路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする1町飯坂(中)

一、峯能観世音 小手第一番札所 [大慈山根元山と号す、また三根とも古水帳にあり]
 禅衣石(ヲイスルイシ) 地主 根元 黒江治郎右衛門(*29)
 往古、秦の峯能(ミネノブ)と言いし人、持ち伝えたる御長さ一寸八分の千手眼観世音菩薩なり。(*30)
 縁日三月十七日十八日なり。
 七月十六日天燈降ると言えり。応験(オウゲン)新たにして常に詣人多し。大木の松数株あり。
 宝永元年[甲申] 遠藤伊兵衛、古寺を再建せり。宝暦年中高橋伝吉再建なり。
 然るに天明七年未(ひつじ) 野火にて消失。寛政十二甲年、谷崎仙右衛門施主にて建立す。(*31)
 宝暦年中、玄蔵坊、鼓を建立して十二時(とき)を打つ。荒廃の後、この太鼓頭陀寺に納まる。
  飯坂をのぼれば峯の雲晴れてちかいも高きまつ風の音
 世渡に人皇十七代仁徳天皇、聖王にましまして、民に三年の貢を免(ユル)し、秦氏(ハタウジ)を諸郡に分置きて蚕を飼わしめ、絹を織りて貢とせよとの詔(ミコトノリ)有りて、大和国高市郡川俣里より庄司峯能と云いし人、ひとりの娘小手姫をともなえ、遙々(ハルバル)陸奥へ下り、桑を植え蚕を飼わしめ女工を教えしむる。(*32)
 この小手姫、東国の人は心に逢わずとて終(つい)に夫を持たずして大清水に身を投げて死せしとなり。
一、服部御前宮 [大清水 稚女姫命] 鳥居あり(*33)
 小手姫の霊を祭れりと言う。この御手洗(みたらし)の前を婚姻の輿入れ通れば、この清水に引入らるると言い伝えあり。
 人皇四十八代称徳天皇御宇、百済国の女医小手尼というもの、この地に下り尼館に居すと言えり。小手尼の事、古事讀に見えたり。よりて小手庄と言うとも言い伝えたり。(*34)
一、姫館 [雷神宮 これ姫館の鎮守神なり] 妹ヶ作
 右二ヶ所 小手姫の縁によりたる名か
一、牛頭天王宮 祭所 素戔嗚尊 祭礼六月十五日 東根本山に有り
 氏子黄瓜(キウリ)を食わず。あやまりて喰う時は神の祟り有り。往昔、山城国瓜生石(ウリュウセキ)のもとより胡瓜の蔓生じて瓜を結ぶ。その瓜に牛頭天王の文字有り。是によって粟田口牛頭天王の社に納むと云う。この由縁によってなり。
一、富士権現宮 祭所 木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと) 藤からまりニ有(*35)
 由来不詳、大樫数株杜(もり)あり。御神体というものあり。石にあらず鉄にあらず、是則ち本草に言う所の雷楔雷斧(ライケイライフ)の類なるべし。是、五安館の守護神なり。(*36)
一、五安館(ごあんだて) 往古、山蔭中納言藤原政朝公居す。その後、伊達領主藤原稙宗(たねむね)卿居城し給えり。近代中嶋氏伊勢守居す。そのあと、甲斐兵衛という者居すと申す。今に畑打農夫、瓦器物等掘出す。むかしは壁沢川、この丸の南西を通りしとなり。寛永年中より五安と西光地との間、崩れ切れたるとなり。
一、二十一 廟所なり。いにしえ地蔵菩薩二十一体有りけるゆえ字(あざ)とすと言う。(*37)
一、観音堂 如意輪観音石仏 西殿内にあり 古木の桜あり、凌霄花(のうぜんかずら)搦まりたり。地主 氏家太郎右衛門
一、七窪館
一、古碑 建武元年甲戌十一月十一日 仙海 [文化十二年迄四百九十九年](後人の追記)
 矢沢の流れこの碑の蔭にて小手川と合す
一、休み石 武蔵坊弁慶休みたる跡とて石面に窪き処今に残れり。弁慶は滑稽の男なり。武蔵坊とつきたることは弁の字を片仮名にて読めるなるべし。
一、山神碑 道祖神 [岐神猿田彦命 道途の神と称す](*38)
一、阿弥陀堂 [道場あり 今はなし 印の松残れり 文化七[庚午]年再建あり]
一、延命神 祭所 天御中主命(あめのみなかぬしのみこと) 階二十枚 鳥居
