路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする1町飯坂(上)

 1、町飯坂

陸奥国伊達郡小手庄風土記
川俣郷(註1)
一、小手庄二十六郷の惣社正一位春日四社は人王五十四代仁明天皇御宇、山蔭中納言藤原政朝(マサトモ)卿、霊夢により岩瀬郡(イワセノコホリ)鉾衝宮(ホコツキノミヤ)に通夜したまい、施山(モミジヤマ)のしるべを得、深くも迷い入らせおわせしに、白鹿(ビャクロク)の神助(シンジョ)ありて、嘉祥三年[庚午]十一月十四日、下底岩根(シタツイワネ)に宮柱(ミヤバシラ)太敷(フトシク)立て、高天原(タカマガハラ)に@木(チギ)高知(タカシリ)て鎮座し給う。朱玉垣(アケノタマガキ)明らかに垂迹(スイシャク)の神威あらたにて君を守護し国を衛(まも)り給う、誠に仰ぐに余りあり。(*1)
 烏兎押し移る事九百四十有余、委しくは本縁記にあり之を略す。(註2)
 春日山神祇
 基通卿政所
  かすが山霞めるそらに千早振神のひかりはのどけかりけり(*2)
 清淵川 水源は五十沢村(いさざむら)硯山より流れて小手川に落ちる
 正徳五[未]年 御代官森山勘四郎
  [蒙霊夢哥](*3)
  とし月の願も晴るるきよす川春日の宮のふたもとの杉
 敷石 常夜燈
 望月に奥の黒駒奉れ 桃澤(*4)
 禰宜達の茶盤清めや神無月 馬耳(*5)
 命もやおのれを福に鹿の声 既白
 階五枚 玉垣
一、大鳥居額 正一位春日大明神 [京都吉田二位殿御筆]
 並樹 伊達政宗 御願によりて百株、永禄年中に植えし所なり。(註3)
 三柳 建武年中 北畠源中納言顕家(アキイエ)公、植えし所なり。よりて国司柳とも御柳とも云う。
 榊 漱水石 [この中に足跡というものあり](*6)
 御手洗 石橋
 馬場 流鏑馬ヤブサメ)は永承年中、鎮守府将軍頼義公より起る。流鏑馬馬は中山、八羽内、中ノ内、上代より古例にて出す。
 駒留杉(コマトメスギ) 幕張槻(マクハリツキ) 弓立楢(ユミタテナラ)
 この三本は何れの木なるか不詳。村老に委しく尋ぬべし。
 手水石
一、石鳥居 銘に曰く、奉建立遷宮祝詞寛延四[辛未]年正月大吉日 神主 正六位遠藤長門守重義慎欽曰(註4)(*7)
一、事代主命碑 [東狂文先生筆] 願主本町 斎藤長右衛門
一、太神宮碑
 長床 三間梁 七間
 一の御坂階二十三枚 隋身門(ずいじんもん)[級長津姫命(しなつひめのみこと)級長津彦命(しなつひこのみこと) 俗に矢大臣と云う]
 雷神風神。
 二の御坂階三十八枚
 御本社春日四所 鹿嶋武雷命(かしまたけみかづちのみこと) 香取齎主命(かとりいわいぬしのみこと) 天児屋根命(あまのこやねのみこと) 姫太神(ひめたいじん)天照大神(あまてらすおおみかみ)(*8)
 宝永七[庚寅]年二月
 正一位神階 神主 正六位遠藤大炊大允(おおいのだいじょう)
 別宮八幡宮は東征守護の神なり
 人皇七十三代堀川院御宇 寛治六年八幡太郎義家朝臣 任国の砌(みぎり)勧請(かんじょう)なり(*9)
  宝物
一、奉寄附 小手の庄の事
 永承六年卯七月 陸奥守頼義御判
 都をばの短冊一枚 頼義朝臣の御自筆
 吹風をの短冊一枚 義家朝臣の御自筆
一、栬山社奉寄附の書
 永観二年申四月 伊達領主田原中納言勝稙公御判
