路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする11飯野村

 11、飯野村
一、大宮大明神 小手十九社
 石の鳥居 石燈籠二基 天明元[辛丑]八月九日と銘有り
一、観音寺[武州江戸上野末寺天台宗 不納八畝六歩]八龍山と号す
一、小手地蔵詣十三番地蔵堂(註1)観音堂境内の内
一、地蔵 西飯野南 地主天明
 古碑(註2)建武四年名号の石
一、小手十三番札所観音堂[二間四面]階十四枚
 天治元年(註3)[甲卯]建立なりと云い伝えたり
 源三郎内 塩井 小平
一、観音堂
一、薬師堂 地主新兵衛
 谷戸 白山 座頭転(ザトウコロバ)し
 上飯野川 下飯野川 橋あり
一、観音堂
 宮川 菅久保 川前 梨子本 舟渡し(*1)
 数十丈の岩窪に大日如来の尊像有り、自然の天工にして人作の及ぶ処にあらず。
 棚屋敷 膳棚 向舘
一、虚空蔵堂 金鋳神
一、愛宕堂 弥陀文殊の三尊を安置せり
一、熊野宮
一、刈松田舘[仮満太とも]永禄九[未]年(註4)八月伊達右京太夫政宗伊達藤五郎成実、刈松田住人青木修理太夫を案内者として四本松大内備前、小浜荒井半内小野主水を攻める。委しくは東国太平記、伊達実録、四家合考などに見ゆ。(*2)
一、八幡宮(註5) 張り木戸 南[阿弥陀堂]
 @突内(ツヒツクウチ) 寛文年、御縄引の時分、役人衆に字名を問われしに斟酌(シンシャク)仕り候旨(むね)申し上げれば、それより斟酌内と改むとなり。(*3)
 燈篭岫(とうろうくき) 四在家 外道内 瀧袋
一、馬頭観音
一、東聖山五大院[京都聖護院宮積善院末寺 不納六畝歩]
一、秋葉堂[明和年中建立]
一、徳日山東光寺[羽州米沢法泉寺末寺齊家宗 不納一反一畝歩]
 鐘銘に曰く
 奥州伊達郡徳日山東光禅寺
 一丸銅錫 百錬作鯨 回長夜夢 度苦海生(*4)
 三千界響 二六時聲 国土安穏 寺門繁昌(*5)
  安永[二二](四)未稔(年)八月如意珠日(*6)
  前法泉当寺中興 定戒堂誌焉
 山門 階五枚
一、小手十四番札所観音堂 九尺四面(註5)
  夜も更けて東も光る寺のかねながき夢路をかえす一こえ
一、八幡宮(註6) 古館 笠の内 荒屋敷 竹の内
一、諏訪大明神(註7) 大木の杉あり、この社地へ五月五日馬くらべとて沢山に参るなり、加茂の競馬のまなびか。
一、小手地蔵詣十二番地蔵堂 地主谷之丞
 鍛冶子内[か地耕地とも] 藤柄
一、藤柄明神[池あり]
 水穴 狗子ヶ馬場 大極田
一、御林[長二十間 横百五十間] この反別六畝三百歩
 虎杖(イタドリ) 修験来光院
 藤蔵内 岩角山[安達郡岩角の三十三観音を遷せしとなり]
 境川 この橋の下にて境川逆川と合して大熊川に落る。(*7)
一、阿武隈川(註8)
 船渡しこの川水の勢い険々として往来の渡客あやうし。
 天井瀧 水神石 烏帽子岩
 順徳院御製
  あすもまたあぶくまがわのしがらみにきのふの秋の色や残らん(*8)
  行水にあぶくま川のなかりせばいかでかせましけふのわかれを 高階俊重朝臣(*9)
  立こむるあぶくま川の霧の間に秋をばやらぬ関もすくなく 定家(*10)
  長つきのいくありあけにめぐり来てあぶくま川にやどる月かげ 家隆(*11)
 阿武隈川の水源は下野国日光山後熊山より流れて川道七郡を流れ仙台荒浜へ落る。土人大熊川と云う。
 この渡りより下つかた、藍瀧の渡りに至りて両山けわしく峙立(そばだち)て流@にせまり怪巌峨々として屏風をたためる如く、龍の騰(ノボル)が如く、獅子の踞(ウツクマル)が如く、万古の姿今にかわらず千景万色眥(マナジリ)をめぐらすに筆の及ぶべきにあらず。(*12)
一、村高 二千九百六十四石一斗九升
 [東飯野 千六百五十七石七斗三升九合二勺]
 [西飯野 千三百十八石七斗三升九合三勺]
 東西十五町 南北二十四町五十間
一、六十三騎
 二百石関帯刀[今飯野町和泉屋林右衛門] 二百石関金五郎[今飯野町館五三郎]
 二百石関太郎左衛門 百石高野九左衛門 二百石高野右馬之助 百五十石朝倉六郎左衛門
 百石小和田彦作[今飯野彦三郎] 百石本田彦十郎[今藤蔵内平内]
一、勢州飯野郷というあり、上総国に飯野という城下あり、また上州に飯野という村あり、いずれかより移したるか、この地よりかしこへ移したるか後人考うべし。
一、小手庄申の方にあたれり、塩野村隣、安達郡境なり。(*13)

