路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする15小神村

 15、小神村
一、小手十九社春日大明神 鳥居階
 往昔、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)この山の木の上に影向(ようごう)ならせ給うゆえに木上山と云う。その後文字を小神と改め村名となれり。(*1)
 御山は松杉の古木枝を垂れ繁昌の社地なりけり。例祭は九月朔日、貴賎群れをなす。[神主]高橋近江守(*2)
一、羽黒山大権現 例祭三月廿八日
一、四作 天ヶ作 柳ヶ作 清水ヶ作 中ノ作
一、六橋 川原田橋 二本柳橋 道合地橋 森内橋 猪耕地橋 正道橋
一、八内八門 いにしえは八内、今は二十余内あり
 城の内 宝内 宮根(クネ)の内 森内 鶴内 柳城内 鍛冶内 坂倉内
一、苗代地蔵堂 小手地蔵詣十九番
 この里の農夫常に尊信しければ一夜の内に多くの田のしろを掻(カキ)しとぞ。今に苗代の時、その例になろうて尊像へ泥を塗り侍るとなり。
 宮下 安斎将監
一、阿弥陀如来 [字]荒屋敷 行屋の内に安置す
 勝道上人の御作にて霊験あらたなる尊像なり。(*3)
一、唐松山
一、麓山大権現 御井戸[権現の御手洗(みたらし)なりと云う]
一、紙漉内 笠松 長門
一、小手十八番札所観音堂
  つぼむ花小神にあるを哀見てか地うちひらき春は来にけり(*4)
 東中内 上戸ノ内 斎藤大学(*5)
 下戸ノ内 地蔵天地 矢古呂内[弥五郎内とも云う]
一、行人檀 杉槙あり
一、小手地蔵詣十八番地蔵堂[字]杉ノ内[地主]伝兵衛
 吉後 浜居場 葭内 赤羽根(*6)
 狐石[大石有り道往来に明月音あるゆえに百百(ハウハウ)石と云い伝えたり](*7)
 堂号門[また樋合門とも](*8)
一、阿弥陀堂 古寺跡なり東蓮寺という名のみ残れり
 往昔、東蓮寺は秀衡公一郡に一宇を建立有りし寺なりと云えり。おしむらくは文治の兵乱に一炬の煙となりにける。
 その後、桜田玄蕃御影舘に在城の節、かの地に移し東円寺と改むと古人云い伝えたり。この説不詳、後人猶考うべし。
 ここに東蓮寺阪とてわずかの阪有り。往来の人転ぶ時は悪しと云い伝えり。土人に聞くにその謂れ知る人なし。
一、雷神宮
 ここに古木の石となりし物有り、社有り、鳥居あり。
一、伽羅陀山延命院泉福寺
 釈尊、伽羅山にして延命地蔵経を説かれし因によりて山号陀号となすと云々。
 この寺に琵琶のばちの如くの石あり、奇石なり。
 本尊釈迦牟尼仏、脇檀に文殊普賢を安置す。
一、村高 九百三十八石九斗二升九合(註1)
一、小手地蔵詣十七番地蔵堂 [荒屋敷]地主市右衛門
一、小手十九番札所観音堂
  月の舟西に小神の夜も更けていつみのめぐむ寺にありあけ(*9)
一、名号碑[無能和尚筆]
一、十王堂 いにしえ森内にありしをここに移せしと云う。
 岩物杜(ガンブツモリ) 鰻内(ウナギうち)[古舘あり土陽(註2)孫兵衛という人居す。いにしえ上杉家へ属して北越に旅して戦いしと云い伝えたる]
 広畑 台 館
 平田城内 女夫石(めおといし)[宮下入に有り] 座頭石(*10)
一、道郷内(註3)[古舘あり寺嶋淡路居す]

註1村高は朱書、後年附記したもの。
註2一本に「土湯」とある。
註3一本に道郷内の次に「一、六十三騎 百五十石 武藤大学」を附記してある。

*1一統の志田氏「神の木の上に出現し給う故なれば木神とこそ唱ふべきに小神とは心得ず」と付記する。『都図会』の寂照院の項に次の文がある。「本尊観世音は椎の木の上に出現し給へり、この故に木上山(こかみやま)といふ」。
*2「繁昌」を活字本は「磐昌」と誤記。
*3一統は勝道上人のことを詳しく「補陀落山碑に云有 沙門勝道は下野芳賀人也俗姓若田氏云々 神護慶雲の頃の人なり 嘉永六年までに一千五十七年なり」。
*4ガリ版本は下の句「春にけり」とて「来」の字を欠く。「か地うち」は地名の「鍛冶内」。一統は「小神」を「小袖」と誤記。
*5人名をガリ版本は欠く。
*6現在の地名表記は、吉吾(きちご)、浜井場(はまいば)、吉内(よしうち)。
*7「明月音」にママのルビ。「百百」のルビを活字本は「ドウドウ」。意味不明の行。
*8活字本は「堂号内」、「門」は誤り。現在の表記は道合内(どうごううち)。
*9「いつみ」は泉福寺の「いずみ」。一統はこの語を略し「月の舟西に漕行夜も更て小神の恵む寺に有明」とする。
*10「女夫石」を一統は「女石」とする。