路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする2在飯坂

 2、在飯坂村
一、華塚山(はなづかやま) 小手五岳の一つなり
 それ当山は伊達の高山にして南は口太(くちぶと)木幡(こわた)の嶺高く聳え、西は安達太良信夫の山々、北は苅田嶽伊達大木戸国見山阿武隈の流れ、蒼天には東海の海原金華山も只この嶺より一眼の内に遮(サヘギリ)双眸の客となりぬ。衆山に秀で巌頭嶮々として李白の大姥の吟に五岳をなし天台の四万八千丈もここに相対すべし。(*1)
 そもそも当山の草創を尋ぬるに日本台宗第二祖慈覚大師、奥羽二州に群生安全の依怙たる勝地を尋ね、この山に登りて数日護摩を修し、独り予が為にするにあらず、普(あまね)く塵類に及ぼし上は天子より下は弊民に至るまで平等に利益(りやく)せんや。時に紫雲たなびき天華(てんげ)交り下りて華塚山大権現とあらわれ給う。仰ぎて信ずべし。(*2)
 済度衆生の御本意正しく当山にあり。干魃に雨を乞い霖雨に晴を祈るに応験(おうげん)あらたなること朝日の山の端を出るが如く、花園の華は十二房に咲きて十二因縁を示し、心なき草木石の苔までも帰依し奉りて、御山慕う人誤りて草木を手折れば晴天忽(タチマチ)雨となる。返し奉れば雲散じて晴る。かかれば歩を運ぶ者引きもきらず四月八日八月八日を縁日とす。別当 神宮寺。
一、鳥居額 華塚山大権現
 籠り小屋 不動明王童子
 対面石 鎖にて登る 籠り石
 御宝前 土俗おむろと唱う 不動石(*3)
 屏風石 六枚あり高さ三丈余 幅五尺余(*4)
 華園 十二房の華 烏帽子石
 胎内潜り 鎮護岩 姫小松
 護摩壇石 慈覚大師護摩修行の石なり
 皆石山にて大石名石霊仏霊神の影向(ようごう)なりとぞ、繁きゆえ略す、委しくは本縁記に見えたり。
一、願幣山(がんぺいざん) 四月の頃この山に登れば木々の花寒風に閉じられ咲きえざるが。漸々に暖風を得て一時に開けば紅白枝を交えて時ならぬ春に逢う。見る人もなき山里のさくら花ほかの散りなん後ぞ咲かましと伊勢の詠めるも思い出さるる。(*5)
一、日山大権現 この山をいにしえ日頭山(ヒカシラヤマ)と言いしを、らの字を略して東山(ヒカシヤマ)と唱う。伊達と宇多との境なり。元禄五年山論、六ヶ村出入以来、刈敷秣薪、村入相に相定め、山絵図、秋山清左衛門割元にて秋山一枚、大久保一枚、在飯坂桃木平(ももきだいら)次郎兵衛一枚所持。(*6)
一、麓山(はやま)大権現 地主 口留 左藤市兵衛
 十一月十八日、町在両村の皆この山へ掛るなり。是を麓山籠りと唱う。
一、熊野宮 鳥居 階五枚 栗木平駅
一、石宮(註1) 蠶養(こがい)大明神
一、峠 水境
 右両所は元和九年新田伊達と宇多との境にして相馬への街道なり。この地甚(ハナハダ)絶景なり。この辺に行基大士国分(註2)の石というあり、何れの石なるや不詳。
 道の傍らに巌の中より清泉出る所あり。炎暑の節、旅客の舌を潤すがために釈の行基、この巌を独鈷をもって穿ち給うとぞ古人言い伝えたり。(*7)
一、萩平 この駅、数度焼失しければ藤本勘(甚)助様手代、大井五郎左衛門という人、萩という字は火に禾艸(草)を添えたる故ならんと葉木平と書き改むべきよしとぞ。(*8)
一、観音堂 十一面観音 中曽袮(なかそね)
一、薬師堂 地主 市兵衛
一、追分碑 南無阿弥陀仏[右華塚山 左中村道]
一、桃木平[昔、左藤市兵衛という人、東山の惣主たりしとなり。今に道の傍らに大きなる石塔その印となり]