 松樅檜数株あり。永承年中鎮守府将軍頼義公、立願によって鞍を埋む、よって鞍ヶ柵と字(あざ)す。
一、稲荷大明神 地主 石川太郎左衛門
 山城国藤の森正一位稲荷大明神を安鎮し祭るなり
 新田 五百田 堤あり(*39)
一、匿搦(ノノメキ)山 天津児屋根命 嘉祥年中、御影館より飛び移らせ給うの地なり。春日の縁記にも見えたり。
 この山に往昔大なる柞(ははそ)の木あり。枝葉繁茂してその木の影、朝には小神(こがみ)に差し、昼には手渡(てど)に差し、夕には小嶋(おじま)に差す。されば右三村に蔭を覆い、日当らざれば田畑作物熟さず。百姓これを嘆き焼枯らすという。
一、雨風両神宮 享保年中[乙卯]年 地主石川太郎左衛門建立
 鍔口石 御神木松桜あり 池あり影向池と言う(*40)
一、動橋(ゆるぎばし) 小手川筋(*41)
一、毘沙門堂 [長二十三間横十九間](註8) 一反一畝十八歩 [除地不納 橋本坊 俗地 與左右衛門]
 大和国信貴山毘沙門を移したるとなり。毘沙門天皇十種の福をあたえ給う。誓願ありて賈人(アキヒト)売買う物の利潤に虎の千里を跼る勢いを縁にとりて正月初め寅の日詣でるなり。(*42)
 春日の御作仏なり。仏師稽文会(ケイブンカイ)稽主勲(ケイシュクン)は兄弟なり。河内国春日村の人なり。世に春日の作と称す。今は大破に及んで霧は不断の香をたき、月は常住の燈(ともし)をかかげて零落まします。
一、阿太子山(あたごやま)大権現 [祭所 伊弉冉尊イザナミノミコト)火産霊尊(ホノムスビノミコト)なり] 本地は将軍地蔵を垂迹となし叉流の守護神として火災を永く退け給うなり。旧地は小松倉にありしを長天和尚今の地に移す。縁日六月廿日。(*43)
一、[頭陀寺末寺禅宗] 常泉寺 清流山と号す
 本尊は釈迦如来、脇師は文殊菩薩普賢菩薩、左右の檀上には大権(だいごん)達磨を安置す。
 開山は頭陀六世玉叟幸鎮大和尚禅師。
 常泉寺の旧地は常光庵と号して赤砂久にありしと言う。死人ヶ作は廟所なりと言えり。その後動橋に移して寛文年中また今の地へ移して常泉寺と言う。長十六間横十五間、八畝歩除地不納なり。
 この寺に立像の阿弥陀仏あり、聖徳太子の御作なりとぞ。二月十五日夜涅槃会あり、南無釈迦牟尼仏の名号を唱えて団子をまき侍る。参詣あらそって拾う。これを常泉寺の釈迦念仏と言う。
一、観音堂 小手二番札所 正観自在尊行基御作 [村民、この観音大士は大同年中の草創にして田村将軍の守り本尊にてましますと言う]
 子安観世音菩薩一体 渡辺弥平治建立 七月十日八月十八日縁日なり。
 水月庵 むかし水月に宿りて澄み、池水はまた月の皎(アキラカ)なるを照らす、よって水月庵の名あり。(*44)
一、不許葷酒山門入の碑 武江大泉禅師筆
  ありがたき心は常にいつみ寺けふきて深き誓をぞ汲
一、大乗妙典千部供養石 享保十四年[己酉]年 法心大龍建 左藤武左衛門
一、西国三十三観音奉彫刻供養石 享保四年[己亥]年 佐藤傳吉建
一、欄干橋 小手川筋
一、百歩階(キザハシ) 幅九尺階八十枚 宝暦十二[壬午]年 常泉十世無角鉄牛和尚建立
一、地蔵堂 延享年中 渡辺弥左衛門建立
一、庚申碑 宝永七[庚寅]年
  鐘銘
 妙乎法器内圓外大口呑地孤頭驚乾@鳴巓谷鍠出雲煙(*45)
 声徹明闇恢無有辺震踊地府上騰梵三済抜衆苦倍増福(*46)
 田除邨@凶醒驚民進止於此昼誦夜禅策進惰懈告景刻(*47)
 遄六々早晩追轉狗留孫仏石鐘餘涓釈迦文世祇園創焉(*48)
 三宝宣証善神護憐鬼讋伏成奉金仙無情説法喧陌鄽音(*49)
 々聞々作大因縁観音三昧悟道従@廣度郡品彌億萬年(*50)
 持彌[予]願四海晏全藜民豊楽孫子聯綿佛日増輝法輪常(*51)
 轉渓山吐月清永潺(*52)
  于時明和元龍舎甲申 冬十一月穀旦(*53)
 陸奥伊達郡小手庄川俣郷飯坂邑
  清流山常泉寺第十世無角鉄牛謹題
   信心檀那施主 菅野安右衛門