一、春日宮額 保元年中 三位藤原朝臣教長卿御染筆
一、奉納文寿太刀 嘉応二[己丑]年八月 鎮守府将軍陸奥守秀衡(*10)
一、奉寄附の書 御勅使 左中将殿御自筆 安元[乙未]年 信夫城主佐藤庄司家信御判(*11)
一、伊達大社額 建武年中 北畠源中納言顕家公御染筆
一、奉寄附 小手四郷の事 天文八[亥]年三月 御勅使治部卿御自筆 伊達領主藤原稙宗御判(*12)
一、春日宮御造営 永禄五[戊午]年三月 伊達領主大膳太夫輝宗 牧野弾正忠 桜田玄蕃 牧野備後
一、疱瘡神 祭所(まつるところ) 稲背脛命(いなせはぎのみこと) 三宝荒神(*13)
 牛頭天皇 祭所 素戔嗚命(すさのおのみこと)(*14)
一、御神木 千枝(チエ)の栬(モミヂ)紅葉(コウヨウ)のころは爛漫(ランマン)として蜀錦(ショクキン)を翻(ヒル)がえすにことならず。二十六郷の鎮守神腰宮に鎮座し給う。(*15)
 (天石窟  四社宮)(*16)
一、若宮 祭所 伊弉冉命(いざなみのみこと) 本朝子安大明神なり
 階六枚 機織宮(はたおりのみや) 服部御前(はとりごぜん)稚女姫命(わかひるめのみこと)(*17)
一、伊@皇太神宮(*18)
 明和六年丑年、伊勢国磯部宮より東海道十五ヶ国を渡りて宣託によってこの地に勧請。御籏五千八百本、御俵千三百俵、是を豊年祭りと唱う。俗に豊年じゃ豊年じゃ一束三把で五斗八升とはやすなり。祭礼六月十八日。
 天照大神始めて耕食の道を教えて生民の食を供(まかな)う。是より以来(コノカタ)、聖神相承(あいうけ)てこれをもって@と為さざる無し。祟神天皇の詔(みことのり)に云う農は天下の大本なりと。(*19)
 階三十一枚 薬師 祭所 少彦名命(すくなひこなのみこと)
 階十四檀 御神木龍燈杉 [回り六抱え余り俗にゆとう杉と言う]
一、撞鐘(つきがね) 貞享三年[丙寅]鋳る所なり
 階二十三枚 神楽殿 天鈿女命(あめのうずめのみこと) 巫女(かむなぎ)の祖神(おやがみ)なり
 猿田彦命神石 [諸神の先はらいする神なり]
 縁記碑 元禄十一[戊寅]年三月三日 遠藤大膳太夫藤原信重建
一、蠶養宮(こがいのみや) 祭所 稚産霊命(わくむすびのみこと)(*20)
 俗説に言う、欽明天皇の御宇、天竺(テンヂク)舊仲国(キウナカクニ)霖夷(リンイ)大王の女子を金色(コンジキ)女と言う。継母憎みてうつほ舟に乗せて流すに、日本常陸国豊浦の湊に着く。所の漁人拾い助けしに、程なく姫病死し、その霊化して蠶(カイコ)となる。これ日本にて蚕の始めなりと。(*21)
 今按ずるに此説は蜀方志(ショクハウシ)代酔編(タイスイヘン)捜神記(ソウシンキ)等に載(ノス)る馬頭娘(バトウニョウ)の事を日本の事とせるものなり。馬頭娘が事、印本の恠談(クヮイダン)全書にある故に之を略す。(*22)
 養蚕法は黄省曾が蠶計にくわしく見えたり、おのおのあい見るべし。(*23)
 日本記に言う、雄略天皇、螺蠃(スガル)に命じ国内の蠶を聚(アツム)。
 続日本記に言う、和銅七年二月[辛丑]始めて出羽国の蚕を養わしむとあり、これ日本に蚕あって養えるのはじめなり、俗説用いることなかれ。(註6)
一、神馬 宝暦十辰年三月 石川磯右衛門建立
一、当社御除地 [不納長三十七間横二十間](註7)