 成栗 昼曽袮 大木戸 山屋 三本梨 黒石作 砂田 本屋敷 太郎ヶ作 くぬきヶ塚[慶安二年の新田なり]
一、阿弥陀堂 将監台[いにしえ高橋将監居す]
一、馬頭観世音
一、古堂道内(こどどうち) 片平台
一、龍照庵 [龍照庵の旧地は成栗なり。明和年中祖円長考この地に移して永昌庵と改む、頭陀寺の末庵なり](*9)
一、松ノ口 石橋三枚
一、観音堂 伝教大師御作仏千手千眼観音
 階十枚[二間四面]小手丗一番札所。世人この堂へ煎豆を奉りて蚕の黒虫を除く祈願をこめるに霊験いちじるし。(*10)
 神宮寺の坊中、真鏡坊の旧地は松の口の後ろ、経塚というあり、今に石に字を書きたるものあり。松の口の後ろ桜川の前なり。
一、南無阿弥陀仏之碑 龍門左訥筆[正筆は高屋敷長左衛門所持](*11)
 この堂の後ろにて花塚川峠川合す
  法の道ためにときはの松の口おいきて御世の便りをぞ聞く
一、高屋敷 蛭内 長作
一、冷ヶ作 [稗ヶ作とも]
一、地蔵堂 小手地蔵詣で第廿八番
  桜川
一、観音堂 小手卅二番札所 十一面観世音菩薩
  何よりも波かぐはしき桜川むすびさる手に華ぞ散りぬる(*12)
 古碑(註3) ボンジアリ 延慶二年九月廿八日[孝子百ヶ日とあり 敬白 文化十二年迄五百二十年になる]
 人皇十四代花園院御宇、鎌倉将軍惟康親王御治世、執権相模守平時宗の時代なり。当時迄四百九十年に及ぶ。(*13)
  常よりも春辺になれば桜川波の花こそ間なく寄るらん(註4)紀貫之
 往古、常陸国桜川よりここに移せしと云々。
一、中居 射手清右衛門 米子田 名号碑無能筆 石仏 箭沢 老戸[また追徒とも]
一、于@ヶ滝 石の五大尊 別当萬宝院(*14)
 紀州那智の滝を移すとぞ。飛泉三丈余にして翠岩に傍(そ)うて西に落る。蒼樹蓊鬱として陰涼心に徹し毛骨悚然として近づきがたし。銀河倒掛三石梁香盧瀑布遥相望と作れるもかくやと思われ侍る。(*15)
一、尼館 妹ヶ作[土俗芋ヶ作と書く]
 何人の居所という事を知らず。庄司峯能の娘小手姫の旧地ならんか、尼館妹ヶ作と據名(よりな)なるべきか、なを古老に尋ぬべし。
 平 諏訪橋
一、諏訪大明神 小手十九社 神主斎藤若狭守
 神社考に曰く、この御神は事代主(ことしろぬし)の御弟、神功皇后(じんぐうこうごう)征夷の時、天照大神に託して住吉諏訪をもって輔佐となす云々。(*16)
 祭所 建御名方主命(たけみなかたぬしのみこと) この宮中に御正躰(みしょうたい)という物あり、鋳物にして丸き鏡のようなものなり。(*17)
 石灯籠二基 
 石鳥居 安永二[癸巳]年十一月建 寄附大井五郎左衛門尉宗信
 手水石 天明二[壬寅]年七月廿七日 施主左藤善蔵
 階十檀 階四十六旦 門階四十一檀
 長床[二間五間] 稲荷宮 本社 神明宮 大木榎あり
 人皇五十三代淳和天皇御宇 天長十[癸丑]年七月廿七日 この地に勧請
 甲松 大木の槻あり
一、城ノ倉館 伊達稙宗(たねむね)の旧館なり 飯坂右近大夫居すと言い伝えたり。
一、西光地
 落合 小手川壁沢川、ここにて落ち合うゆえ字名(あざな)とす。
一、伊豆大権現[この地主雉子食わず、あやまりて食う時は神の崇(とが)めを請(うけ)るとなり](*18)
一、鮎の内 関ノ上(*19)
 この地の要害、山を負い川を前にしたる所にして霊山国司北畠源中納言顕家公、関を立てたる旧跡なり。
一、稲荷大明神 祭所 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 鳥井階 [鮎内]掃内(かもん)氏神なり
