路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする10大久保駅

 10、大久保駅(註1)
一、住吉大明神 石の鳥居石垣階九枚 松杉数株有り、大石有り。
 祭所 上箇男命 中箇男命 底箇男命(*1)
 三神筑前国那珂郡に鎮座し神皇后宮三韓を攻め給えし時に出現ましまして、皇軍御船を守護し速やかに韓国平らげ、その後神託によって長門国に祝い祭りしか。(*2)
 皇宮津の国に至り給う時奥住吉の国なりと神勅有り[是住吉の起元なり]。よって津守浦に祭り給えし宮柱を、往昔、ゆえありてここに移せし神垣なり。縁起に委し、これを略す。例祭は八月廿日なり。(註2)
  [神主]菅野大隈守 [地主]関長左衛門
一、和尚権現 元大掛寺旧地にあり古碑数多し。
一、幸ノ神(さいのかみ) [猿田彦命 字幸ノ神 男女所願ある時隠相を作り神前にかけて祈るに叶わずと云うことなし](*3)
一、京松稲荷大明神 [字]窪 地主三浦彦兵衛
 いにしえ山城国藤森より松を携え来たりて石上に植えける、枝葉繁茂して大木となれり。
一、馬頭観音堂 松木 境[高石という大石有り](*4)
 椿沢 椿木[山茶(ツバキ)は花を賞するのみならず実を取りて油をす(擂)れば甚(はなは)だ民の用を助く]
一、水渡大明神 鳥居階 [神主]菅野大隈守
 天の水渡尊は天地の始めの御気(おんき)の大御神(おおみかみ)国常立尊(くにのとこたちのかみ)、左は瓊々杵尊(ににぎのみこと)、右は建御名方主尊(たけみなかたぬしのみこと)、凡(すべ)て三神を当所の鎮守、椿沢水渡り、また云う雲渡大明神と崇め奉りぬ。例祭八月十九日 椿沢地主佐藤卯之助。(*5)
 境川橋 元屋敷 西戸
一、熊野宮 [字]折ノ内 中ノ内
一、福聚山慈眼寺[斉家宗米沢法泉寺末寺]
 不納高一石二斗六升 反別一反二畝十八歩
 小手十二番札所観世音菩薩
  ありがたき世にあふ久保や哀れ見る寺の情にみをばまかせて
一、狐石 [稲荷宮] 馬石 鞍掛石 鐙石
 往古義家朝臣の御籠の馬落ちて石になりしと云い伝えたり、鞍掛石あぶみ石も寄せ名と見えたり。(*6)
一、鼓音(ポンポコ)石 この石上に登りて中ごろを打てば鼓の声の如く遠くまで響くによりて名とすなり。
一、越中館 いにしえ阿曾越中という人居す
一、神戸 向戸
一、鼠内館
 この館、悪源太義平の一子、城を築き終らず死すと云う。
一、雲渡大明神 祭礼八月十九日 別当 白幡山大正院
 この社へ鶴の絵馬を奉れば小児の咳を除く霊験あらたなり。
一、万代橋 大掛前川の石橋、後代に至り、参詣往還を化度(けど)せんと磐石の礎(いしずえ)を把(と)り入れ一尋(ひとひろ)切石の柱二本、橋桁踏板欄干までことごとく石なり。(*7)
 石橋供養碑 時に明和七戌(註3)年十一月
 舗石 山門(*8)
一、小手十一番札所観音堂[九尺四面] この尊像は往昔奥羽二州の領主安倍貞任の守り本尊なりと云々。千体仏堂内の左右に安置す。
   日はくれて月の光りは大掛寺庭のけしきは浄土なるらん
一、地蔵尊千躰小手地蔵詣第四番[観音堂の内に有り]
一、鎮守宮
一、撞鐘堂(つきがねどう)
一、大掛寺[斎家宗羽州米沢法泉寺末寺]
