路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする9西五十沢村

 9、西五十沢村(にしいさざむら)(註1)
一、麓山(はやま)大権現 硯山に
一、木村山林正寺 [字]山田 浄土真宗(*1)
 開基は上杉景勝の家中、木村隼人という人開基なり。よって木村を山号とせり。
 十一月廿二日より廿八日迄親鸞上人の忌日法会、世諺にお霜月と云いならわせり。
一、人王八十一代高倉院御宇、承安三年に誕生し給え、御父は大職冠鎌子大臣の苗孫有範(ありのり)卿と申す。御母は八幡太郎義家の嫡子対馬守義親の息女なり。(*2)
 聖人九歳春、青蓮院慈鎮和尚の許にて髪を薙(き)り弟子となり範宴(はんえん、はんねん)少納言と申しける。それより叡岳無動寺に登り天台止観を明(あか)らめ、遂に難行を捨て易行に赴き本願念仏の一流を弘通(ぐつう)し給う。(*3)
 亀山院御宇文永九年、聖人の息女覚信尼公[日野左衛門佐(さえもんのすけ)広綱の室なり]勅を蒙り洛東大谷に始まる廟堂を建立す。(*4)
 [開山の嫡孫なり、善鸞上人の息にして覚信尼公の甥なり]その頃奥州大綱郡に居住す。故に覚恵法師[広綱子、母は覚信尼、第三代覚如上人の父なり]大谷の留守職となり、それより覚如上人第三世を継ぎて後伏見院正安元年、勅願寺たるの綸旨(りんじ)を賜る。(*5)
 第八代蓮如上人の時、宗義大いに繁昌し宛も開山の在世に起たり。(*6)
 山門の衆徒是を妬(ネタ)んで寛正六年に当寺破布す。また寺門の衆徒は蓮如上人荷擔し近松寺を寄附し聖人の影像をここに移す。
 是より蓮如上人は北国を径回し越前吉崎に御堂を営み、北陸七州を化益し、その後文明十一年、山州山名郷に影堂を建立し、第九代実如上人に紅衣を賜り第十代証如上人の御時御堂を摂州大坂に移し、十一代顕如上人の御時、二品親王の勅書を賜り、御門跡の号を勅許し給えり。(*7)
 また御堂、紀州鷺森に移し遂に天正十九年八月六條堀川に移す。委しくは信長記拾遺にあり。(*8)
一、小手九番札所観音堂 [二間四面 字永田] 階三十三旦 縁日九月八日
 手水石[銘に曰く]願主[永田]菅野利兵衛
  一すじのわかる五十沢掛ごして千代の長田はみのるなりけり(註2)
一、追分 名号碑 東川俣 西飯野 南木幡 北秋山
 岩垣 竹窪 狸ヶ作(*9)
一、小手廿三番地蔵堂[字堀田]二間四面
 階 自然の石檀なり
 額 延命堂 四明大足書 別当修験延命山菩提院
 むかしある法師、東国修行のついでここに一夜を明かしけるに、その夜の夢に地蔵尊来たりて曰く、我はこれこの田の中に埋もれて居ること久し、いそぎ掘出し安置せしめば奇瑞有るべしと見て夢覚めぬ。
 告(つげ)に任せて村民を頼み掘りければ土中より光明かがやきけり。いそぎ掘出しければ延命地蔵の尊像なり。やがてここに一宇を立て堀田の地蔵とあがめ奉る。縁日三月廿四日にして応験あらたなる霊像なり。
 惣田 仏師沢 大畑
 荒屋舗 春日御祭礼流鏑馬の的掛、古例によりここより出る。その所に腹帯畑という字(あざ)今にあり。
 孫惣内 名号碑 菅野孫右衛門建
一、秩父西国坂東百番供養碑 同人建
一、正一位稲荷大明神
 大石自然重なりて御室あり。鳥井階四十二枚 ここを稲荷林と云う松山なり。地主 松川木 菅野治郎右エ門。
一、神明宮 字南山田
 古勝負坂
 往古、宗任貞任ここにて数度戦いける故古勝負坂と云いしを寛文年中、小菖蒲坂と書き改むとなり。ここに神尾下総というものあり、桜田玄蕃の家老なりと云い伝う。
一、阿弥陀堂 字栗和田
 松ヶ作という処に旧大掛寺蹟(あと)、今田畑の字(あざ)となりてあみだ堂わずかに残れり。ここより大久保村窪へ移しけるとなり。(*10)
一、栗和田十左エ門と申す者屋敷は古(イニシヘ)安倍貞任出張の所なりと云う。今に農夫、兵具矢の根などほり出すなり。
一、女夫石 道の両脇にあり。ここ婚礼通れば不嫁なりとて堅く忌むるなり。(*11)
一、北野天神宮 字北 地主菅野七郎兵衛
 菅家の伝記はあまねく人の知る処なれば委しく記さず。
 祖は天穂日命の苗裔にして暦世ただしく是善公の御子、右大臣名は道真と申し奉り、貞観四年文章生(もんじょうしょう)に補し(註3)得業生(とくごうしょう)となり、同十二年に村策及第し、同十八年に侍従にすすみ、仁和年中に讃岐国守に任じ、寛平五年参議となり、同九年中納言を経て大納言にのぼり大将を兼ね、昌平二年二月右大臣にすすみ、右大将となりき。(*12)
 左大臣時平の讒言によって昌泰四年に左遷し給う。延喜二年二月廿五日配所にて薨じ給う。安楽寺に葬り奉り寿五十九歳なり。その後菅霊よりてさまざまの事ありしかば延長元年に左遷の宣旨を捨て元の官にかえし正二位を賜り給う。一条院御宇、正暦四年五月に勅使を宰府の安楽寺に遣わし太政大臣正一位を贈り給う。(*13)
一、大木戸 ここに一ノ沢という有り、大いさ五六間の石有りてその中を水流るるなり。是を一ノ沢と云う。この沢を始めとして五十の沢あり、拠りて村名とすと云えり。
一、村高 千百五十六石八斗七升(*14)
一、小手庄の未(ひつじ)の方にあたる村なり、木幡山に隣る、安達郡境。
一、六十三騎 百石渡辺隼人 百五十石渡辺助右衛門 百五十石[北の住人](註4)菅野七郎兵衛
 導心畑 是界形 四寸道
一、瀧姫大明神
一、硯石 鼓石 突掛石 重ね石(*15)
一、西五十沢五在家(註5) 西作 岫(くき)[是より永田へ移る] 台[是より孫惣へ移る] 勝負坂 北
 是を五十沢五在家と云う。
一、三本杉(註6) いにしえ湯立(ゆだて)の杭の跡なりと云々。
一、鉾田[木幡山弁才天の鉾の納まりし処世と云う](*16)
   [孫惣内]菅野安右衛門 [古勝負坂]神尾平助 三浦甚十郎
一、元禄九[丙子]歳 御代官室七郎左エ門様御支配の節、東西二ヶ村に分る。

