路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする1町飯坂(下)

一、岩清水 この水、信達両郡に稀なる清水という。
 李白の諺に石甃蒼苔に冷たし寒泉月明を湛うとはこれらの清泉を言うなるべし。(*54)
 続古 松もおひ又も苔むす石清水行末遠くつかへまつらん 貫之
 新拾 神垣や影ものとかに(註10)石清水すまん千とせの末そ久しき 為家(*55)
一、八幡宮 鳥井階七十五枚 別当 征夷山八幡寺
 勧請不詳、年久しく零落するといえども山号寺号は残り、八幡宮は連綿とありきたりしを、俗に八幡平兵衛という者、持ち来る所を、宝暦年中常泉九世台嶽和尚八幡寺を中興し給う。長十一間横八間(註9) 三畝三歩 除地不納。
 右の三十三観音、この山に安置せり。
 八幡の神号は筑紫筥崎(はこざき)験の松の下に八流れの幡(はた)下りきたる、赤幡四流白幡四流、すなわちここに社を立て、正八幡大菩薩と崇め奉りしとなり。是より国々へ移し奉る。宝永二酉年聖像造立、祭礼八月十五日。
一、秋葉大権現 階五十一枚 祭礼八月十八日
 宝暦年中、與宗禅師(註11)の建立。大内平五郎という人、遠州武居郡大登山秋葉寺より三尺坊の神木の板乞請け来たり、七寸四方、この地に勧請なり。(*56)
 堂前より叉水の@地、木の間木の間に顕われて川俣の佳景ここにとどまる。(*57)
   登秋葉山詩     大内希則(*58)
  堂閣荘厳輝列星 来遊@見入仙霊(*59)
  日曻東嶺祇林浄 影落西池草露馨
  玉樹鎖雲山鬱々 翠苔画石路青々(*60)
  安人護法神明化 凛冽清風気轉冷(*61)
一、小松倉敷常楽寺の旧地 池水あり今埋みて畑となる
一、氏家廟所 いにしえ氏家主膳という人、仙台に移りて高十四貫三百七十文領して志田郡中ノ目村に住す。氏家又次郎の同系か是非を知らず。
一、岩上淵 岩の水際に大日如来の石仏淵を臨んで立てり。大日堂の奥の院という。水うづまいて淵はなはだ深し。
一、射手の小屋 籠り小屋掛け 八軒在家
 桜ヶ作 竹の内 雑器田 中嶋 西戸の内 根元 米子田 古例にて出る
一、射手の卯時 小綱木村 大久保村 鶴田村 五十沢村 この四郷より出す(*62)
一、熊野宮 九日田
一、天神洞 祭所 天穂日命(あまのほのひのみこと) 社主佐藤山城守 地主国府野三十郎(*63)
 影向松 飛梅
 古昔、大宰府の聖廟をうつして祭れり、神威筑紫に斎(ヒト)し 祭礼八月廿五日
一、狸石 冠石 かふり石と言う。(*64)
一、桜ヶ作 みちのくのさくらがさくの桜花散るさくらあり咲くさくらあり 人丸(*65)
 それ桜は本朝風土の名産なり。その種類六十九品あり、殊にこの地勢温純(アタタカ)に桜樹に相応し清香(セイキャウ)他に勝れり。
一、[常州黒子千妙寺末寺天台宗]神宮寺 春日山と号す 久遠院とも併せて号す。本尊は阿弥陀如来安置す。
 開山慈覚大師、承和五年に入唐し天台五台山にして顕密(ケンミツ)の奥儀(ヲウギ)を究め、引聲(インショウ)の弥陀経(ミダキョウ)を伝えて同十四年に帰朝せり。然るに、かの引聲の一句を失念ありければ西方に向い祈誓ありしに、船の帆に小像の弥陀香煙に立ちて成就如是功徳荘厳(ショウジュニョゼクトクシャウガン)と唱(トナイ)給う。大師感涙止(とど)めて袈裟に移し帰朝し給うとなり。(註12)(*66)
一、天台智者大師 十一月廿四日これ天台智者大師の忌日なり。妙法蓮華経を釈して玄義文句摩訶止観を作り給えり。台宗をはじめきょうは報恩の講を行い侍る。在家にも赤小豆のかゆなど手向け侍る。
 薬師如来 恵心僧都御作
 大黒天 開山慈覚大師一刀三礼の作仏なり
一、元三大師
 不動明王
 東照宮
一、大聖歓喜天 地蔵堂 [唐銅鋳像 明和年中 秀純法印建立]
一、山王権現稲荷大明神[両神を勧請して当寺の鎮守とする]
一、十王堂 釈迦堂 [今はなし]
一、金剛界胎蔵界曼荼羅
 中村正道寺の什物なりしが故ありて天明三年当寺の什物となる
 不納[長四十三間横十八間] 二反五畝廿四歩
一、観音堂 小手三番札所 千手千眼観世音菩薩
   春風の吹こし付て飯坂や花のにほいをかみの宮寺
一、[長廿五間横十五間] 一反一畝歩 大円坊 今は春日山大円坊と号す
 稲荷宮 里人蚕飼の願上するに応験新たなり
一、[長廿六間横十五間] 一反三畝歩 千蔵坊 [近代俗地となる]
