。これは「目刺」のことではなくどこかの裕福なお嬢様がお目覚めの際に召し上がるお菓子のこと。「お菓子」なら私も使う。「カシ」には樫、河岸、歌詞、貸し、瑕疵、華氏など同音異義語が多くあって「オカシ」と言えば菓子の一義になる(古語の「可笑し」は現代語なら「おかしい」)。ただし「きょうの御飯のおかずはおから」などは使う。

9、「あのですね、えーとですね、私はですね」
 あなたはですね、ですねをですね、いちいちですね、つけてですね、イヤなんですね。
 適切な次の語を選ぶ間の沈黙を私は気にしない。昔のディスクジョッキー渋谷陽一のようなズルズルダラダラ喋りのほうが不快だ。これは気質による。以前にバイト先で「○○さんみたいにブツッと切れる喋り方では女にモテないよ」と若い方から言われた。べつにモテたいと思ったことはない、そんなことは思慮のほか。また二十代の頃、私を指して「あの人じゃ間が持てない」とある女性が言ったと人づてに聞いている。今、他人の喋り方をあげつらっている私自身の喋りもまたお粗末なものではある。

10、蝶を数える「頭(とう)」
 牛馬など獣類を数えるのに用いる「頭」を蝶にわざと用いる。数ミリの花にオオイヌノフグリと名づけ気のきいた冗談のつもりでいる連中と同じ気質を感じる。虫類に用いる匹でよい。

11、役人用語の「何々等(とう)」
(1)日本語で音末が「とう」の名詞は数千ある。紙に「弁当等のゴミは…」と書いてあれば発語にせよ黙読にせよ人は「べんとうとう」とは読まず「べんとうなど」と読む。しかし昨今、役人の書いた原稿を棒読みする政治家が増え「なになにとう」の発語が一般化しつつある。

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 これは20年前建てられた地域の公民館。補助金申請書類の標題と紛う名称がそのまま建造物名に残る。役人同士が役人用語で話し合うのを咎めはしない、どの業界でもあることだ。しかし世間一般に向けての発語は平易に願いたい。福島県庁は震災後の復興標語に「イノベーション・コースト」を掲げた。どこかの中央省庁から出向してきた役人の命名かもしれない。イノシシがションベンして歩く浜の意味なら当っている。もし役人が公僕であるならガキやジジババにも分る言葉を使うがいい。
 「高齢者等」は高齢者以外も含むわけでそれなら老若男女すべてになり、つまりは無意味語。
 では国語の試験問題。
 『高齢者等活動・生活支援促進機械施設』は建造物名。
 問1 「促進」にかかる語を答えよ。
 問2 「機械」にかかる語を答えよ。
 問3 「施設」にかかる語を答えよ。
 正解は無い。語中の「・」は法律文の「及び」に相当する。ポールの縦書きは二行文ゆえ(高齢者等活動)及び(生活支援促進機械施設)と読める。一行横書きでは「高齢者等(活動)及び(生活)支援」あるいは「(高齢者等活動)及び(生活支援)促進」など区切りの分らない不明確な名称になっている。役人が住民文化の足を引っぱっている例として提示する。
 大体の意味を汲みこの名称は『住民生活支援施設』で充分だろう。

(2)これは数年前新築された町役場前の案内板。

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 「害」の字が面白くない人がいて「碍」を使おうにも常用漢字にないため使えないとの意見は承知している。しかし漢字と仮名の混ぜ書きは該当する漢字を習っていない小中学生の文章でのみの愛敬表記であって一般人が用いては見苦しい。まあ、テレビニュースのテロップには「範ちゅう」や「常とう手段」など仮名混じり語は頻出する。この案内板の場合「身障者」でよいではないか。そして「等」などいらない。
「いやー、きのう役場さ行ったらよ、おれらの停めっとこに救急車いて余分に歩かさっちゃんだ」そんな不平を言う身障者は居ない。この駐車スペースは建物の出入口間近に設定され車椅子マークが描いてある。正しくは歩行弱者の優先スペース。片腕のない身障者と片足のない身障者、どちらが優先かは自明になる。また身障者ステッカーを貼っていない車でも産み月の迫った妊婦ならこのスペースを使って良い。それに乗じ「わたし、一年中臨月なのぉー、ガハハハ」の肥満おばちゃんがズルして使うことだって一時の口論を発生させるかもしれないけれど世間の賑やかしと済ませる話。手足に何ら障害のない、精神科で発達障害と認定された男が得意然とこのスペースを使うのを見た。

