路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする17上小国村

 17、上小国村(註1)
一、熊野三所大権現(註2) 上下両村鎮守 神主千葉主水
 小手十九社 祭所 伊弉並尊 事解男(コトサカヲノ)神 速玉男神
一、小手地蔵詣第九番地蔵堂[字山の神」 地主丑太郎
 神田 水の脇 高橋 天上(註3)[坂あり] 山神 杉山
 妙田 北 三保(さんぼ)(註4) 堤 台 中ノ内
一、淡波古葉石 石面に煙草の葉のようの紋あり。多葉粉(たばこ)の価高き年は隠れ、煙草の価安き年はあらわるとなり。 猫内
一、観音堂
一、[下小国]瑞雲山龍徳寺 禅宗頭陀寺末寺
 いにしえ猫又というものありて人民をなやますゆえにその地に埋ずむ。一宇を立て猫塚山と号す。中頃古虎山と改む。近代また龍徳の寺号に合すとて瑞雲山と号せしとなり。
 開山頭陀二世泰山祥安和尚
一、小手地蔵詣第七番地蔵堂
 八ツ根入 竹の内 五郎内
一、稲荷宮(註5) 神祇拾遺に曰く、和銅四年稲荷神影向(ようごう)偶(タマタマ)了(おえ)たるに仲秋の午の日故にて今に至り丹此日を(*1)
 別当坂 鐘ヶ作 駒場 宮内
一、吉備大明神[下ツ道の国勝の男、名は真備(マビ)、霊亀二年入唐、経史を研覧し軍術衆芸悉く伝えて帰朝す](*2)
 山城国、上御霊(かみごりょう)八所の一神なり。吉備大臣は右大臣正二位なり。本朝無双の才人なり。元正天皇遣唐使なり。唐土(もろこし)にして野馬台(やまだい)の文を読まんとするに文義暁(さと)しがたし。時に我が朝初瀬観音を心中に念ぜり。その時、蜘蛛下りて糸を引いて教えければ容易に読めりとかや。天平五年に帰朝し、光仁宝亀六年十月に薨じ給う。年八十二才。(*3)
 この地に勧請不詳、なを後人考うべし。(*4)
 宮脇(註6) 腰巻 木戸ノ内 小屋下 水口
一、小手廿一番札所観音堂(註7)[一尺四面]千手観世音(*5)
 小国川下は濁れど水口はわたのいとなみまわる影より
 杉もり老木の桜あり 縁日八月廿七日
 真坂[末坂とも] 馬場 小梅 原 谷 杉の内(註8)
一、小手地蔵詣第九番地蔵堂[字山神] 地主丑太郎
 @僧(ガソウ) 応原 柿ノ内 小池 茶畑(*6)
一、土地真綿に宜し、小国綿と唱う、伊達の上品とす。
一、六十三騎 百石犬飼彦左衛門

註1一統「上小国村 公邑。秋山邨の北にあり高千三百五十石五斗一升余当村は山と山との際に在りて其境国内の形に似たり 故に上下を分て斯は名付しか 又出羽国にも小国と云所あり 蓋彼地より移せし者か或は彼処より来りて旧邨開発せしにや未だ定かならず」
註2一統「小手郷十九社往古上下両邨の土神なるよし後の世に下の小国邨にて当社へ移し奉りて産神と仰ぎ奉る祭礼は十月九日…当邨に神田と云う字有り是は産神へ御供米を奉る田なるべし」
註3,4一統「当邨にも天上阪と云うあり前に云へる天女の古事なるべし又三保と云う地名あれば天女の古説疑なく」云々。
註5一統「別堂坂と云所にあり此処鐘ヶ作駒場宮内など言へる景色の地あり」
註6一統「宮脇腰巻とて朝霧の山の腰に棚引し風景いとよろしき名勝なり」
註7一統「水口と云所に安置す堂九尺四面小手庄巡礼札所二十一番…八月廿七日祭礼」
註8其の他、一統誌に「良善院、光正院各修験者大久保貴見院配下」など見える。

*1文末混乱、日本語になっていない。活字本は「稲荷神影偶に仲秋の午の日故にて今至り此日祭り」と、こちらも文にならず書写の乱れが続いた。ガリ版本の「丹」は祭であろう。
  『神祇拾遺』は室町期卜部兼満(うらべかねみつ)の著。
  稲荷神の影向伝承は二月初午、この記述は影向が春から秋まであったとの意味にも取れ「仲秋」の語が何かの誤りと思える。。
*2「真備」の読みは「まきび」と「まび」、どちらも用いる。「衆藝」を活字本は「象藝」と誤記。
*3この文は『都図会』「上御霊社(かみごりょうのやしろ)」から引き写し。
  蜘蛛が糸で教えた事を一統の淡白氏「此説妄れり 取に足らず」と記す。
*4「後人」を活字本は「後入」と誤記。
*5堂の大きさが一尺四面はありえない。ガリ版本はママのルビ。一統は「九尺四面」。
*6@は髟の下に害。現在の地名は我僧。パソコンのフォントにはないけれど漢字には髟の下に我ならある。字典によると馬偏の横に我の文字と同義で馬が首を振る動作を意味する。日本で使われた例は知らない。別字であろう。