 宮社ききとして神光いやまし、杉栬神木枝を垂れ、神寂びて利益あらたなれば、日々に繁昌、日々に昌盛にして三月三日四日は隔年に御神輿練物渡る。毎年九月七日より九日迄祭礼、流鏑馬ヤブサメ)行なわる。
 唯一宗源の神道には十八段の伝法にて天下太平国家安全の御祈祷おこたらずとなり。(*24)
 御供(ごくう) 梅干 蕨 菊花 大豆 前鮭 蓼穂 松茸 餅 是を八味の御供 十二の鉢と言う。
 御供米 三石 往古は鎮守府将軍より近代関東より
一、神主屋舗 [長二十三間横二十間] 一反五畝九歩除地不納
 正六位宮司遠藤石見守藤原朝臣重久
  御除地不納民図帳名前に大ミ(近江の意か)守とあり
 神巫女屋舗(かんなぎやしき) [長七間横五間] 一畝廿四歩 権太夫
 同屋舗 [長廿三間横廿間] 一反六畝廿四歩 徳助
 鐘撞き屋舗 [長十間横九間] 三畝歩 孫左衛門
 笛吹き屋舗 [長十八間横十二間] 七畝六歩 清五郎
 笛吹き屋舗 [長十五間横九間半] 四畝廿四歩 阿波守
 御供米八斗 [射手] 清右衛門
 御供米二石二斗 [社役人帯刀(たちはき)] 引地茂右衛門
 外(ほか)に
 雑器田 祭礼の節雑器を役に出す
 納豆畑 御供に入る納豆を役に出す
 的板田 祭礼の節折敷(おしき)に用いる割小(わりご)をば追戸(おいど)より出す(*25)
 的竹田 桜ヶ作 小綱木村 芹の沢 西五十沢村 荒屋敷より出す
 的掛け 中嶋嘉右エ門と三右エ門 両人にて立つる
 当社の例祭、故実は社記に委し、繁ゆえこれを略す@(*26)
 霜月十四日夜 明神の御年越とて四郷氏子へ餐(あえ)をなす。
 春秋二度の祭礼怠らず、夜神楽の笛の音は峰に澄み、流鏑馬の責声(セメコエ)は麓にとよむ。射手の半臂(ハツヒ)は紅葉を@(イロド)り、神子(カンコ)の千早(チハヤ)は白菊を粧(ヨソヲ)う。(*27)
 諸国の商客(アキヒト)ここに聚(アツマ)りて市をなし、軽口咄は晋の郭象(クヮクシャウ)にも勝れて懸河の水を注ぐが如し。物真似は函谷関にもおとらぬかや。猿の狂言、犬のすまひ(相撲)、曲馬曲枕、麒麟の綱渡りは鞦韆(シウセン)の俤(オモカゲ)にして嗩吶(チャルメル)の声(こだま)かまびすく、和漢の名鳥深山の猛獣もここに集まりて観(ミセモノ)とし、参詣の錙素(シソ)階前に押合うて終日に@@(チョクセキ)す。(*28)
 下向菅笠は南北に靡(ヒルガヘ)り聯々(レンレン)として烏鵲(カササギ)の霜夜にまごう。その群集や仙道七郡に冠たる神事なりけらし。

註1(信達一統志=以下一統とする)
 町飯坂邨 公邑
 当邨は人皇六十二代村上天皇の大御代、八条左大臣持家公の乳母伊藤摂津守頼旨と云ふ人此郡に来り、当地を開発し(中略)町歩三十三町三畝歩と云へり。川股を四郡(郷カ)とも云ふ。頼旨は大和国飯坂の産なる故に飯坂と村名を負せしと云へり。其後慶長十八年、上杉家の臣安井五郎左衛門繁家、森善右エ門兼直両人検地す。又後に○○新田開発、検地牒総高二千七百二十二石九斗五升四合余、寛文十三年(中略)当邨より七百四十二石五斗九升余を分て鶴田邨となす。今の高千九百二十一石九斗三升九合。其後享保二酉年又分村して在飯坂邨を号せり。
註2(一統)宝暦[庚申]二月神位を授奉る正一位
註3(同)政宗は永禄十年の誕生なり(中略)按ずるに此並木は政宗の父輝宗の栽給なるべし
註4(同)願主斎藤長右エ門寛延四年改元…正徳元年なり