一、[長廿五間横十三間] 一反廿四歩 栄林坊
  [長廿一間横十七間] 一反一畝七歩 東岳坊 [近代俗地 五左衛門]
一、五十沢村 薬師別当 三条院と号す 五十沢坊
一、宮方 赤坂 観音堂(*67)
 樋の口 此処にて硯川、鶴田川と合す
一、住吉大明神 [祭所 上津少童命(うわつわたつみのみこと)中津少童命 底津少童命。日本記伊弉諾尊、日向檍原(あはきはら)にて祓し玉う時、海底より出る三神なり] 地主氏家又治郎。(*68)
 毎年正月十四日夜 住吉の御旅とて丁の筋へ出て終夜子供ら祭るなり。
一、宮町 宮橋 清淵川筋
一、中河原 川俣橋
 小手川清淵川、ここに合す。川又の地名ここより起る。水源は口太山より流れて広瀬川に落ちる。
一、横町
一、大日堂 唐銅大仏なり 寛文元[辛丑] 鋳る所なり 毎月八日縁日なり(*69)
一、本町
一、河原町
一、冨士宮 冨士大権現 祭所 木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)(*70)
 勧請の年月、年久しくて不祥。いにしえ権現の社有り、寛永十四年洪水に漂流して樹木絶えて河原となり、石倉権現と唱いて河原町の堀端に立たせ給う。そのあたりにから風呂などありしとなり。然るに宝永元年今の地へ遷座す。地主半沢彦三郎。
一、八幡宮天神宮
 いにしえ寛永年中迄この山岸を古川通りしとなり。よりてここを姥ヶ淵と言う。地主菅野久右エ門という者の祖母、霊夢を蒙りてこの山に建つ。ゆえに姥堂八幡と号す。然るにその後、惣社神主遠藤長門守、地主方より所望して造営をなし斎藤備前という者を社主と定む。毎年八月十五日祭礼。(*71)
一、@燈護摩所 修験万宝院(*72)
 遠州秋葉塔 [常夜燈 遠州秋葉山大権現 施主三町 寛政七卯歳八月吉日](*73)
       [世話人 石川左衛門 同文左衛門 同儀右衛門]
一、飯坂町
一、西宮大神宮 源太夫
 祭礼正月廿日十月廿日
 縁記に曰く、摂津国武庫(むこ)郡蛭児(ひるこ)社西宮太神宮を遷座すと云々。いにしえ鉄砲町の裏山、隠れ清水の脇に社あり、それより今の地へ移すという。今に石の小祠あり。
一、大乗妙典六十六部供養石 享保四[己亥]十月七日建(*74)
一、浄屋(きよめや) 風呂地[寛文年中、国領半兵衛様御竿先にて此処を御免下され候御除地なり](*75)
一、地蔵堂 中島 小手廿七番札所 宝暦十一[辛己] 手渡(てど)耕雲寺淵丈和尚、小手の三十三地蔵の札、相始るなり。(*76)
一、南無阿弥陀仏石 右は相馬 左は梁川保原 追分碑
一、人王六十三代村上天皇御宇、八条左大臣枝家公の乳母、伊藤摂津守頼旨の開発三十三町三畝と言う、四郡とは川俣の事なり。頼旨は大和国飯坂の出生なり、これにより村名とす。委しくは大宮司清観の巻に見えたり、これを略す。(*77)
一、慶長十八[癸丑]年九月三日 御縄安井五郎左衛門、森善右衛門。村高 千四百石四合。
 その後慶長十七年より新田開発高増して万治年中御検地帳 飯坂村惣都合 二千七百二十二石五升四合 墨付百九十三枚。
一、寛文十三年三月、御縄御代官国領半兵衛様手代前田平右衛門、生野瀬平、石嶋庄兵衛、山口権右衛門。(*78)
 七百六石五升九合鶴田村へ分郷すといえども猶千九百二十一石九斗三升九合の大村にして、その後享保二酉年町在両村に分る。町名主安兵衛、在名主彦右衛門。
 飯坂村高 千九百八十一石五斗七升四合
      [この反別 二百二十九町七反九歩]
      [この取米 九百八十九石八斗四升四勺八才]
         [内 高九百四十一石九斗六升 町方]
         [  高千三十九石六斗一升四合 在方]
一、六十三騎 百五十石 氏家孫兵衛
       二百石  渡辺弥治エ門
       百五十石 安斎四郎左衛門

註9一本に「横八間」とあり(*常泉本は「横九間」)
註10一本に「のどけき」とあり
註11一本に「興宗」とあり
註12(一統)大師は弘仁十三年に自寂す。承和より十七年以前なり、貞観八年慈覚大師と謚(おくりな)す。

*54「石甃」を活字本は「石秋尾」と誤記。
   李白の詩は『桓公井』、「石甃は蒼苔に冷たく 寒泉は孤月を湛う」。「孤月」を「秋月」とした辞典が一つあった。「月明」はない。
*55この二首をガリ版本と活字本は次の八幡宮の項に置く。