一、戸石
  殿林[大石あり方六尺程のうつろあり、いにしえ落人を隠せしと云えり]
一、長養庵
 宝匤印陀羅尼塔[安永年中頭陀第一世祖印真牛和尚建立](*20)
 この宝匤印塔の風にあたる人倫は言うに及ばず鳥獣草木の類まで仏果を得ると聞き侍れば一見結縁(いちげんけちえん)の輩は現世にては無量の罪を@し、未来は三悪道を離れん事さらに疑いあるべからず。(*21)
一、瀧沢 下戸(しもと)
一、阿弥陀堂 行基菩薩の作のよし云い伝う。
一、庚申碑 この石を打てば鉦の音あり、俗にかね石と唱う。
一、白山大権現 白山大権現は諸神の御母神にてござす。願上(ねがいあげ)は歯の痛みあるもの箸を奉れば霊験あらたなりとて樹の枝に柴の箸を多く掛けたり。
一、笠松 文治年中源家の何某笠を置かれたる松という。明和年中おしいかな野火に焼枯す。今は名のみ残れり。(*22)
一、門前
一、白幡山 八幡の鎮座なり。独立したる山あり、この山、地震ゆらぬと云い伝えり。(*23)
一、辻堂 この堂は飛騨の工み一夜に造立したると云えり。
 大地蔵 妙音石

 不許葷酒入山門 龍門山東雲寺牷@筆 渡辺弥左衛門建立(*24)
 名馬の蹄 石に駒の爪跡あり
 石仏地蔵尊 宝暦八[戊寅]白七月朔日 鶏足山現住真牛叟建(*25)
 階七檀 山門
 頭陀十二景
  三庵堂[土人辻堂と言う]  妙音石
  紋笹渓[土人紋笹と言う]  万代橋[土人二枚橋と言う]
  観流亭          禅骨石[土人座禅石と言う]
  凌雲藤          甘露水[土人一盃清水と言う]
  高標松[土人護法松と言う] 隠里関[土人かくれさとと言う]
  鶏足峯          無々窟
 額 鶏足山 月舟和尚筆 十六羅漢
 右に太神宮 春日宮
 左に秋葉堂[九尺四面]天明年中卓祐坊建立
 この山に胡鬼(こぎ)の子という木あり、葉三つつきて実あり、形、羽子に似たり。
 後水尾院御製 つくばねのそれにはあらで胡鬼の子のこよいの月は空にすめすめ(*26)
一、小手卅三番札打納所額 観音堂[弘法大師御筆]
 十一面観世音菩薩 藤原稙宗公の守り本尊なり
  鶏の足の山の尾夢覚めて一こゑ千声ひびく谷峰
 頭陀寺額 月舟和尚筆跡
 額香積堂 額選仏場
 仏殿聯 鶏足峰高報三会天暁(*27)
     頭陀鉢闊接四来水雲(*28)
 本尊は大聖釈迦牟尼如来、脇師は文殊菩薩普賢菩薩、脇檀には大権修理菩薩(だいげんしゅりぼさつ)、達磨、円覚大師、聖徳太子、韋駄天、毘沙門天王。
 開山堂聯 坐石無双肩烏藤@日月(*29)
      栽松有正眼堂宇活人天(*30)
 開山物故胡三郎栽松青牛大和尚(*31)
  大地山河見此無 山河大地隠此無
  春天花與冬天雪 非有非無無亦無(*32)
 捐館 松洞院殿直山義天公大居士開基
 当山は往昔狼窪と言える深山にて山賤(やましず)田人(たびと)の往来も張森たり。大原派の栽松禅師、独りこの狼窪に三年座禅し給う。(*33)
 然るに春日大明神白鹿に乗じて来現し仏法を応護し給いて当山を開闢すと云々。
 人皇百一代後小松院御宇至徳元年なり。迦葉(かしょう)尊者入定(にゅうじょう)の地に比して山を鶏足山と号し、かの尊者頭陀第一たるによって寺を頭陀寺と号(なづ)く。(*34)
  開基大檀那 伊達領主伊達左京太輔 従五位上藤原稙宗
一、不納三町二反三畝十二歩
 頭陀勧進御免 小手廿余村春秋両度
  鶏足山深異類叢 梵音触耳馴尊功
