路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする5町小綱木村

 5、町小綱木村
一、稲荷大明神 祭所 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)衣食祖神
 往昔、桜田玄蕃御影館牛ヶ城を築きて城東にこの神を勧請し深く敬い信仰ありしとなり。今の地に安永年中遷座し奉る。(註1) 神主矢田部土佐守 地主氏家又治郎
一、御影館(みかげたち・みかげだて)(註2) 天正十九年、伊達遠江守秀宗、伊予国宇和島に移る。この節、桜田玄蕃御供にて行き、今その子孫宇和島にて家老職たり。
 本丸 二ノ丸 三ノ丸 御客屋舗[是を田村館とも云う] 御壺石(*1)
  世にあらば又帰りこんみちのくのみかげの松よおもかわりすな よみ人しらず
  若水や浅くは汲まぬ御影館 木翁(*2)
一、雷神宮 安永年中建立
一、松風山東円寺 浄土の仏客 岩城尊称寺末寺(*3)
 東円寺の旧地は館の腰にあり、寛政のころ今の地に遷す。
一、石地蔵 階(*4)
一、山門 額 杉風山[京都知恩院僧正の筆]
一、撞鐘堂 貞享三[丙寅]年鋳るところなり
一、十王堂
一、本堂 額 東円寺 勅額と称す(註3) 良安上人掛けしところなり
 開山は安蓮社法誉良阿上人
 この地の松風蕭然として常に鉦の音絶えず、六時礼讃(ライサン)の声は幽谷(ユウコク)に谺(コタマ)し寂寥として峯の月ほがらかに廬山の白蓮社ともたとえられて清浄無塵の界なり。(*5)
 不納 一反七畝十五歩
一、そもそも元祖大師の伝説を鑑みるに、美作国(ミマサカノクニ)久米(クメ)の南條稲岡(ナンジャウイナオカ)の産なり。久米の押領(ヲウリョウ)漆(ウルマ)の時国、母は秦(ハタ)氏なり。長承(チャウシャウ)二年四月四日牛の刻誕生す。(*6)
  九歳にして同国の菩提寺の室(シツ)に入りて学問す。久安三年二月十三日入洛(ジュラク)して比叡山西塔の北谷持宝坊源光四教義を授くるに籤(フダ)をさして不審をなす。疑うところ皆天台の要論なり。不思議の事に思いければ我浅才にしていかでこの人を弟子とせんやと同年四月八日、児を相具して功徳院の阿闍梨(アザリ)皇園(コウエン)が元に入室せしむ。(*7)
  同年十一月美髪を剃り戒壇院にして大乗戒を請たり。久安六年九月十二日十八歳にして西塔黒谷の慈眼坊叡空(エイクウ)のもとに行きて法然坊となる。その後、承安五年の春、四十三歳にして余行(ヨギョウ)を捨て、専修念仏(センシュネンブツ)に帰入せり。
  されば法然の宗風日本に弘まりしかば山門の悪徒これを破(ハ)せんとし、あるいは大原にて問答ありしかども皆念仏の理に服せり。
  帰京して建暦二年正月廿五日午の刻、法寿八十歳にて遷化(センゲ)し給う。毎年正月十九日より廿五日迄御忌あるはこの謂(イハレ)なり。
一、小手第五番札所 北見観音堂 二間四面
 聖観音 千手 准胝(ジュンデイ) 十一面 馬頭 不空羂索(フクウケンサク) 子安(*8)
 七観世音菩薩を安置す。北見与八という者所持なりしを明和年中ゆえありて東円寺へ上る。
 右に法華千部塔、牷@(ゼンタツ)和尚の筆跡。左に百万遍供養碑。(*9)
  おいすりやここにきたみの願には後生善処といのるばかりを(*10)
一、愛宕山大権現 二間四面 階十三旦 大久保大正院支配別当徳宝院
 京都聖護院宮様より知足院という僧下りて桜田寺と改む。
 元禄二[己己]年六月廿四日再建なり 不納 八畝十二歩(*11)
一、秋葉大権現 明和年中建立 二間四面
一、山王(註4) 聖の宮 鳥居 階
 槻樫の森あり、村民おひちりと称す、疑うらくはおひよしなるべきか。(*12)
一、稲荷大明神(註5) 祭所 倉稲魂命 正一位安鎮祭なり
 元禄十六年未、下嶋甚右エ門様御代官手代長沢豊平、新庄左エ門、二神幸八、右三人検分の上、御陣屋元建。
 村数十九ヶ村 高合 二万二千百九十六石七斗四升四(*13)
 東西二十間 南北三十間 中畑二反歩 此高一石五斗
 外(ほか)に道代 六畝十八歩 此高四斗九升
 高合 一石九斗九升五合
一、三宝荒神宮 鳥居 照窪[また寺久保とも云う](*14)
一、桜田玄蕃一家の廟所の榎と云うあり、字(あざ)坊の内と唱う、廟の内ならんか。
一、正一位稲荷大明神 字大槻 地主斉藤五郎兵衛 武藤茂兵衛
 小綱木第三社にして鳥居階六十五旦、老木の大槻鬱々として神光いや高し。海老沢稲荷を移せしと云う。
一、住吉大明神 字兎畑 地主菅野忠兵衛(*15)
一、御幣ヶ原 山蔭中納言の先駆の鹿、御幣と現じてののめきへ飛び移りたりと云う。委しくは春日の縁記にあり。
 橋 大綱木小綱木の流れ、この橋の下にて合す。
一、追分碑 右針道 左山小屋
一、古愛宕
 この山を二峯の孤松と云いて佳景の一つなり。石地蔵あり。
一、小手地蔵詣廿六番札所 石仏地蔵尊 地主藤兵衛
 作 賤の田
 狗子ヶ淵 寛永十四年、此処、山崩れ、川をさえぎりて洪水す。是を村民寛十四の水と云う。
一、名号碑 天明三卯年、大凶作にて人民多く死す。その追福に吉井文蔵という人建立なりと云う。
   修験 実宝院
一、荒神宮 住吉宮
一、花林山玉泉寺 開山頭陀六世玉叟幸鎮大和尚
 いにしえ御影館の麓なり。今に元玉泉寺と号し、寛永年中今の地へ移す。本尊は釈迦牟尼仏、脇士は阿難尊者伽葉尊者。四壁は杉林にして瀟然たり。不納七畝二十七歩。
 大般若 宝暦年中淵上和尚建立
一、撞鐘堂(鐘楼)
一、金毘羅堂 二間四面 鳥居 階六十四旦
 八哉堂 いにしえ有り、今は金毘羅堂内に移し奉る。
一、虚空蔵堂 九尺四面 地主谷崎庄兵衛
 階十三旦 手水石
一、愛宕山長楽寺 真言宗保原長谷寺末寺 本尊不動明王
一、大日堂 九尺四面 明和年中建立 願主高橋伝吉(註6)
一、村高 六百八石八斗三升 町小綱木
     五百四石一斗二合 新田小綱木