 開山禅師(註4)奥羽の両国仏化釈教の盛んに行なわれざる事を伝え聞きて東国へ下り給えけるが、下野と陸奥の境関山に登り、北天にあたり瑞雲のたち覆えるを眺望して、さてはこの瑞気こそその下必ず仏法繁昌の霊地衆生利益の神区なりとて、既(とく)に二三宿を経て伊達の郡に著き給うに、かの瑞雲まさしく五十沢の辺に靉(タナビ)きけり。偖(さて)こそ仏化繁昌せん機縁純熟の国土なりとて瑞雲の立覆いたる下にそれ丈百石ばかり聳(ソビ)え桂の木あり、武候の廟枯れ柏樹にも比すべし是ぞ奇思の霊樹なりとてこの木ばかり残し置き、そのほかの雑木陰森たるを伐り払い一宇の精舎を立てられ即ち大桂寺と号(なづ)く。(*9)
  長暦三[己卯]年[開基大檀那]安倍貞任
 開基より百五十一年経れども聊(いささか)も退転なき大権聖者の霊跡、おしいかな文治五年、一炬の兵火に焦土となりしを建久元年[庚戌(註5)]三月五十沢栗和田より大久保窪へ遷して柱立て荘厳功なりて後百六十四年経て文和[癸巳(註6)]八月今の地へ造営なり。七百七十年に及べり。(*10)
  不納高二石九斗 反別二反二十七歩(*11)
 庭前に杉有り幡龍松と号す。枝垂れ桜有り、古木なり、花のころは世塵を忘れ仙境に遊べる心地ぞする。(*12)
一、地蔵堂 小手地蔵第十四番[大桂寺境内なり 千体地蔵尊]
一、白幡八幡社[京都聖護院伊予坊末寺]正年行寺白幡大正院(*13)
 祭礼八月十五日
 高五石七斗六升 反別七畝十八歩 山伏七軒
一、人皇四十代天武天皇御宇白鳳九年[庚辰(註7)]秋、法祖役行者(えんのぎょうじゃ)行場の地としめられき。重ねて浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)を請じて当観の開祖とせり。(*14)
 その後人皇七十代後冷泉院御宇康平年中、頼義朝臣義家朝臣東国に下向有りて阿部貞任誅罰の刻(とき)、国土泰平の祈願をかけられ、山を改めて白幡山と号し寺を治州寺(註8)と名付け給う。(*15)
 人皇七十八代二条院御宇永暦元年[庚辰]三月廿日悪源太義平京六条に誅せらる。義平の一子、遁れて当窟に入り治円安(註9)を受法せり。爾来五十有世連綿として明らかに修験の法燈をかかげしむる事退転なし。委しくは縁記系図に見えたり。(*15)
 荒屋敷 中大久保 八ツ洞
一、競(クラベ)石 往来の人、桑の枝篠竹葭茅などを折りてくらべて吉凶を占う。山兵ノ鼻(*16)
一、赤岩山 稲荷宮 [二月初午の日祭礼]
 観音堂[十一面観音] 狸石
 蛇塚石[石上に松生え茂りたる大石なり]
 名なし石 冠石 荷鞍石
 胎内潜り[そのほか老松奇岩数多風景小手の随一なり。嶺に麓山権現を安置す]
 常門松[いにしえより門に松二本植えてあり]
 北向 前三郷 後三郷
一、雷神祠[字いかつち] 田端
 菅平 むかし梁川城落城の時、須田相模という者小国村宮内という所へ落ちて居す。その後ここへ移りたりと云う。村民諺に、から大名一本道具と何のゆえか云い伝えたり。(*17)
一、八幡宮[字やわた] 大稲葉
 姥石 烏帽子石 柿葉 小池上 小谷野 若梅 赤坂 池ノ入 広久保(*18)
一、地蔵堂
一、秋葉山大権現[石の小祠] 館[又なき太郎という人居す]
 佐夜戸 外記という人永禄九年(註10)小浜(おばま)責めの時、伊達太夫政宗一宿の為、謝礼二百石の所、諸役御免の書付所持するとなり。(*19)
一、愛宕山大権現