註8一本に「長貳拾間」とあり(*底本に註番号が漏れている)

*29「禅衣(オイスル)」は巡礼者の着る袖無し、笈摺(おいずる)。
   人名の「治」を活字本は「次」。
*30人名の「能」を「ノブ」と読む例を知らない。「みねよし」か「みねたか」「みねとう」ではないか。「ミネノフ(みねのう)」かもしれない。
   「持ち伝える」の「伝」、底本は旧字の「傳」、この文字を活字本は一冊すべて誤り養育の意味である「傅」にしている。
   一寸八分の像なら小指の大きさ、それほど小さな像でありながら人に祠を建てる発願をさせたのは象牙牛角など宝財の彫刻かもしれないと想像した。そのような小像、懐中仏が当時行われていたかは知らない。あるいは由緒ある胎内仏か。
*31寛政十二年は申(さる)。この風土記の成立が天明八年だから後日の加筆部分。宝永元年は1704年、宝暦は1751年の改元
*32冒頭の「世渡に」は意味が通らない。活字本は「世諺(せげん)に」とする。
*33ここも「稚」が「雅」になっている。
*34「古事讀」は源顕兼編の説話集『古事談』のこと。「讀」に(ママ)とルビ。
   第一話、称徳天皇(女帝)の陰部に藷蕷(やまのいも)が折れ籠り腫れて重篤に陥った。その時小手の尼[百済の医師 其の手嬰子の手の如し]が私の手に油を塗り差し入れて取り出せば治ると申し出た。しかし、この者は霊狐なりとて右中弁百川(ももかわ)が斬った。よって天皇はそのまま崩御した。
   私の読んだ岩波版の注記によると「小手」や「百済」の尼と記すのは『古事談』のみ、そして他書は尼を斬ったのでなく追却したとのこと。小手は小手姫などの固有名詞でなく小さな手をした尼の形容詞表現になる。あるいは小児麻痺によって片腕の肩や臂から先が肉の付かない人だったかもしれない。『古事談』に尼の居住地記載は無い。読んだ人が小手郷に付会して作話したか。一統は「小手尼がことは国史に見へず何ぞや」と追記する。作話であるにせよ、嘉祥年中口太山で藤原実方が辞世の歌を詠んだといったろくでもない明治期の作話より難は少ない。
   称徳天皇崩御は770年、それより百年ほど前の660年代、朝鮮半島では新羅高句麗百済を滅ぼした。人数規模は分らないものの今で言う難民が日本に来たことは推測できる。大和朝廷が東北の辺地に土地を与え住まわせたことも類推可能。それは異質人の隔離や国防の意味も含むけれど彼らの故地と緯度が近い、つまり昼夜時間と季節寒暖の対応が似て祭祀農耕の習俗を継続できる利点もある。そのコロニーから近隣を凌駕する実力者が現れたことは749年、陸奥国守が百済王(くだらのこにきし)敬福であったことから知られ、日本初産金900両を献上したことでその名が伝わる。それゆえ小手郷に百済人のコロニーもしくは縁者達の集落があったとしても歴史上の不都合は無い。川俣の隣町飯野では昭和の頃も地域の小区画を朝鮮語ふうに「洞」と呼ぶ習慣が残っていた。
   弘化四年もしくは嘉永四年の成立になる著者不詳『小手濫觴記』には「人王四十八代称徳天皇の御時神護景雲年中、百済国の女医小手尼といいし人此地に来り、飯坂村館(一本に曰く 尼館)に住し極めて霊人にし、人敬せしと小手古事談にみへたり」とある。江戸時代に『小手古事談』なる書冊があったとも読める。
   ついでに言えばこの称徳崩御の話、天皇家の下ネタ記事、もし明治憲法下に書かれたなら昔話といえ筆者は不敬罪実刑を受ける。現代においても激しい非難を浴び生活の資を得るのは困難になろう。高天原の機屋、その天井を破ってスサノヲが生剥の馬を落とした狼藉に驚きの織女は梭に陰上(ほと)を衝いて死んだ。イザナミは火の神を産んだ際に御陰(みほと)焼かれて病み臥した。その嘔吐や糞尿から神が生まれるなど記紀の神代記述は人体の生殖器排泄器表出を憚らない。儒教文化受容以前の物語になる。論語は人が日常行なう交接と排泄の二点を記さない。あれほど規矩準縄を並べた孔子がなぜこの二つを述べないか。バカな私の非学術的推測を言えば無防備な姿勢ゆえいかな孔子も範を立てられなかったと見る。神代期には嫌悪忌避すべきものとしての猥褻概念が無かった。やがて正史から猥語が消えても私文書には残り、その一つがこの称徳と尼の説話になる。
