路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする4松沢村

 4、松沢村
一、小手十九社 甲(かぶと)大明神
 そもそも当社、甲大明神は祭所源太義平朝臣の神霊なり。往昔、山上に神霊影向(ようごう)ならせ給う。我宮城として長く国民を安全に守らんと託宣ありしより義平山と言う。
 その地に一夜に椋の木生ぜり。よって椋生地と言う。
 その後、郎等三浦万三郎義久という者、君の甲冑を携え来たり、神の霊告を蒙り遠西(とおにし)なる山に甲を埋めて松を植うる。是を甲松と言う。(*1)
 山城国和束(ワツル)の郷、観音堂に冑の社あり。祭所は高倉院の御冑なり。宇治の合戦に敗北し給い冑の落しを村人拾い取りて家に納めしところ甚だ祟りあり。故に神殿を造りここの産沙神(うぶすなかみ)とす。祭りは九月三日なり。(*2)
 その例になろうて人皇七十八代二条院御宇、応保(おうほう)二[壬午]九月廿五日今の地に遷座、甲大明神と祟敬し奉り、時に清泉巌より湧き出る。これすなわち神霊影向の御手洗とすと云々、委しくは社記に見るべし。(*3)
 甲松 義平ヶ清水
一、神明宮[伊勢内外太神宮] 神主 三浦和泉守
 不納二畝二十三歩 高二斗七升
 例祭八月廿五日 天蓬大元帥下降の日なりとてこれを定むと云々。(*4)
 鳥居額 甲太明神 階四十九枚
  君が世にくらべていはば松沢の松の葉数ぞすくなかりける よみ人知らず
 奉納 立ものもほの三日月や甲松 真丹
 馬場 宮の入 竹の内 中西 戸ノ内
一、稲荷宮 古碑 元亨二戊年とあり
一、十二御前
 後醍醐天皇の御宇にあたる。これ元亨の頃稲荷宮鎮座なりけるや。何人の建立なるや聞かまほしく村老に尋ぬれども不詳。当時迄四百七十八年に及ぶ。その後齋藤十郎兵衛という人、阿弥陀堂建立すと云う。松杉茂りていと尊し。
一、阿弥陀堂[九尺四面] 縁日二月二十八日
 椋生地[寛文のころより杢生地と民帳にも見えたり、山上に義平が池とてあり] 荒屋敷
 東 法華千部塔 曇山和尚建
一、鶏眼山金松寺 禅宗 不納二畝十五歩 高二斗五升
 左右に地蔵尊 階三十一枚 庭に松あり、松は百木の長とて木偏に公の字を書きたり。四時色を改めず和漢これを愛賞す。
 開山 頭陀十一世里山桂村大和尚
一、小手十番札所観音堂 九尺四面[ここ金松氏の廟所なり]
  金松の庭の砂の月影にふまでおどろく夏の夜の霜
 街道端に古碑あり、梵字ほのかに見ゆ、年号も消えて見えず。
 池の上 一本松作[桐之介屋敷跡 古(いにしえ)伊達政宗公に奉公 御馬の口取となり]
 小屋館[いにしえ金松氏なる人居すと云えり]
一、大池
 中秋の月見んとや池の汀に臨んでよもすがら盃をめぐらし千里を共にして隈なき空の気色に月も宿かす広沢の池と詠ぜしも今さらに千々に物悲しく風は繊雲(センウン)を払って浄(キヨ)く露は月明に降りて謝荘は月賦を作り庚亮は南楼に登る和漢中秋の月を賞する事古今変らず。(*5)
  明月や池をめぐりて夜もすがら はせを(芭蕉
一、京都聖護院御下伊予坊末寺 荘厳山南泉院
 不納九畝六歩 高九斗二升
 芹の沢 鳥居町(*6)
 住吉木幡山弁天の鳥居の旧地なりと。今留(とど)めず。(*7)
一、大久保大正院支配 圓奇三明坊(*8)
一、地蔵堂[田の中に社あり] 熊野宮[杉森の中]