一、六十三騎 二百石[三郷住人]高野備中 二百石高野丹後 百石[椿沢住人]佐藤源内
 百石佐藤新右衛門 二百石高野蔵之助 百五十石高野治郎兵衛
一、逆川(註11)
 橋二ヶ所、水源は秋山より流れ羽田川に合してこの川に落ちる。
一、村高 千八百七十九石六斗七合 小手の四郷なり
 東西二十三丁 南北廿四丁
 上野国邑楽(ヲウラ)郡利根川筋に大久保村というあり、日向国大久保駅あり、伊予国海辺に大久保という所あり。
一、八幡宮[字小谷野] 谷中の石上にあり
一、小手庄未申(ひつじさる)にあたる村なり、外木幡村に隣れり。
   [小池上]高野万右衛門 [川又本町]三浦甚十郎 之を記す

註1一統「大久保邨 公邑、一小駅とも云うへり、当邨は四方山にして凹なる地なるべし、故に斯は名附しならん」
註2同右「石華表石段階九枚実に古き社」(*20)
註3明和七年の干支は庚寅である
註4一統「按ずるに長暦の頃は禅師など云號なし、又済家宗などもなし、大概は真言宗なるべし、実に疑はし」(*21)
註5建久五年の干支は甲寅である(*22)
註6文和は北朝年号(南朝は正平)癸己は文和二年(正平八年)に当る。
註7天武天皇庚辰は西暦六八〇年即位後八年目に当る
註8一統「治外寺」
註9同右「治国」
註10永禄九年は天正十二年の誤り。
註11一統「凡(およそ)水は東流すべきものなり、西流するを逆流と云へり」

*1「箇」はすべて「筒」の誤り。活字本も同じ、ただし金子氏の筆記は「筒」。「上筒」は「表筒」とも書く。この三神は海の民住吉系、「ツツ」は「夕星・長庚(ゆうづつ)」の語あるように「星」の意味か。
*2「那珂郡」を一統は「那買郡」と誤記。
  「神皇后宮」にはママのルビあり「神功皇后(じんぐうこうごう)」、三韓征服は作話。
  次行の「奥住吉」は活字本も同じ、一統は「予住吉」、これは(まことに住みよい)の「真住吉」。『摂津風土記』の語。「真」を誤記もしくは誤写。
*3「隠相」を一統は明瞭に「陰茎」と書く。つまり「男女所願」とは子を授かること。
*4「松木」を活字本は「松本」。「高石と云大石」を「高名と言大石」。
*5古事記に曰く「天(あめ)の常立(とこたち)の神…独神(ひとりがみ)に成りまして身を隠したまひき」。人体としての形を持たない大気のような無形遍在の神ゆえ「御気の大御神」。
  山城国に「水度(みと)神社」あり祭神は少童豊玉姫命(わだつみとよたまひめのみこと)、諏訪湖の水神は建御名方主。この水渡神と何か関連があるかもしれない。
*6前行の「鐙石」は活字本にあってガリ版本に無い。
  一統は「狐石稲荷宮」の項に「むかし八幡殿寵愛の乗馬此所にて落死せり 其馬石になりしと云 鐙石 鞍隠石も馬の死するに寄せて名附しとなむ」と記す。ガリ版本の「御籠の馬」は誤記であるとわかる。
*7この行は漢文、返り点に従って読んだ。大桂寺の前の石橋のこと。活字本は「化度」を「仕度」と誤記。また「入把」は「入抱」とするもこれはどちらも「入地」の誤りだろう。と言うのもこの文は『都図会』「三条橋」欄干銘の記述をなぞっている。
  「洛陽三条之橋至後世化度往還人磐石之礎入地五尋切石之柱六十三本蓋於日域石柱濫觴乎」
  (洛陽三条の橋、後世に至りて往還の人を化度(けど)せんに磐石の礎(いしずえ)地に入る五尋、切石の柱六十三本、蓋し日域に於ける石柱の濫觴や)