註1一統「五十沢邨 公邑」
註2同右「二筋に分る五十沢掛越して千代の永田実成けり」
註3一本に「文章生と称し」とある。
註4一本に「神野」と綴る。
註5一統「総田 仏師沢 大畑 荒屋舗此四ヶ所より春日流鏑馬の的掛古例によりて出せり又此地に腹帯畑と云字あり」
註6同右「土人説にむかし湯の花をあげし時、松の杭を打しにその杭忽生付枝葉生ぜしと云」

*1「林正寺」現在名は「麟生寺」。活字本は「木村山」の「山」の字を欠く。
*2この親鸞の記述は『都図会』「華頂山親鸞聖人植髪の尊像」から、次項の法統については「本願寺」からの引き写し。
  高倉院は八十代目の天皇平清盛の時代。『都図会』では八十代となっているのになぜ一が加わったか。。
  「大職冠」は「大織冠」、当時位階制の最高位。「鎌子」を活字本は「鎌足」。
*3「無動寺」を活字本は「無勒寺」と誤記。
*4「文永九年」を活字本は「文承九年」と誤記。「始まる」は「始めて」が正。
*5この文は冒頭にあるべき主語の「第二代如信上人は」が欠落している。その前にここが亀山院勅願所として亀谷山本願寺の号を賜ったという文も抜けている。
  「正安元年」を「正元元年」と誤記。1299年。
*6「在世に起たり」では意味が通らない。活字本も同じ。「在世に超えたり」が正。次行の「破布す」も「破却す」が正。
*7「山名郷」は「山科郷」。
  活字本は十代の「証如」を「顕如」と誤記。
*8「信長記拾遺」は秋里氏の著作。つまり自著の宣伝部分も三浦氏はそのまま写したということ。一統の志田氏はここの親鸞と法統の記述を全て略した。呆れたか。
*9この行活字本にあってガリ版本になし。また、次行「堀田」を活字本は「堀内」。
*10「大掛寺」を活字本は現在名の「大桂寺」。
*11この行、ガリ版本は欠。一統は「路の両傍に相向て在り 此道婚礼娶入通行すれば果して不縁すると云ふ 斯様の説は信達邨々にあり諸人を迷わす妄言なるべし」。
*12この道真に関する記述は『都図会』「北野天満宮」から拾い写し。
 「村策」は活字本の「対策(たいさく、たいしゃく)」が正。官吏登用の論文試験。
 年号の「昌泰」をガリ版本活字本ともに「昌平」と誤記。
*13「菅霊よりて」は「菅霊にて」。
*14一統は「千五十六石八斗七升余」百が抜けたか。
*15「硯石」を活字本は「眼石」と誤記。一統は「此地に名石あり 硯石 突掛石 重石 以上三つ名奇石なり されども其謂を知らず 後の人詳かにせよ」。
*16「処世」は「処也」の誤読、つまり「納まりしところなりと云う」。