*56「七寸四方この地に勧請なり」とは意味不明文、一統は「七寸四分の御丈に作り奉りて此地に勧請す」と意味が通る。「三尺坊」は秋葉山伝説の天狗、もとは鎌倉時代の修験僧。
*57「叉水」は「川俣」と字義が等しい、口語における川俣の俗称と見る。
   @は日偏に旁、活字本は「叉水の暗地」とし、それまた意味不明。「叉水の勝地」なら文意に合う。
*58作者名はあっても題名をガリ版本と活字本は欠く。一統によって補った。これも志田氏所持の本が早い時代の写本と見る理由。
*59@は牜偏に冬、活字本は「柊」とし、一統は「疑」。
*60「画」を一統は「恵」とする。それは意味が通らない。また活字本は翠苔の前に意味なく「丁」の字がある。
*61最後の字「冷」を一統は「令」とする。それは文法的に合わない。
   デタラメ読みを試みる。
    秋葉山に登れるの詩 大内希則
   堂閣の荘厳にして列星は輝き 来遊したれば仙霊の入りたるかと疑い見ん
   日は東嶺に曻(のぼ)りて祇林(ぎりん)浄(きよ)く 影は西池に落ちて草露馨(かお)る
   玉樹は雲山の鎖して鬱々たり 翠苔は石路を画(えが)き青々(せいせい)たる
   人を安んぜる護法神明の化 凛冽清風に気(こころ)は轉(うたた)冷(きよ)まりぬ
*62「射手の卯時」の意味がわからずにいたところ拾い読みした弘前市史に「卯時代銭(うどきだいせん)」という小物成、江戸時代の税項目があった。藩主及び藩の馬の秣(まぐさ)代とのこと。つまり卯時は飼葉、射手が乗る馬の飼料を四村が出す。卯の刻は午前六時前後、それが秣を意味するようになったのは何か説話があっただろう。現代の広辞苑レベル辞書には提示なく死語。
*63「天穂日命」は天孫降臨に先立ち出雲に降りた神。
*64「かふり」は「かぶり」か「かむり」、判断できず濁点を付けない。世に多いのはかぶり石。
*65この歌は昔の早口言葉。人丸の名を用いたのは和歌なら人丸とての戯言。
*66「慈覚」を活字本は「慈学」と誤る。最澄の後釜円仁のこと。また「香煙」を「香爐」とする。この一文は『都図会』極楽寺真如堂の項から引き写し。
*67「宮方」を活字本は「宮守」と記す。
*68「檍原」を活字本は意訳して「橿原(かしはら)」。金子氏の筆記は「檍」。古事記の「阿波岐原(あはきはら)」。
   住吉の神名なら表筒男命中筒男命底筒男命のはずだがこれも時代の愛嬌。
*69「唐銅(からかね)」は青銅のこと。寛文元年は1661年。活字本は「辛巳」と誤記。建屋は何度も更新されていようが堂は現存し、中の大日如来像が町の指定文化財になっている。この像は正徳5(1715)年の鋳造であり風土記成立は1788年、近所の三浦氏は目にしているだろうに記していない。なぜか。教えを請う。
*70「耶」をここも「那」にしており(ママ)のルビ。活字本は「木」を誤って「本」にしている。
*71「この山岸を古川通りしとなり」を活字本は「此山峰を古川通と也」と書く。「古」に「いにしえ」と振り仮名したものの文の冒頭と言葉が重複する。金子青々氏の筆記は「此の峰を」。峰を川が通るという言い回しはありえない。
   「よりて…姥ヶ淵と言う」は地主母の説明後に来るべき接続になる。
*72@の字は手偏に宋。活字本は手偏に栄、その栄の上にノが付く。薪を井桁に組んだ中で火を焚く修験道の採燈護摩(さいとうごま)であろう。当山派は柴燈と書く。
*73「施主三町」を活字本は「施主二ヶ所」とする。
*74享保四年の「己亥」を活字本は「乙亥」、ガリ版本が正しい。1719年。
*75検地を意味する「竿先」を活字本は「いて先」と誤記。「除地(のけち・のきち)」とは年貢諸役が免除される地。
*76「辛己」は誤、活字本の「辛巳(かのとみ)」が正。1761年。
   「三十三地蔵の札」を活字本は「三十三番の札」、これは文意からガリ版本が正。
*77養育係の男に「乳母」を冠するのは文字面の座りが悪い。「乳母父・乳母傅・乳人」の記法があり読みはどれも「めのと」。
   村上天皇時代の左大臣藤原実頼、この人物が八条殿や枝家公と呼ばれた形跡はなく小野宮殿の呼称をもつ。「枝家公」を一統は「持家公」と書く。八条殿と呼ばれた左大臣なら百年後に藤原長実がいる。しかし枝家あるいは持家公、乳母の系譜伊藤頼旨の名とともにこの記述不明。
   「清観」を活字本は「清規」。「大宮司清観(規)の巻」不明。
*78「山口権右衛門」を活字本は「山口権左衛門」。