     嘉応二年は庚辰、嘉応元年は己丑に当る
     安元[乙未]年は安元元年に当る
註5(同)人皇四十五代聖武天皇の大御代天平八年疱瘡始て筑紫より渡る
  (国史年表)天平九[丁丑]年四月ー八月藤原四郷の死疫病流行のため租賦・公私の負稲を免除。
註6(同)雄略天皇御代などは山蚕のよし、今の山繭なり
註7(同)反別二反三畝二十四歩

*1「山蔭中納言藤原政朝」(824~888)は庖丁人として名高く居宅地から四条中納言とも呼ばれた。室町期宮廷の料理番は政朝を流儀の始祖と崇め四条流を称する。小手風土記では神主がみな国司を名乗る中でこの春日神社の神主遠藤氏のみ料理長たる大炊大允や大膳大夫を称しているのも平仄が合う。
  政朝はまた京都吉田神社の創建者、この春日社の勧請人として持ち上げるのもふさわしく、春日は藤原の氏神、その氏寺は興福寺、小手郷は興福寺の荘園であった。そして何より政朝は仙台伊達家系図の家祖にあたり何代かが従五位下大膳大夫を称している。室町時代、位階や官職は金品を以て購うものであり取り持ちの公家もいる。将軍家の方から何職に任ずと下命あった場合もまた金品を送る。天文二十四年伊達晴宗が奥州探題に補せられた時は大鷹、馬、黄金三十両を献じている。ただし伊達氏系図は疑わしいらしい。そして神社仏閣の縁起年代記において開基開山勧請者に高名権威人を担ぐのはありふれた話、政朝が陸奥に下った記録は無い。
  この春日社、現在の本殿は享保年間の建立になる。同時代に建立の信夫郡上鳥渡村(かみとりわたむら)観音寺もやはり山蔭中納言を開基としている。その時代の作話かもしれない。
  「岩瀬郡鉾衝宮」は常陸鹿嶋明神を勧請した宮。
  「施山」の「施」を活字本は「柂」とする。「栬(もみじ)」であろう。数ページ後にもあり、断りを入れず変えた。一統は「楓山」とし、「しるべを得」を「しるべを尋」とする。
  @の字は糸偏に勿、活字本も同じ。屋根に突き出た剣先のような木材、千木のこと。「高知る」は立派に作るという意味。「春日の三笠の山の下つ石(いわ)ねに宮柱廣知り立て高天の原に千木高知りて」は春日の祭の祝詞
  「委しくは本縁起にあり」その社記が後年錯綜する。
*2「のどけかりけり」の部分、ガリ版本は「の登けかり今り」。「个(け)」を「今」と誤記。
*3「哥」を活字本は「奇」とする。「霊夢を蒙りて歌う」の前詞ゆえ「哥」が正しい。また、二行前の「清淵川」を一統は「清洲川」としており歌でも「きよす川」。
*4俳号「桃澤」を活字本は「桃隣」とする。これは芭蕉の弟子にして甥かもしれない天野桃隣だろうからガリ版本の誤り。信州に「望月の牧」とて毎年八月十五日朝廷へ馬を献上する御牧(みまき)がありそれを詠んだ句か、あるいは雨乞いに黒駒を奉納する神社のことか。
*5「茶盤」を活字本は「碁磐」とする。これは「碁盤」。囲碁は対局前に碁盤を清める。神様が出雲へ出張し鬼の居ぬ間の洗濯とばかり神官達が寛ぐ景。「馬耳」は桑折宿本陣の役人佐藤馬耳。元禄九年桃隣が芭蕉奥の細道を辿った旅の記録『陸奥鵆(むつちどり)』に桃隣と馬耳が相席しての句がある。次の「既白(きはく)」は『信達風土雑記』の著者日下兼延の俳号。馬耳と既白二人の句はその『風土雑記』からの写し。また既白の句「おのれを福に鹿の声」は「おのれをうつす鹿の声」。秋に妻恋う小牡鹿(さおしか)の声は古来歌われている。ならば春の恋猫も歌われてよさそうなものだがたぶん蛮声に過ぎるのだろう、そちらは俳諧が受け持つ。(私は下書きで既白を「無外庵既白」と記した。それは誤り)