*35「耶」をガリ版本は「那」と誤記、木花之開耶姫。「藤からまりニ有」は活字本も同様に書くが「からまりてあり」だろう。
*36「雷楔雷斧」は土中にあった古代の石器。昔の人は雷によって天空から落ちたと考えた。
*37ここの菩薩の文字は草冠を上下に並べた略字、二文字を一文字にした。唐代に始まり日本では空海が用いて広まる。
*38「岐神」の読みは「くなどのかみ、ちまたがみ、さえのかみ」など。一統は「技神」と誤記。「道途」を活字本は「首途」とする。「かどで」の意味と読みゆえ活字本が正。道の字に首があることや集落境の呪標については白川静氏の『中国古代の文化』記述が詳しい。
   道祖神は外界と他部族への恐れに発する。追儺の意匠は平安時代より祭礼と年中行事に取り込まれ、幕末の攘夷運動や太平洋戦争時の鬼畜米英に対した大和魂鼓舞にまでその心情は通底する。
*39「五百田」を活字本は「五反田」と誤記。
*40「影向池」を活字本は「影白池」とする。神社の話ゆえ「影向池(えいごういけ、ようごうち)」が合う。
*41「動橋」の読みは石川県に「いぶりはし」の地名があるも、明治期の文書に「ユルキ橋」の筆記あり。古くは吊橋だったかもしれない。
*42「虎の千里を跼る勢い」。「跼」を活字本は「踏」とする。虎は日に千里往きて千里還る、隆盛を意味する言葉。「跼る」には「せぐくまる」の読みがあるも身を屈める意味でこれは誤字。活字本の「踏る」は「ふまえる」と読んだか。実はどちらも誤字。『都図会』鞍馬寺の項に「正月初めの寅の日諸人群参する事は毘沙門天十種の福(さいはひ)を与え給ふ誓願ありて賈人(あきびと)売り買ふ物の利潤に虎の千里を趨(はし)る勢を縁にとりて、この日参るなり」を写したもの。従ってここの「跼」や「踏」は「趨」。
   活字本は「賈人」を「買人」と誤記。
*43「叉流」という言葉は無い。三浦氏の頃川俣の意味で用いられた口語の「又水」であろう。一統は「将軍地蔵の垂跡也と云ふ 此神流水の守護神と現じ給ひ又火災を退給ふとなり」筋の正しい語り口に志田氏の聡明さが現れる。また付言して「一書に伊邪那美命 加遇津智神を生給ひ御陰を焼て崩給ふ 故に仇子と云へる心なるべし」と記して「阿太子」の説明もしている。三浦氏の文は、『都図会』愛宕山の項「本地は将軍地蔵を垂跡(すゐじゃく)となし帝都の守護神として火災を永く退け給ふ」の「帝都」を川俣に替えたもの。
   愛宕山は修験、神仏習合の山。火伏せの神、軍神、太郎坊天狗などの顔を持つ。愛宕神社は江戸期繁栄したものの神仏分離令によって愛宕権現は廃された。
*44編者の書き漏らしがある。活字本は「水月庵むかし水月池と云あり 此水常に湛々として月の影は清水に宿りて澄ミ池水ハまた月の皎(アキラカ)なるを照らす よって水月庵の名あり」こちらが正。
*45@の字は克に殳、字形の近さなら殻になろうか。しかし乾殻では鐘の話に意味が通らない。一統はこの文字を欠く。
   「鍠」は鉞を意味するも「鐘の音」の意にも用いる。
*46「明闇(みょうあん)」はこの世あの世。「恢」はひろく。
   「梵三濟」が読めない。「梵三」あるいは「三済」なる仏教用語でもあるのか。一統は「梵天三済」。
   「福田(ふくでん)」は地味肥えて実り豊かな田の意味だけれど仏家が用いる場合は比丘など修行僧を差す。
*47@の字は「巫」の人の字をノにした偏に肖、近い字は「瑣」や同義の「琑」。
   その前の字「邨」を活字本は「邦」とする。さりながら「邨」は「邪」、@は「銷」ではないか。「除邪銷凶」、神主読みなら「よこしまをのぞき、まがつびをけす」、坊主読みでは「じょじゃしょうきょう」。俗に財布を銷金袋と呼ぶ。
