路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする14羽田村

 14、羽田村
一、春日神社 小手十九社
 寛弘二年[乙巳]大和国南都春日勧請
 寛文九年[酉]造営 宝暦八[戊]年宮造営
 元和六年[庚申]吉田家老権之進、鈴鹿治左衛門、始めて奥州に下向有りて神社御改、その砌、故有りて菅野氏を改めて吉田氏を賜る。(*1)
 元文四年[己未]奉幣勧請
 天明三[寅]二月七日宣旨正一位神階(*2)
 大和国三笠山より白鷺と化して飛び移らせ給うと云う。今に山を鷺の社と云い、鷺の羽の落ちたる田なりとて羽田と村名す。例祭は九月廿九日より十月朔日まで。(*3)
一、稲荷宮 産石大明神(*4)
 諏訪田 笛吹田 耳酒畑(*5)
 [六月十五日の祭礼の時にこれを捧ず] 納豆畑
 武者田 羽の形の田有り春日大明神の御供(ごくう)ここより古例によってこれを捧ず。
一、鳥居額[勅許]正一位春日大明神[吉田二位殿御筆]
 並木 階二十四旦 手水石
 石燈籠二基 銘に曰く安永七[戌戌]年九月十九日(*6)
  当村願主 左藤孫右衛門 同苗伝四郎 佐藤平左衛門 菅野義左衛門
一、十二社(じゅうにしろ)権現 熊野勧請
一、月山 神主 吉田摂津守(*7)
一、不納六畝歩[一反二畝歩と有り考え合わすべし]
 宮ノ脇 丹後 丹波
 太夫坊 二階堂縫殿
 広町 佐藤土佐
 赤坂 大学越中(*8)
一、小手地蔵詣十五番地蔵堂 地主 佐藤平次郎
一、稲荷宮 蜥蜴石(イモリいし) [イ一口石](*9)
 松杉の社有り、御室有り、いにしえ山上に遷座しければ祟りありて元のいもり石へ移す。(*10)
一、八幡宮 辻ノ内[土橋あり] 衣掛松
 いにしえここに宝物を埋められしとなり。よりて塚の松と云い塚の腰を字(あざな)とす。階五十五旦 鳥居(*11)
 手水石[銘 天明二年寅八月十五日] 地主左藤千之助
一、加老ノ宮 地主 左藤平次郎
 武内宿禰(たけうちのすくね)高良大明神なりとぞ。武内宿禰は三百余歳にて長寿したる神なり。日本記三百七歳、公卿補任(くぎょうぶにん)三百十二歳、貝原篤信曰く三百十七歳、書に曰く三百二十歳、五雑俎(ござっそ)曰く三百七歳。(*12)
 堂ノ作 荒井ノ内 羽黒院龍泉院
 龍泉院の旧地は太夫坊にありしとなり行人寺と唱え
 瓜蕪内(*13)
 残森 いにしえ御縄引の時、森一つ残りたるゆえ字名とす
 朴木作 殿屋舗
一、赤城大明神 祭所経津主命(ふつぬしのみこと)
 上州木崎より移すという 地主二階堂伝右衛門(註1)
一、南無阿弥陀仏碑 宝暦五[亥]年十月吉日
一、羽田山円正寺 禅宗 不納三畝九歩
 本尊釈迦如来、左右に文殊普賢、脇檀に大権達磨 開山頭陀六世玉叟幸鎮大和尚
 鎮守白山大権現
 寺屋舗 宮大槻あり 大林
一、愛宕大権現
一、薬師堂 祭所少名彦名命(すくなびこなのみこと) 糟内(カスうち)(*14)
一、小手十七番札所観音堂[九尺四面] 馬頭観世音菩薩
 縁日九月十九日 [地主千歩]六右衛門(註2)(*15)
  一歩より千歩にいたる道の程あすをたのみてけふをわするな
 平 清水[土橋一ヶ処] 畝歩内(セブうち) 入の内 松窪 中ノ内
一、小手地蔵詣十六番地蔵堂 地主[中ノ内]次郎兵衛(註3)
 三郷
一、稲荷大明神 正一位安鎮祭なり
一、古館 高橋外記と云う人居すと云う
 椚ノ内 舘ノ内(*16)
一、十王堂 名号碑 寛延第三[庚午]年六月吉日 羽田村了快道者(註4)(*17)
 山上に天照太神稲荷蔵王の祠を建て、所の産生神(うぶすながみ)とす。
 脇に大石有り、この石平場に家作りければ石の祟りあり、よりて石上に庚申大黒天を安置せり。それよりたたりなしと其処の土人語りき。
 柳ヶ作[坂有り、登り秋山村境迄二丁] 池ノ入 才ノ内(*18)
一、兜石 田の中に有り、よく甲の形に似たり
一、鞦石(シリガイいし) 往古八幡太郎義家朝臣奥州任国の砌、御馬の鞦を捨てられ給う所なりと云々。石面にしりがへの形今に残れり。
一、村高 千二百三十三石二斗八升三合
一、土地は真土の場所、少しの土砂土なり。(*19)
一、六十三騎 百五十石[広丁]佐藤彦右衛門 百五十石[中ノ内]佐藤平左衛門 百五十石[糟内]佐藤治郎兵衛
一、溜井 廿一ヶ所
一、追分碑 右川又 左秋山道
一、種おろし春彼岸八十八夜前後に蒔付け五月夏至前に植付け、八月中より九月中に刈取り。畑方、九月土用より十月中旬迄に蒔付け、来五月刈取り。
一、土橋 三ヶ所
 水源は秋山より流れ出、松沢の流れ、この橋の下で合す。