  挙花会越高楼至 献@獣廻短@通(*35)
  風落天人応護@ 雲輝薩埵白毫虹(*36)
  迦葉入定三峯麓 嚢括頭陀第一宮(*37)
 されば法を聴きて龍の室に入り床を敲きて虎の堂に曻(のぼ)るとはこの禅刹のことなるべし。(*38)
一、小手庄辰の方に当る村なり、飯樋、二枚橋に隣る、宇多の郡境なり。
一、古碑 南無阿弥陀仏 正和四年五月 日(*39)
一、六十三騎 百石 齋藤雅楽之丞

註1石宮「二月十五日祭礼なり」(一統)
註2行基大士国分能…」一本に「国方」とあり
註3古碑「ボンジアリ」の五字及び「文化十二年迄五百廿二年ニナル」の句は後年書加えたものである。
註4常よりも…の一首、後撰集にあり。紀貫之の作で「間なく寄すらむ」が正しい。

*1この文後半は『都図会』鷲峰山金胎寺の項から引き写し。「…麻耶六甲山の高根もただこの嶺より一眼の中に遮りて双眸(まなじり)の客となりぬ。衆山に秀でて巌頭嶮々として樵夫も路を歩しかね、老杉繁茂しては白日を埋(うづ)んで闇(くら)し。李白が大姥の吟に、五嶽を支へ天台の四万八千丈もここに相対すべし」より。
  「李白の大姥の吟」は「天姥(てんぼ)」の誤り、「天姆」と記す書も有る、浙江省天台山華頂峯に隣する高山。李白が船の相客となった華南の人に山容を聞き、しばしまどろみの中で天姥へ行った夢を述べた詩『夢遊天姥吟』、「天姥は天に連なり天に向いて横たう 勢いは五嶽を抜き赤城を掩う 天台四万八千丈 これに対すれば東南に倒れ傾かんと欲す」。
  つまりこの誤字は三浦氏でなく秋里氏の責。ただし三浦氏が秋里氏の文を引き写したように秋里氏も『山州名跡志』や『山城名勝志』から引き写した部分があるという。今そこまで朔及する余裕が私にない。
  また「遮る」は「塞ぐ」の意味でありこの文のように展望が開ける場合で用いる例を知らない。『都図会』のルビも「さへぎり」となっている。これは「よぎり」「よこぎり」ではないか。『都図会』は総ルビの書冊であるけれど「根来寺」に「こんらいじ」のルビがあるようにそのすべてを秋里氏が施したとは思えない。版元の誰かが加えたのだろう。「まなじり」も同様で、この文の音調からは「いちがんのうちによぎりてそうぼうのきゃくとなりぬ」が聞きやすい。
  私は花塚に数十回登っており、天気の良い日は松川浦を望み、きょうは海が見えたと幸福感を得る。そして一度だけ北方向に宮城県の海岸線と牡鹿半島金華山までを明瞭に見渡した。2003年元日のこと。つまり文中の金華山を双眸の客とした記述は事実になる。近年はこの山から南の方角、富士山を写真に撮った方があり、町では富士の見える最北端の山と宣伝している。ならば米粒の富士山頂より蒼々たる海陸を一望する北の景を宣伝しても面白かろう。空気の汚れにより見える確率はほぼ等しい。ただし私自身は町おこし村おこしに関する一切に興味がない。
*2ガリ版本は「慈覚大師」を「慈学」と誤記、円仁のこと。また「群生安全」を活字本は「群り安全」と記す。これは一統の「衆生安全」が正。ただし一統は慈覚大師を最澄と誤記。
  「天華交り下りて」を活字本は「天華交下りて」とする。「交」に「こもごも」の読みを当てれば「まじり」より優る。
*3「御宝前」の「宝」に(ママ)のルビあり。活字本金子青々氏の筆記も「寶」、「おむろ」の読みから当然「室」であろう。また「鎖にて登る」を活字本は「鎖りまて登る」と誤記。
*4「丈」は「尺」の十倍、3メートル余。ガリ版本は「幅五尺余」の「尺」が「石」になっている。「石」と「尺」、どちらも漢音は「せき」呉音は「しゃく」。