 鬼口 ここに鬼のかしらという石あり。その口とおぼしき処より水湧出る、よりて鬼口と云々。それを中ごろ折口と唱いたりと云う。近代あやまりて爪口と唱うとなり。(*9)
一、硯石稲荷
 老松枝そびえて大石あり、御室あり、大石の上に窪き処あり、硯の形に水溜りあり。(*10)
 中田 明松柵[連理の松あり宝暦年中大風にて吹き折れしとなり]
一、船石 田の中にあり船の形によく似たるゆえに名とす
  姥石 老女の顔のごとく見ゆるなり、よりて名とす
  梅の窪 峯崎[また三根崎とも] 石保待(いしほまち)(*11)
 池中になかの窪かなる大石あり、往古この石の窪かなる処へたわむれに子供等稲を植えけるに風雨順時にして実入りけるとなり。よって子供の保待(ほまち)に得させしより石保待と云々。
 五風は五日に一度風、十雨は十日に一度の雨、一年に三十六日の穀雨なり、上古堯舜(ギャウシュン)の聖代に五風十雨の例(ためし)ありとて和漢ともに嘉瑞(カヅイ)の例し人口に膾炙することなり。(*12)
 日本神代の昔は十雨の例もあるべき事ならん。
 先は是迄書記にも見えず、然るに享保六[辛丑]一年閏月ともに三百八十四日の内三十九日穀雨をくだし、三百四十五日快晴をあらわし、民家九年の貯(タクワイ)をなし、翌年享保七年[壬寅]の一とせ三百五十四日の内、三十六日穀雨を下し三百十八日快晴続きて、両年の十雨は古今の奇瑞、稲粱(トウリウ)肥え稔り万倍の粒なり。民十八年の豊饒(ブニャウ)の貯(タクハイ)にあくる。(*13)
 偏(ヒトヘ)に御上の政務神慮に叶わせられ仁徳の余斗とはこの豊饒の事、後代の明鑑なり。かかればこの両年、石上の稲又々実のりけるとなり。(*14)
  豊年の秋な忘れず石保待 真丹(*15)
一、新助館 箭川田 和尚檀 遠西
一、小手地蔵詣第廿番地蔵堂七尺四面 階
一、虚空蔵堂
一、追分碑 右福嶌 左二本松道
一、愛宕山大権現 @中(*16)
一、六十三騎 百五十石 中西 斉藤十郎左衛門
一、七軒在家 東大学 十郎内丹後[斉藤] 中田将監[渡辺] 中西掃部 遠西土佐[高橋] 椋生地庄三 浮面隼人(*17)
一、土地禾に宜し、松沢米と唱う。(*18)
 およそ九穀を種(う)うるに成収満平は吉日を定め生壮長日をもって種うるは実多く、老悪死日に種うるは収薄し。忌日に種うるは敗傷す、もし忌を避けざれば徒(いたず)らに労(つからし)め成(みの)るなし。(*19)
 小豆に卯を忌む、大麦に戌を忌む、稲麻に辰を忌む、秝に寅を忌む、大豆に申を忌む、小麦に子を忌む、晩禾に丙を忌む、黍に丑を忌む、事林広記に委し。(*20)
一、松沢山長楽寺[真言宗保原長谷寺末寺] 不納九畝六歩 高九斗二升
一、小蓯王(こしょうおう)権現 中田(*21)
一、第六天 祭所 面足尊(おもだるのみこと) 惶根尊(かしこねのみこと) 戸之内(*22)
 階十枚 大石大木の樫あり 稲荷宮弁天の小祠などあり
一、村高 九百三十四石五斗三升三合 東西十五丁 南北七丁

*1「遠西」は地名。一統は「遠い西なる山へ」と編集者が誤読。
*2地名(ワツル)は(わづか)。
  この文章、「祭所は」から「九月三日なり」まで『都図会』冑の社(かぶとのやしろ)引き写し。ただ一点「高倉院」が誤り。活字本も院。『都図会』では「高倉宮」であり一統も宮。二人とも後白河の子、平家物語の登場人物。まぎらわしいので二人の別を述べる。