註1一統「観音堂 小手庄巡礼札所十三番 堂二間四面…文治元申辰歳建立也りと云」「天照院 修験者 大久保貴見院配下」
註2一統「又弥陀の称号あり是は南朝年号延元二年に当る」
註3天治元年の干支は甲辰。甲卯という干支はない、又、一本に天明元年とあるが同年の干支は辛丑に当る。
註4永禄九年は天正十二年の誤り。猶永禄九年は丙寅、天正十二年は甲申に当る。
註5一統「八月十五日祭礼」
註6同右「東光寺境内にあり」
  同右「古館の蹟にしづまります」
註7同右「七月廿七日祭礼」
註8同右「当邨西の方大熊川流通す天井瀧水神石烏帽子岩など云あり皆川中の名勝なり、又津頭あり飯野船場と云」

*1「菅久保」を活字本は「萱久保」。
*2『東国太平記』は杉原親清撰、国枝清軒が軍記物に直した書。『伊達実録』は同名類名の写本が数多くあり特定できず。「四家合考」は『会津四家合考(あいづしけごうこう)』、向井新兵衛(吉重)著、会津の歴代領主、蘆名伊達蒲生上杉を記す。
  一統は「此説誤れり 永禄九年の頃は伊達政宗は未だ生れざる人なり 成実は政宗より歳おとれる人なり 大概輝宗の事なるべし 成実は基実なるべし後の人考てよ」と記す。
*3@は闈に近い字、(「開」カ)と注あり。現在の地名に「鎮石内(しんしゃくうち)」がある。活字本は「開突門」。
*4活字本は最初の「一」を一ツ書の「一」と同列に置き、間を空けて「丸銅錫」とする誤記。
  一統は「銅錫」を「銅場」、「百錬」を「百練」と誤記。
  鐘の声を鯨音と言う。ここでの「鯨」は鐘本体の意味に用いている。
*5読み下してみる。
  一丸(いちがん)の銅錫(どうしゃく) 百錬(ひゃくれん)して鯨(げい)と作(な)す
  長夜(ちょうや)の夢(ゆめ)を回(めぐ)りて 苦海(くがい)の生(しょう)を度(わた)す
  三千界(さんぜんかい)に響(ひび)く 二六時(にろくじ)の声(こえ)
  国土安穏(こくどあんのん) 寺門繁昌(じもんはんじょう)を
*6「如意珠日」は願いの叶う吉日。一統は「如意昧日」と誤記。  
*7「大熊川」を一統は「大隈川」。阿武隈川の古名には青熊川、逢隈川などもある。
*8『夫木集』にある。「あすもまた」は「あすはまた」。
*9「高階俊重」は「高階経重」。1062年陸奥守として赴任したがなすところなく戻った。
  「行水(ゆくみず)に」は「行末(ゆくすゑ)に」、「いかでかせまし」は「いかにかせまし」。新古今集
*10「立こむる」は「たちくもる」、「関もすくなく」は「関もすゑなむ」。建保名所百首。
*11「長つきの」は「長月や」。この歌の作者を保原村熊坂台州が集めた『信達歌』では順徳院と誤記。三浦氏はここの四首を福島の日下兼延『信達風土雑記』から拾い取った。その日下氏の採取は『建保名所百首』からであろう。
*12@は草体字。ガリ版本は註11と記してあるが頁割の関係か註の9から12の文は欠けている。解読者二氏の意見が割れたか。活字本はこの字を糸偏に聿とし(緑カ)とルビする。「流緑」という言葉は聞かない。一統はこの部分「…峙立て急流殊に逼り舟行に難し」と適文。
  「峨々」を活字本は「蛾々」と誤記。
*13「塩」の字にママのルビ。一統は「盟野に隣れり」。塩野、盟野どちらも飯野の隣にはない。梁川に富野(とみの)村があり塩野川が流れている。ついでに言えば梁川にも小手郷と同じ五十沢村の地名がある。