(3)これは以前、中央公民館の入口に貼られた文章。

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 これまで各階に置かれていた灰皿がロビー隅の一ヶ所になった際に貼り出された。現在の灰皿は屋外にあり、その時に剥がされ今この貼り紙はない。右下の小文字は『川俣町教育委員会』。
 「火災発生等の危険」はいかにも付け足しの理屈で、嫌煙権が声高な時代に上級官庁からの通達に従ったもの。ならばそう書けば良い。「今般何々省よりかくかくしかじかの通知があり喫煙は一階ロビーの灰皿設置場所のみとします」これでいかなる不都合もない。さも自らの発意と判断で喫煙所を限ったかの言い回しになっている。一般人の受動喫煙を避け、健康寿命を伸ばすための措置だ。
 この文が述べていることは二つ。煙草は喫煙所で吸え、ガキが煙草を吸っていたら知らせろ。密告(チクリ)の奨励、さりとて「係り」はどなたか、喫煙注意係の札を首に下げた人は居ない。まあ漠然と公民館職員だろうと察しはする。教師なら生徒の非行を注意する職務を持つけれど公民館職員にその職務と責務があるわけではない。一人前の人間がガキの喫煙を見て注意したいなら他人を頼まず自分でする。これを余計な文章と言う(私の文章も同じ)。「火災発生の危険」は「火災の危険」で充分だし、「係り」は文の流れから誰も「けい」とは読まず「係」でよい。このような町では教育委員会を教育する委員会が必要になる。

(4)この町に図書館は無く、中央公民館二階に図書室を設けている。これはその書架の張り紙、現在も掲げてある。

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 与太を述べる。
 若くて綺麗な奥さんが子供に読み聞かせた絵本を返却に来る。
「すみませーん、これ表紙取れちゃったの……弁償…ですよネ」
「あ、どれ…」と係員が受け取り「これぐらいなら、おれ、フィルムで補修します」
「でも、悪いですぅ。そこに書いてあるもン」
「原則としてってあるでしょ、建て前なんです。本は大事にしてくださいって注意喚起ですよ」
「でもこれ、子供ふざけて踏んじゃったのぉー、ぶつけたりもしたし」
「アハハ、大丈夫、子供は元気が一番。ところで、おれ、来週出張なんです、一緒にどうですか、Go toで。ガキ、いやお子様は婆ちゃんに預けて。たまには息抜きしないと育児ノイローゼになっちゃいますよ。ライン交換しましょう、グヒヒヒ」
 翌日私のようなむさ苦しい男が表紙の取れた本を返却する。
「何ですかこれは、弁償して貰います。そこに書いてあるでしょ。あ、ちょっと待って、これ古い版ですね、今の値段を調べます……ありました。四千六百円。経費に五パーセント加えて四千八百三十円払って下さい……何よその面白くねえって顔、業者に工事頼めば管理費消耗品代でテンパー乗っけんだよ。こっちは公共施設だから五パーセントにしてんの。事務経費はもっと掛かんの。だいたいこんな漢字ばっかりの本、読めもしないくせ見栄張って借りたんでしょ。いや、借りてくのはいいんだ。毎年、市町村ごとに貸し出し冊数の統計出っかんね。この町が本も読めないバカばっかりと思われちゃ癪でしょ。あんた、これ、枕に使ったんじゃないの……ん? 酔っ払って踏んだぁー。あんたみたいのは三冊借りて神棚に置いて二週間したら返せばいいの。……ええっ? いや、表紙は最初から取れかかってたって…あんた男らしくないなぁー」
 これはフィクション、張り紙の文言を恣意的に運用する例として述べた。実際の図書室カウンターは数人の臨時職員おばちゃんが日替りで勤めている。ところで私の辞書ではおばちゃんとお喋りが同義語になっている。この図書室、入ると「こんにちわー」出る時は「ありがとうございましたー」と飲み屋か食堂同然の声が掛かる。挨拶に目礼という形式もあることをこの町のおばちゃんは知らない。利用者がおばちゃんなら図書室はカウンター職員とのおしゃべりサロンと化す。また、一階の事務室に机を持つ図書室担当の正職員(これまたおばちゃんの場合)が、メモにすれば一行か二行で済む用件をまことに要領の悪い整理されていない話法でカウンターのおばちゃんに伝える。おばちゃん人種の会話は相手の話を最後まで黙って聞くという態度を取らない。小刻みに相槌語を発し「ええっ?」「うわぁー」など感情語を挟む。十秒で伝えうる用件に十五分二十分要するのも普通だ。この町の子供は図書館が静かにする場所であることも知らず世に出る。
 あるいは考え事をする、それをおばちゃんは知らないのかもしれない。例えば学習ドリルを前に鉛筆をシャカシャカ走らせる受験生を見て、勉強しているから邪魔にならないよう静かにしようとは思うかもしれないが、受験勉強と名があるものの、あれは勉強の真似事に過ぎない。なぜなら正解あることが前提になっている。自ら発した疑問に解を得ようとする作業が私の言う勉強の意味になる。「お安くします」という商人が用いる意味もあるがそれは今措く。調べる、考える、また調べる考える。脳内の記憶を動員し論理や関連を探り正解に至るかどうかもわからない作業。その考え事をしている時耳に入る言葉が邪魔なのは当然のこと。意識が会話の言葉に向ったとたん、今脳裏に浮かんだ自身の言葉や論理脈絡が途切れて消える。フッサールが女性達の会話する横で『イデーン』を執筆したとは思えない。それでも世間には喫茶店で原稿を書く作家も居るのだし、「詩を作るより田を作れ」との俚諺あって、これは無駄な夢を見るより体を動かせとの正当な意味をもつ。勿論私は詩人でも哲学者でもなく、たまに何か考えている格好をしていたところで(きょうは湯豆腐にしようか麻婆豆腐にしようか)酒のつまみを空想するぐらいなものだ。ゆえに私のため静かにしてくれと言える身ではないけれど、静けさを必要とする人が居ることは知るゆえに図書館図書室でおしゃべりはしない。
 音は暴力に等しい。この公民館ロビーではNHKの朝ドラ「エール」が始まって以来古関裕二の曲をスピーカーで垂れ流している。ドラマが終れば止めるだろうと期待していたが今も続いている。芸術科目は好みの事柄、その曲をお前は好きでも俺は嫌いだという場合、無理に聞かされるのは苦痛になる。
 この張り紙の文章は「等」や「原則として」の役人用語を抜けば普通の文になる。『図書の紛失破損汚れは弁償願います』これで充分。ただし、破損と汚れは程度問題を含む。職員全員が同一基準を持つ必要がある。
 そして掲示方法も現在は目の高さにあって上の者が下知する権威主義の形になっている。カウンターに透明シートを敷きその下に置くとか、やはりカウンター上に十五センチばかりの四角錐に文字を表示するなど利用者が確実に見えてなをさりげない形がいい。
 書き込みや切り取りは全ての図書館で悩みの種、これは規範よりも精神文化の側面が大きい。