  「高倉院」と言えば八十代高倉天皇を指す。後白河第七皇子、清盛の意向により8歳で即位、中宮は清盛の娘徳子(後の建礼門院)、寵姫に小督(こごう)がいる。治承四(1180)年安徳に譲位し院政をとるも翌年病死、19才。
  「高倉宮」は以仁王(もちひとおう)、後白河第二皇子(実際は三番目なのだが仏門に入った兄がいる。この以仁王も一度仏門をくぐったのち還俗した)治承四年、平家討伐の令旨を源家の棟梁達に送り、挙兵前に発覚して追捕を受ける。宮を逃がそうと兵が宇治橋の板を剥いで防戦、しかし破られ宮は光明寺鳥居前で討たれる。29才。川を挟んで両軍対峙する場面などは軍談語りの聞かせどころ、軍記史談の類は後人がいくらでも枝葉を茂らせ話を面白くする。これは神話仏説でも同じ。
  従って冑の社は高倉宮(以仁王)の話になる。
*3「その例になろうて」というものの二条院の応保二年は1162年、高倉院が八十代の天皇であるのに二条院は七十八代、この行は冑社の話の前にあるべきが前後してしまった。1160年斬死した義平冑の例に倣ったということ。
  この甲大明神は三浦氏が『小手風土記』を書いたと同じ天明8年、幕府の巡見使が立ち寄ったことは随行した古川古松軒の『東遊雑記』に見る。古川氏は当時にあって狐狸妖怪譚を排する近代合理の思考法を採る人ながら、都鄙雅俗、とかく田舎者を嘲笑する心癖が鼻につく。合理精神によって解しえた記述があるかわり、その土地特有の風土による紐帯については第一印象によるおざなり語で済ます。無理からぬことで土地の泊りは一夜、翌日は次の地へ赴く旅程、公儀の使いとて実態は隠されお膳立ての整った場を経巡る。『東遊雑記』には併せて菅江真澄の紀行文を読むのも一興ではある。
  古川氏は甲大明神において神主三浦左京が使者達に古巻物を読み上げ「甲大明神守護なし給え、あやかり給え」と大音声、使者達は「武運を義平にあやかりては迷惑なりとてわらわれしなり」と記す。次に立ち寄ったのは大久保の白幡大乗院(小手風土記では大正院)、山伏数十人が「螺貝を吹き立てかの寺内へ迎え入る体、甚だ笑うべし」と記述。
  幕府の巡見使は将軍の代替わりに行われ、この前年に代官からの布達書と当年の案内手鑑は『川俣町史Ⅱ』収録。また天保九年に訪れた巡見使の様子は神主の子孫である三浦倭文氏が『小手郷文化』第1巻に書いている。
  なお、この神社は明治二年「楯和気神社」と改名し現在に至る。
*4「天蓬」に(ママ)のルビ、活字本は「天蓮」。活字本が正。天蓮大元帥とは天界の官職。
*5「隈なき」を活字本は「限なき」と誤記。「広沢の池」を一統は「広庭の池」、「繊雲」を「微雲」と誤記。
  「謝荘」は5世紀宋の文人、「庚亮」正しくは「庾亮(ゆりょう)」、4世紀東晋の役人政治家、『中書令を譲る表』は名文として『文選』に収録。
  この一文は『都図会』広沢池の項から引き写し。原本も「庚亮」でありルビは「ゆうりょう」、版木師の誤りか。ガリ版本は「庚亮」に(カウニ)とわからないルビ。
  原文の「露は月明に降って寒し」その「寒し」がガリ版本は欠、一統にはある、これは書写の段階で欠けたと思われる。
*6「鳥居町」をガリ版本は欠、活字本に有り。
*7「旧地なりと。今留めず」のガリ版本筆記は「舊地也ト今不留」。活字本は「舊地也と云ふる」それでは日本語にならない。