*6活字本は「漱水」を「瀬水」とする。神社の話ゆえ「漱水」が正。
*7「曰」を活字本の金子青々氏は「白」と書き一統も「白」。告白や白話小説などのように「白」には「述べる、申す」の意味あり誤字ではない。記紀も「白」を使う。「慎欽曰」を神主読みすれば「つつしみてよろこばしきをもうす」とでもなろうか。
*8「たけみかづちのみこと」は「武御雷命」「武甕槌命」「建御賀豆智命」などとも書く。
   経津主神(ふつぬしのかみ)の別名が「齎主神(いわいぬしのかみ)」香取神宮の主神。奈良時代にこの東国二神を大和春日神社は合祀した。それは藤原の司祭が田村麻呂の東征に従った所縁ではないか。与太の私見を述べる。古代中国の軍隊は巫卜の者を随伴し進軍や開戦の折々に神意を占った。藤原あるいは中臣の祖、天児屋根命天照大神岩戸隠れの折に祝詞を奏しており、中国の巫祝部族が藤原の祖ではないかと根拠ない空想をする。田村麻呂の軍に祝詞専門家が随伴した記録は無い。それでも空想を続け、常陸辺の戦闘では大和軍と盟約を結び勝利した縁をもって春日に常陸の神を合祀したと解してみた。
*9「勧請」など「請」の文字をガリ版本は多く「清」と誤記。以後は注を置かず直す。
*10嘉応二(1170)年、活字本は己巳とする。実際は庚寅。秀衡は奥州藤原三代目。
   明治期の地誌に太刀銘「奥州玉造郡住人文寿鍛之」が記載されている。現存するのか。
   また、二行前の人名勝稙(かつたね)を一統は「勝直」と誤記。この勝稙、同じ永観二(984)年、梁川の八幡宮を勧請したことになっている。
*11安元元年が乙未、1175年。
*12活字本は「三月」を「二月」、「治部」を「作部」にする。作部卿はない。またこの数行に使われる「筆」は「毫」に竹冠を加えた作字にして(毫カ)と傍記する。
*13ガリ版本は「稲」を「福」と書く例が多い。
*14活字本は「嗚」を「鳴」とよくある誤記。
*15「腰宮」の呼称は初見。腰の宮という地名や神社の固有名詞はある。
*16この一行は活字本にあってガリ版本にない。編者の書き漏らしか。「天岩窟」は本殿後ろの岩穴。本来の御神体であろう。
*17ガリ版本は「稚」を「雅」とする例が多い。書紀では「稚日女尊」、高天原世界で神々の服を織る。
*18@は「辛」に「隹」。「雑」であろう。伊勢神宮の外宮、伊雑宮(いざわのみや)のこと。稲穂を咥えた鶴が飛び来って穂を落とした。稲作農耕の始まりを示す神。
*19@の文字は「隠」の阝を除いた字、活字本は「急」とするも読み不明。一統も「急」、さらに「之」を「乏」とする。私見ながら「意」ではないか、「こころ、おもい」と読めば「これをもって(天皇の)こころと為さざる無し」となる。
*20ガリ版本は「稚」を「雅」、「霊」を「雷」にしている。稚産霊神は頭に蚕と桑をのせ、臍から五穀を生じさせた。
*21この一文は伊沢蟠竜『公益俗説弁』からの引き写し。また瑣事ながらガリ版本が「旧仲」に(クウナカ)とルビしたのは「キウナカ」を筆耕者が誤ったものだろう。また活字本の金子青々氏は(キウチウ)とルビする。