12、文化の話として町内の張り紙を提示する。

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 嘲弄の意図はない。十年ほど前になろう、地域の道路沿いに十本ばかりこの張り紙の杭が打たれた。数ヶ月で半数になり、残りは何年も放置され現在は風雨に印字が消えた。誤字や論理ミスや文章の拙などを指摘する人と指摘を受けて訂正する人間関係がこの地にないとわかる。
 仮に文章を書いた人の名を権兵衛氏としよう。「権兵衛さん、『買犬』は変換ミスだ、『飼犬』だぞい」「あっ、ほんとだ。いやー、恥かくとこだった。ありがとない、直すべ」こんな会話がない地域。「通学路だがらフンの始末しろってことは、通学路でねがったら始末しなくていいって屁理屈もあっぺ。権兵衛さんのとこなんかジジババ暮しで近所にも小学生いねべ。あんた家の前ならほったらかしで構わねってのか。それに『始末は……始末しろ』ってこんな作文、小学生だって書がねぞ」「わがった、文章はおめえが書け。おれは班長辞める」権兵衛氏ムクレた。そうなるから誰も指摘しないのかもしれない。
 一般に、注意される、誤りを指摘されるなどに不快反応を示す人は多い、それは指摘する側も愚弄嘲笑の態度でしか表現できない人の多さでもある。誤字の指摘など人格攻撃とは無縁の正誤の事柄。
 二十年ほど前、里山倶楽部の方々が中心になってこの町の里山を紹介する小冊子が作られた。偶然その原稿の一端が目に入り、花の名「ヤマジノホトトギス」が「ヤマホトトギス」となっている。どなたの原稿か知らず、ほんの親切心で一枚紙に違いを書き冊子製作を統括しているという役場職員に渡した。出来上がった冊子を見ると直っていない。それどころか誤記と印刷ミスの類は三つ四つどころか、三十四十とある。紙に書いて伝えたのはたんなる名前の違い、私が日頃言われている屁が臭いだの根性が曲がっているといった情緒判断を含むものではない。それが通じないとあれば以後その相手に述べうる言葉は一語とてない。後日、倶楽部の方にゲラ刷を見せて頂いた。執筆者全員に配られた物だろう。統括の人間は勿論、倶楽部員同士でも互いに誤りを指摘しなかったことがわかる。印刷物ゆえ後年、引用者に誤りを継続させることになる。このようにして文化は劣化する。
 他サイトのブログに述べた言葉を繰り返す。知識は持ち寄れば良い事柄であり、何かを知らないというのは恥でもなければ罪でもない、また知っているからとて自慢には当らない、これが私の立場になる。