  「化度」は衆生を教化済度する意味の仏教語、ガリ版本の「参詣往還を化度す」では「人」の字が欠落したか三浦氏の誤読か。
  また文末の「ことごとく」と私が読んだ文字は「委」。
*8ガリ版本は「山門」欠。
*9「神区」を活字本は「神速」。
  「丈百石ばかり」の木。石(こく)は材木の十立方尺の意味があり太く高い木と読めるも、活字本は「丈百尺ばかり」。一統は「其丈百丈余(そのたけひゃくじょうよ)」とする。
  「武候の廟」は成都諸葛亮を祀る武侯祠。前に孔明手植えと伝わる二本の柏があった。杜甫に「古柏行」の詩がある。
  「奇思」は「くすし」とも読めるが活字本と一統は「奇異」。ガリ版本編者の誤読。
*10文治五年は1189年、建久元年は1190年、文和二年は1353年。
*11「二石九斗」を活字本は「二石五斗」。
*12「幡龍」にママのルビ、活字本も同じ。「蟠龍(ばんりょう)」であろう。
*13「正年行寺」は「正年行事」。聖護院系修験の序列は院家、大先達、年行事、准年行事、小先、同行とあり、大正院は大先達伊予坊配下の年行事との意味。
*14この項は現在の五大院か。役行者(えんのぎょうじゃ)がここで薬師像の開眼供養をしたという寺院の縁起がある。
   「浄蔵貴所」は平安中期の修験僧、父は大学頭から参議へ昇った三善清行(きよつら)。「貴所」は「キソ」と発音する人もいる。加持祈祷をなす人への敬称だが浄蔵に説話が多く近世においては貴所と言えば浄蔵を指す固有名詞のようになった。『都図会』にも父の訃報を聞いて熊野から戻った浄蔵が葬列に出会い咒力をもって蘇生させたり、傾いた堂塔を真直ぐにした説話が出ている。元ネタは後醍醐期の虎関師錬(こかんしれん)が著わした『元亨釈書』にある。この書には他にも時平(しへい)が道真の霊に誅(せめ)られた折に浄蔵持念すれば白昼時平の両耳から青竜が飛び出した。あるいは夜中に寺へ押し入った群盗を一喝して金縛りにかけ夜明けにそれを解けば盗人は礼して去った。衆人環視の中、叡山僧修入との験比べにおいて浄蔵が石を咒縛すればその石誰も手を触れぬのに自ら毬のように上下宛転する。対して修入、この石閙(さわが)し静かにしろと念ずれば石は動かなくなる。二人とも持念を強めれば石は二つに割れて各々の前に転がったなどを記す。事実かどうかより話の面白さによって説話は命脈を保つ。
   「当観の開祖」、道教の寺院は何々観と呼ぶ。
*14「誅罰の刻」を活字本は「誅罰の則」と誤記。
*15「治円安」を活字本は「治国安」、この意味が分らない。一統は「治円庵と受法せり」と記しさらに意味不明。
   源義平は清盛を討とうとして斬首された。時に十九か二十歳。幾つかの地にその子の伝説がある。
*16「山兵ノ鼻」を活字本は「山岳の鼻」。現在地名に「竹の花」がある、活字本が正だろう。
*17「壱本道具と何のゆへか云傳へ多り」を活字本は「壱本道具そ何のゆへかと傅へたり」。何か嘲弄だろうかこれも意味不明。
*18「小池上」を活字本は現在もある地名の「小地上(こじかみ)」。
*19「伊達政宗」を一統は「伊達輝宗」。
*20「石華表」は石鳥居のこと。
*21この風土記に「斉宗」「斎宗」「齋家宗」などと記してあるのは臨済宗のこと。
*22「建久元年庚戌」の註に建久五年とは編者の見誤り。