   「惰懈」は通常「懈惰(けたい、かいだ)」と書く、怠け心。
*48「遄」はすみやかに。「狗留孫仏(くるそんぶつ)」は釈迦牟尼以前に現れた過去七仏の第四。
*49「讋」はおそれる。「金仙」は釈迦や仏陀。「無情説法」とは心を持たない石や鉄が感情を持つ人や獣に仏法を示すこと。
   「陌(はく)」は街路、一統はこの字を欠き次を「鄽々」とする。都の碁盤縞道路で東西に走るを「陌」、南北を「阡(せん)」と呼ぶ。「鄽(てん)」は店。
*50@は方に毎、旗を意味する「旃」か。栴檀の「栴」にもこの字を用いる。しかし「旋」もある。
*51「予」は送り仮名で小文字。「彌」の読みが「いよいよ」であることを示す。活字本はここを「儞(なんじ)」にする。また一統はこの行の「輝」を「運」とする。
*52私は返り点のない漢文を読めない。文字や単語を解しても語節文節を掴めないのがその理由になる。にもかかわらずでたらめの素人読みをしてみた。どなたなりと私の愚を笑い指摘し、改めてすらり読み下していただきたい。
   一行目の@には文字形の似た「敔(ぎょ)」を入れた。『白虎通義』に曰く「鐘、兌音也、柷敔、乾音也」。柷(しゅく)と敔、ともに木製の楽器であり柷は枡形の箱に棒を差し入れカタカタ鳴らす。敔は伏せた虎の背に洗濯板のようなギザギザを設け棒先を当てて鳴らす。どちらも日本には伝わっていない。この文章の起草者は何かの文典に鐘と敔が同列にあるのを見て同種の楽器と思ったかもしれない。(お前みたいなアホと一緒にすなっ)と叱声あるか。ままよ。甚十郎氏の書いた文字はわからないけれど日本語で使われない文字ゆえ書写子が書き迷った可能性はあろう。
   他に注で述べなかった語句の私見を言えば、「孤頭」を梵鐘の比喩とした。「梵三済」は一統に「天」が加えてあるついでに「三」のあとへ「界」を勝手に加えた。「六々」は朝六つ暮六つ、「早晩」は朝夕、「文世」は武力によらない文治の世、「郡品」はその土地の人々貴賎上下、「三昧」は一心に思うこと、「従@」は「旋(めぐる)に従い」と解した。「常」を「とこしなえ(久)」と読むのは現役僧侶に伺った。
   「妙なるかな 法器は内円外大にして口は地を呑む孤頭なる
    驚ろけり 乾敔(かんぎょ)の巓谷(てんこく)に鳴りて鍠(ひびき)は雲煙を出づ
    声は明闇(みょうあん)を徹し恢(ひろ)がるに辺(きわ)のあることなし
    地府を震踊し梵天に上騰す三界の衆苦を済抜して福田(ふくでん)を倍増せる
    邪(よこしま)を除き凶(まがつび)を銷(け)さん
    驚きより醒めたる民(もろもろ)の進止(ふるまい)ここに於いて昼誦夜禅(ちゅうずやぜん)懈惰(かいだ)に進むを策(いまし)む
    遄(すみやか)に六々早晩(あさゆう)の景刻を告ぐるは狗留孫仏(くるそんぶつ)を追転せる石鐘が余涓(よけん)釈迦文世祇園に創(はじ)む
    三宝は善神(ぜんじん)の護りを証し憐れみもて鬼を讋伏(しゅうふく)なせるを宣(の)べたり
    金仙(こんせん)を奉じたる無情説法は陌鄽(はくてん)喧(さわ)がしきへも音々聞々(おんおんもんもん)たる
    観音三昧悟道の旋(めぐ)るに従い 広く郡品を度(わた)す大因縁を作(な)す
    彌(ひさしく)億万年を持し彌(いよいよ)願うは四海晏全藜民豊楽孫子聯綿(れんめん)
    仏日(ぶつにち)の輝き増せば法輪常(とこしなえ)に転じて渓山月を吐く 清(さや)けきこと永く潺(せん)たり」
   「敔」の文字を当てたデタラメが気になる。この梵鐘は鉄器ゆえ戦時中に供出され原字を確かめるすべがない。また、拘留孫仏には何か石鐘に関するエピソードがあるかのように読んでみたがそれらしき話はまだ見つけていない。
*53「于時」は「ときに」と読む。「龍舎」は「年」のこと。