*5「思い出さるる」を活字本は「思ひ出らるし」と日本語にならない。そして「外の散るなん後も咲きまじ」、それでは花が咲かない意味になってしまう。
*6「この山を」をガリ版本は「此三山を」とする。「之」を「三」と読んだもの。
*7「水境」は地元の口語で「みっつぁかい」。岩を打って水を噴出させるのは空海伝説からの援用。空海より先にモーセは杖で、ギリシャのペガサスは蹄で岩を打ち水を噴出させている。
*8「藤本勘助」を活字本は「藤本勘兵衛」。
*9「明和年中祖円長考」を活字本は「明和年祖円長考」、一統は「明和二年祖円長老」。
*10「黒虫」を活字本は「害虫」。
*11「龍門左訥」を一統は「龍門老衲」。
*12「むすびさる手に」を一統は「結び取手に」。「むすびさる」という言葉遣いはないゆえ「むすびとる手」を正としたい。
*13延慶二年は1309年。しかるに将軍が惟康親王であり執権が北条時宗であったのは1268年から1284年の間、時の院は亀山。
*14@は宇を偏としムユロを縦に並べて旁とする。活字本は「千豁」。読みも意味も不明。地域の方にお尋ねするもわからなかった。教えを請う。
   「五大尊」は密教系祭壇の配置。中央に不動明王、四方に降三世(ごうさんぜ)、軍荼利(ぐんだり)、大威徳、金剛夜叉の明王を配する。金剛夜叉は真言でのこと、天台はそれを烏枢沙摩(うすまさ)にする。
*15滝の描写は『都図会』音無滝の項から引き写し、寸法の二丈を三丈、方角の南を西に変えた。
   李白の詩は『盧山謡(ろざんのうた)寄盧虚舟(ろきょしゅうによす)』から「銀河倒挂(ぎんがさかしまにかく)三石梁(さんせきりょう) 香爐瀑布(こうろがばくふ)遥相望(はるかにあいのぞむ)」の引用。三石梁は三つ並んだ石橋、また天台山の石梁瀑布も想起させる。
*16「神功皇后」をガリ版本は「神宮妃宮」と書く。仲哀天皇の皇后であり熊襲を征し、天皇死後新羅も征して凱旋したと古記は言う。
*17「建御名方主神」は大国主の子であり兄が事代主と古事記に出ているも日本書紀には登場しない。国を譲れと出雲に来た武御雷(たけみかづち)と力比べをして敗れ、科野(しなの)の国、州羽(すは)の海まで走る。追跡してきた相手に命乞いをして国譲りを承諾した話になっている。諏訪神は近世まで軍神の性格を持つ。敗者に軍神は似合わない。何か別の物語が消されている。いつの時代も学者がいておのれの国を正とし大とする説を立てる。
   数行後にある長床の寸法「二間五間」を活字本は「二百五間」と誤記。
*18「此地主雉子不食」を活字本は「此地は雉子不食」とする。「崇メ越清る」を活字本は「崇めを請る」。咎め祟(たた)りを受けるの意味。
*19「鮎の内」の現在地名は「合ノ内」。
*20「真牛和尚」を活字本は「真井和尚」と記す。ガリ版本が正。
*21@は冫に成、括弧して「減カ」と脇注あり。無量の罪を減じ、あるいは滅しでも通る。活字本は「無量の罪を成し」とする。それでは文脈に合わない。
*22「焼枯」を活字本は「焼失」。
*23一統は「峯の上に誉田別命(ほむたわけのみこと)鎮座す 故に斯は山名を負せしなり 独立したる山なり 相伝説此山地震動すと云へり」。
*24@は草冠に沓、読みは「とう」、蓮の葉のこと。「牷」は一色の牛、読みは「せん」。活字本は「牷」を繋ぐ意味の「拴」とする。どちらが正かわからない。
*25「白七月」とは秋七月の意味。「叟」を活字本は「翁」とする、同意味。