*22『蜀方志』は知らない、『蜀志』か。『代酔編』は明代の張鼎思撰『琅邪代酔編(ろうやたいすいへん)』、『捜神記』は東晋時代干宝の志怪小説。一統は『捜神記』を『披神記』と誤記。
*23黄省曾は明代の学者。『蠶計』は不明。
*24「唯一宗源の神道」は吉田神道のこと。活字本はこの「神道」を「神通」と誤記。また、ガリ版本は「八十八段の伝法」とも読める筆記、活字本は「十八段の伝法」とする。吉田神道には十八神道行事壇がありこちらは活字本が正しい。
*25「割小」は薄く削った杉や檜材(経木)による弁当箱。破子、破籠とも書く。
*26@は己の下に十の文字。添え字か。活字本は(畢)と脇に書く。それも意味は通らない。
*27「半臂(ハツヒ)」に(被カ)の脇注あって編者は法被と読んだことが伺える。「半臂」は「はんぴ」、騎射に袖の袂は邪魔、袖無しに近い胴着のこと、帯は忘緒を垂らす。
   @は采の横に色の文字。彩。「千早」は「襅」とも書き、神事の白い女性服。
*28「郭象」をガリ版本は「郭衆」と誤記。3世紀西晋の人、清談の名手で懸河の弁と賞された。
   「函谷関の物真似」は孟嘗君の家来が鶏の鳴真似をして関所を開けた故事。
   「麒麟」とは軽業師麒麟繁蔵のこと。見世物小屋の木戸口に「ながさききりん」と書いた提灯を下げた。
   「錙素(シソ)」は活字本の「緇素」が正しい。「緇」は黒、「素」は白、黒衣と白衣、つまり僧侶と俗人共々の意味。しかし活字本は「深山」を「澤山」と誤記。
   「チョクセキ」の二文字は、足偏に尋と足偏に着。活字本は「躊蹟」と書き(チュウセキ)とルビする。混雑により思うよう前へ進めない様を言う言葉だろうから「跱躇(ちちょ)」「蹢躅(てきちょく)」「踟蹰(ちちゅう)」などの可能性があるし、最もふさわしい語なら「跼躅(きょくちょく)」、成句に「騏驥(きき)の跼躅(きょくちょく)は駑馬(どば)の安歩(あんぽ)に如(し)かず」がある。
   この一文、「軽口咄は」から「ここに集まりて観とし」まで安永9年(1780)に京都の俳人秋里籬島が書いた『都名所図会』四條河原夕涼みの景から丸写し。図会の文では「嗩吶の聲かまびすく」から「和漢の名鳥」までの間に「心太の席には瀧水の滔々と流て暑を避、硝子(びいどろさいく)の音は珊々と谺して涼風をまねく」が入る。あちらは夏六月の景、こちらは秋の祭礼、心太や心地良い涼風は合わないので省いたのだろう。ならば麒麟の綱渡りも省くべきであった。麒麟が人名であることを筆者三浦甚十郎氏は知らなかった。
   ゆえに川俣町の資料中この春日神社祭礼模様を事実として引用する例をいくつか見たがそれらは誤りになる。
   その一点の誤りを除けば(誤植はいくつもある)、この春日神社説明に郷土史家梅宮茂氏が『川俣史談』第3号に書いた「川俣春日神社の歴史と祭礼」が要を得て教わること多い。
   現在の本殿は享保の造営であり三浦氏も目にしただろう珍しい物に向拝柱(ごはいばしら)の木鼻として白澤(はくたく)がある。これは郷土史家高橋圭次氏の記述で知った。そして後日、東五十沢村薬師堂の木鼻にも白澤を見た。薬師堂別当の三条院は春日神社を支える六供坊の一人、堂宇の建造が同時期ではないかと思うが史料に年度記述は無い。
  また前置きに述べたように本殿裏には黄道二十八宿を記した木簡があるもそれについて郷土史家の記述を見ない。