路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする3鶴田村

 3、鶴田村
 小手四郷の一つなり。往古蔓田と云いしを八幡太郎義家公鶴を放ち給う地なるによって鶴田と改むと云い伝えたり。また飯坂村の分郷なりと云々。
一、伊豆大権現[不納四畝廿四歩] 神主 三浦日向守
 鳥居長床階八十四旦。この社、勧請いつの頃ということを知らず。されども木立ものふりて神さびたる風情いと尊し。
 この氏子雉子を食わず。誤りて食う時は神の祟(タタリ)あり。字を中山という。
 春日御神事流鏑馬ヤブサメ)十六勢馬、ここより古例によって出す。
 大木の榎あり、嘉祥年中これを植えしと云々。
一、麓山大権現
一、小手第四番札所観音堂[縁日二月十七日 字戸ノ内]
   仮の身を後の世のためめぐり来て千代をつるたの御法にそ逢ふ
一、追分碑 東川俣 西二本松 北福嶌
一、鶴田橋 小神と松沢の流れこの橋の下にて合す(*1)
一、佐藤堂[九尺四面]
 むかし信夫城主佐藤庄司家信の持仏という。かの本尊の後ろに大法房圓意とありとなん。按ずるに西行法師の事ならんか。
 西行法師は俵藤太秀郷八代の孫、左衛門尉康清の二男、母は監物源清経の女なり。四条家の人なり。鳥羽院の北面の侍にて佐藤兵衛憲清(のりきよ)といいし者。道心を発し出家入道して初め大法房圓意と云い、後に西行法師と言う。仁安二年のころ諸国修行に赴けり。(*2)
一、伊豆大権現 祭所 大山祇命 神主 市正
 諺(さとことば)に三嶋さまと称す。伊豆の三嶋の遷座なるべきか。
一、八羽内(はっぱうち)館
 鶴産田(ツルナシタ) 栄田
一、地蔵堂 小手地蔵詣廿三番札所 地主 栄田甚右衛門
 古碑あり梵字ばかり残りて年号もきえて見えず、野梅の古木などあり、或る人一里塚なりと云えり。(*3)
一、毘沙門堂 この堂内に勢至菩薩秋葉大権現、三尊一宇に建たせ給う。(*4)
 林の窪 道の下に清水湧き出る 子栄田 榎田 栃久保 反町 大原 胡摩ヶ作(*5)
一、屈(カガ)め地蔵堂 字細越
 小手地蔵詣二十二番 地主 兵次郎
 そもそもこの地蔵堂は至徳年中に鶴田の農夫あまた夢見らく、翌日牛に乗りて禅師来るべし、その禅師に開眼を頼めよと見て互いに語り合いけるに、少しも違わず誠に奇特の御事なりとてその日牛に乗り来る禅師あり。これを請じて開眼を頼みけるに禅師頌を唱いて屈(カガ)め地蔵と仰せられしにかがみたる地蔵尊なり。これ則(すなわ)ち頭陀開山胡三郎栽松青牛大和尚なり。(*6)
一、円鏡坊 田中坊 八幡坊という坊地二三ヶ所ありしとなり、今はその地所もさだかなり。(*7)
 征夷山八幡寺という寺あり、いつの頃か飯坂村に移したりし。これ義家朝臣鶴を放ち給う旧地か。
 飯坂村に分村にしていにしえ七軒在家なりしとかや。
一、村高 七百四十六石五斗五升九合
一、東西十五丁 南北七丁
一、六十三騎 無知行 関兵右衛門
   中山住人武藤新五郎 町飯坂住人三浦甚十郎 之を記す

*1ガリ版本は行の冒頭、「橋」であるべきを「村」と書く。
*2仁安二年は1167年、西行は四国の崇徳院白峯陵を訪れた。仁安三年とする書もある。また法名「円意」は「円位」とする書が多い。
  西行東下りは1148年頃と1186年の二度。東へ行っても西行とはこれいかに。ハイッ、一つでもマンジュウ、二人でもマンザイ、三羽でもニワトリ、四本でもゴボウ、何時に現れてもゴジラ
*3「古木抔あり」を活字本は「古木杯あり」と誤記し、「或る人…云へり」を欠。
*4「勢至」をガリ版本は「聖至」、編集者が脇注で(勢)を入れた。活字本は「聖至」のまま。勢至菩薩は観世音と共に阿弥陀如来の脇師、智慧の光で衆生の迷いを照らす。
*5「大原」を活字本は「大町」と誤記。また「栄田」と「子栄田」の現在地名表記は「堺田」と「古堺田」。
*6下手な喋りをそのまま文字にしたようなわかりにくい文章。一統はこの部分「開眼を頼めるに 法師手指を以て地蔵尊の天窓を押へ 頌を唱へて汝は六道(りくどう)の能化(のうげ) 我は三界の導師 屈め屈めと宣ひしに 地蔵の尊像頭を低給へり…」とまともな文。ただし話は低劣(おれは偉ぇんだ、オメエは頭(づ)が高ぇ)という内容。
  また、村人皆同じ夢を見る事例は女神山の項目でも登場する。
*7文末の「なり」に(ママ)のルビ、当然「定かならず」。修験者の居地。