*26この歌は『絵本浅紫』の引用で流布した。筑波嶺と衝羽根を掛けている。
*27禅寺の「三会(さんえ、さんね)」は鐘鼓を鳴らすこと。一会(いちえ)が三六回、計百八回。
*28「四来」を出会う人誰とでもの意味にしてデタラメ読みをする。
   「鶏足の峰高く天暁(よあけ)に三会を報じ 頭陀の鉢は闊(ひろ)く四来に接して水雲なり」雲水の行と解した。
   後に記述あるよう頭陀寺は領主から年二度小手郷ひろく布施を集める許可を得ている。「水雲(もずく)」を肴に鉢の酒を酌み交わそうという意味ではない。
*29@は挑の字の兆の上に点をつけ(桃カ)とルビする。「桃李月」は三月の意味だけれど「桃日月」という言葉は知らない。活字本は桃の上に点を加える。
   「坐石」を活字本は「坐右」、それでは意味が怪しい。
   「烏藤(うとう)とは藤の杖、または反魂草。この詩の場合、役の行者のように肩へ凭せ掛けた杖もなくとの読みもできる。
*30次行に有る通り「栽松」は僧侶名、「正眼」は正法眼蔵の意味で「しょうげん」と読めば前の行の「双肩(そうけん)」と音調が合う。「烏藤(うとう)」と「堂宇(どうう)」も然り。この作者耳が良い。
   またデタラメ読み。@にめぐるの意味で「撓(とう)」を入れてみた。動く動かすの「扤(こつ、げつ)」でも通る。
   「石に坐し双肩に烏藤無し日月撓(めぐ)る 栽松が正眼堂宇に有りて人天(にんでん)を活(い)かす」
*31この一行、ガリ版本は欠。
*32デタラメ読み。
   「大地山河此れ見る無し 山河大地此れ隠る無し 春天の花と冬天の雪 有るにあらず無にあらず無また無」
   次行の長い居士名は伊達稙宗法名
*33「張森」に(ママ)のルビあり意味不明の語。一統は字形も異なる「良稀」とする。あるいはかな文字の脱落と見て「山賤田人の往来もなく陰森たり」とするも可能。
   なを活字本は「狼窪」を「狼窟」と記す。また「大原派」を「大源派」、これは曹洞宗太源派であろう。
*34「至徳」は北朝の年号、元年は1384年。
   「迦葉」は釈迦の一番弟子。頭陀行は衣食住への執着を捨てる生活、糞掃衣(ふんぞうえ)をまとい、布施されたものを一日一食、俗世を離れた林に住まう。
*35上の@は前の字の冠部に日と木を縦並べ、活字本は「菓」。下の@は木偏に円、その円の上部が田になる、活字本は「棚」。一統はこの行「献菓獣廻短柵通」とする。
*36@は竹冠に尤、活字本は受の上を竹冠にした字、一統は「笑」。
   「薩埵(さった)」は衆生、「菩提薩埵」は悟りを求める衆生の意味。「白毫(びゃくごう)」は仏眉間の毛玉、光を放つ。
*37「三峰」そもそも鶏足山とは前面に三峰、後ろに一峰あることによる命名。「嚢括(のうかつ)」は残らず包み取るの意味。
   また素人読み、一統の文字を用いた。
   「鶏足の山深くして異類叢(むらが)れど 梵音耳に触れなば尊功に馴(した)がう
    花は挙(こぞ)りて高楼を越え会するに至る 献菓へ獣ら短(ひく)き柵を通り廻(もとお)る
    風や落ち天人応護の笑(えま)い 雲輝きて薩埵白毫の虹
    迦葉入定三峰の麓 嚢括せる頭陀第一の宮(てら)なり」
*38「敲(たたく)」を活字本は「歊(のぼる)」と記す。「升堂入室(どうにのぼりしつにいる)」は学問階梯の成句。学舎に入り(升堂)奥儀を極める(入室)。仏家は「室に入る」を奥儀伝授と弟子入り双方に用いる。この一行は『都図会』興聖禅寺から引き写し。
*39「正和(しょうわ)四年」は1315年。