*8「奇」に(歩カ)と脇ルビ。活字本、三浦氏の筆記も「圓奇」とするがこれは地名の「円音(えんおん)」。
*9「爪口」は「瓜口」、金子氏の筆記も爪口、なれど活字では瓜口にしている。
*10「御室}を活字本は「御宝」。
*11「保待(ほまち)」は、臍繰りや臨時収入、税のかからない所得の意味。検地においても年貢対象にするのはおとなげないとて役人が見逃した。現在「石保町」の地名残る。一統は「保峙」や「保傍」と印刷し(外持カ)とルビする、それは誤り。
*12「五風」を活字本は「南風」と誤記。
*13ガリ版本は「稲粱」を「稲梁」と誤記、活字本は「粱」の字を欠く。
*14「余斗」の斗にママとルビし(慶)と脇に書く。活字本は「斗」のまま。「余斗」は斗量の穀物余剰と解しても良い。
*15「真丹」は筆者三浦甚十郎氏の俳号。「秋な忘れず」を一統は「秋はわすれず」。
*16@は竹冠に毘、活字本と一統は箆。
*17地名の「浮面」は現在の「沖免」であろう。一統は「浮面」を「浮西」、「遠西」を「東西」と誤記。
*18「禾」にママのルビ、ここでは稲のこと。
*19「種」に「植」のルビ、もとより「種」には植えるの読みがあって誤字ではない。
*20「丙」をガリ版本は「雨」と誤記。
   この一文は返り点のついた漢文の読み下しになっている。漢文のまま記した一統は忌み日に違いあり黍は寅、秝を丑とする。
   『事林広記』は宋代の生活百科辞典元禄時代に和刻本が出た。ただしこの九穀記事は『斉民要術』からの引き写しであろう。「氾勝子書(はんしょうししょ)に言う、小豆は卯(の日)を忌み、稲麻は辰を忌み、禾は丙を忌み、黍は丑を忌み、秫は寅・未を忌み、小麦は戌を忌み、大麦は子を忌み、大豆は申と卯を忌み」。ガリ版本の「秝」は「秫(ジュツ、もちごめ、もちきび)」を誤記した。
*21「小蓯王」の意味が分らない。教えを乞う。松沢の地では消えたが今でも秋山に土地の人が「こしょうさま」と呼ぶ神社がある。
*22仏教説話で「第六天」と言えば仏道の妨げを為す大魔王。これを日本の神仏習合では六代目の天津神(あまつかみ)である於母陀流(おもだる)の神と阿夜訶志古泥(あやかしこね)の男女神に比定させた。活字本は「面足尊」を「面是尊」と誤記、それは金子氏が足の俗字を見誤ったもの。
   オモダルについては誤解されやすい名前なので説明する。「面足尊」は男神、「オモ」は顔、「タル」は充足、つまり立派な顔、二枚目イケメンの神……ではない。良い顔をしているのは惶根尊(女神)のほうで「あなたはオモダル」と発語することの神格化が面足尊になる。会社や学校で同僚同級生の女性にジトーッとした視線を向け(あの女と……)妄想している男に神の宿りは無い。女性に向い「きれいなネエチャンだー、おれと付き合ってー」現代人ならひと息で言うこの二文節、前段がオモダル、後段がイザナギの宿りになる。岩波版『日本書紀』の注記ではオモダル・カシコネを「面立ちの整った美しい女よ」「何と畏(おそ)れ多いこと」と記す。「畏(かしこ)まる」には遠慮してちぢこまる意味合いも含み、ここは返事の「はい」ぐらいが妥当だろう。「いいわ」の承諾発言がイザナミになる。なを、カシコネの語に頭の良さを意味する「賢」は含まない。

   最後に付け加えておくと「松沢」の地元発音は(まっつぁ)。