註1一統「二階堂土佐が子孫なるか。三月十八日祭礼なり。殿邨と云ふに鎮座まします」
註2一統「九右衛門」
註3一本に「道有」とあり

*1「吉田家老」を一統は「吉田殿家司」、「鈴鹿治左衛門」を「鈴鹿治郎左衛門」とし、活字本は「鈴鹿作左衛門」。
  前の行、宝暦八年の干支をガリ版本は「戌」と誤記。
*2天明三年は癸卯(みずのとう)、天明二年が寅。よって二年の誤りか。
  「宣旨」を活字本は「宣旨勅許」。
*3主語の欠けた文。春日明神が白鷺と化し飛来したという話。
  「鷺の社」はたぶん「鷺の杜」。現在の地名に「鷺ノ森」がある。
*4「産石」とは産立飯(うぶたてめし)の膳に載せる川から拾った丸石。
*5「耳酒畑」は活字本の筆記も同じだけれど一統は「甘酒田」とする。聞き酒はあっても耳酒という語は聞かない、甘酒が正しかろう。
*6干支に戌戌は無い。「戊戌(ぼじゅつ・つちのえいぬ)」。筆写によくある筆の滑り。
  次行の人名「義左衛門」を活字本は「茂左衛門」。
*7一統は十二社権現と月山を一行に記し「按ずるに九重天に黄赤白の三輪天を合せて祭れる 是則十二天なり」。
*8底本はこの行をひとつ後ろに置いてある。「宮ノ脇、太夫坊、広町、赤坂」は地名、「丹後丹波、二階堂、佐藤、大学越中」は人名または家名。商家の屋号と同じ用い方。在家層だろう。
*9「イ一口]にはママのルビ。意味不明。
*10「杉松の社」もたぶん「杉松の杜」。活字本は「御室」を「御宝」。
*11「塚の腰」の現在地名表記は「塚の越」。
*12高良神社は筑後国一ノ宮、潮干潮満二つの珠を守った高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)を祀り、左右に八幡住吉を祀る。(イスラエルの民を率いたモーセが潮干珠を手にしていたかは知らない)。
  京の石清水八幡宮の摂社、上高良では武内宿禰、下高良は玉垂命を祀る。それは行教が筑後から勧請した。江戸時代は高良神と武内宿禰が同一視された。
  武内宿禰は八幡と同じく軍神の性格を持ち住吉神と同じく神功皇后を助けた神話がある、五代の天皇に仕えた。それは神功皇后作話のとばっちり。
  『五雑俎』は明代、謝肇淛(しゃちょうせい)の随筆なので日本人武内宿禰の記述があるかどうか。これは五雑俎何々と題した日本の著書かもしれない。
  「加老ノ宮」の命名からすると軍神の意味より長寿祈願が主意になろう。
*13現在の地名は瓜蕪良内(うりかぶろううち)。次行の「残森」に合う現在地名には残茂内(ざんもううち)がある。
*14「少名彦名命」は通常「少彦名命」と書く。古事記日本書紀で父の名が異なるも大国主命の相棒、医薬の創始者
  「糟内」を活字本は「槽内」、一統は「糠内」と誤記。現在表記は「粕内」。
*15「千歩」の現在表記は「千穂(せんぼ)」。
*16「館ノ内」をガリ版本は欠。
*17「了快道者」を一統は「丁快道者」、そして「十王堂」は「古舘」敷地内の建立と記す。
*18「才ノ内」を活字本は「戈ノ内」と誤記。
*19「真土」の読みは農耕に適したとの意味で用いる「まつち」がある。