註1一統「二月初の午の日祭礼なり」
註2同右「桜田玄蕃居住せり」
註3同右「勅額と称せり疑ふべし」
註4同右「日吉山王と申せばなり」
註5同右「初午稲荷なるべし」
註6同右「七月二十三日祭礼なり」

*1「御壺石」を活字本は「御臺石」とする。
*2「浅くは汲まぬ」の原字は「浅くハ汲怒」、活字本は「怒」を「ど」と読み「浅くは汲(くめ)ど」。
  また、ガリ版本は名前「木翁」の木にママのルビあって誤字と見ている。正しい字は何か。
*3「仏客」を活字本は「仏容」、これは仏閣だろう。また活字本は「尊称寺」を「尊弥寺」と誤記。
*4「石地蔵」を活字本は「石花蔵」。
*5この行は『都図会』善喜山万無寺の項から引き写し。末尾「清浄無塵の界なり」は「仏界なり」。
  「白蓮社」は浄土宗開祖たる東晋の慧遠が402年に廬山の東林寺で始めた念仏講。
*6この法然に関する一文は『都図会』知恩教院から端折りながらの抜き写し。
  「漆の時国」は現代「漆間時国」と表記、夜討にあって死亡。
  法然誕生は「牛の刻」でなく「午の刻(うまのこく)」。
  「長承二年」を一統は「長承四年」とするも「二年」が正。
*7「四教義」は釈迦の説法集、円教蔵教通教別教。
  「籤をさして」をガリ版本は「籤をたして」と誤記。『都図会』では「籤」の振り仮名が「さん」と読める。音読みなら「せん」。卜定に用いる文字を記した紙片竹片のこと。
  「皇園」を活字本は「皇國」とする。どちらも誤り、正しくは「皇圓」。
*8「胝」や「羂」の所はフォントに無い筆跡だけれど振り仮名に従い直した。
*9「牷@」の牷を活字本は拴、@は草冠に沓。在飯坂頭陀寺の不許葷酒入山門碑の筆者。また、小島阿弥陀堂の額もこの人の筆。ガリ版本は「左に百万遍供養塔」の「左」が欠、他ニ冊によって補った。
*10「おいすり」は巡礼者が上に着る袖無し、「笈摺・禅衣(おいずり)」。
*11「元禄二年」は「己巳(つちのとみ)」。
*12文意は、地元の人は「お聖(ひじり)」と呼ぶけれど山王なら「お日吉」であろうという話。
*13町史Ⅱに載る「川俣御代官記」では十九村の石高は二万三千百九十六石七斗四升四合。
   代官手代の名は長沢雲平、新庄多右衛門、二神幸助。町史Ⅰでは新庄多右衛門が太右衛門。
*14ガリ版本「又寺久保共云」を活字本は「又寺久保廿三日」と誤記。
*15「兎畑」を活字本は「免畑」、一統は「鬼畑」。正、不明。