路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする19大波村

 19、大波村(註1)
一、水雲大明神(註2) 小手十九社[小手十九社にあらず](註3) 石橋 鳥居 階六十七段
 祭所 瓊々杵尊(ににぎのみこと)国常立尊(くにのとこたちのみこと)建御方主神(たけみかたぬしのかみ)(*1)
  伊達家麾臣下 再興舘主大波伊賀  神主木村美濃守(*2)
 石燈籠一基 享和三寅年九月(*3)
  八束穂の稲のよるべや御供殿 [セノ上]等舟
  紅葉すり中やますます白幣  故白(*4)
一、宮ノ平 西畑
一、大悲山成願寺 禅宗羽州米沢下村正眼寺末寺
一、阿弥陀堂[一間四面]
一、小手地蔵詣第八番地蔵堂[九尺四面]破れ堂 地主 三四郎
 国木町(註4)
一、小手廿二番札所観音堂[七尺四面] 聖観世音菩薩
  大波も静かにすめる御代なれや国木のまちに慈悲の帆をとく(*5)
一、小手十九社内 住吉大明神(註5) 鳥井 杉森あり 字住吉
 祭所 表筒男命(うわつつおのみこと) 中筒男命 底筒男命(*6)
 神功皇后十一年、長門国豊浦に垂迹(スイシャク)すと云々。
 また曰く、住吉大神その荒魂(あらみたま)は筑紫の小戸(おど)に在り、和魂(にぎみたま)は神功皇后三韓を征し玉う時摂州に鎮座す。託(おつげ)の云う、真住吉(ますみよし)真住吉の国なり、よりて鎮座せる地名を住吉と云う。長門国豊浦那珂の住吉は摂州の地名によりて之を通称す。(*7)
  神主 斎藤対馬
一、追分碑 従是(これより)右ハ小国より川又 左ハ掛田より相馬 西福嶋道
一、雷神宮 階八十一段 長床 本社
 疣石(イボいし) 上染谷 染谷[この地の土朱のごとし、よりて字(あざ)とす] 並フ 北向 淵ノ上(*8)
一、追分碑 従是 東相馬 南川又 北保原 西福嶌
一、星ノ宮権現(註6)[字星ノ宮] 槻の大木あり
 竹ノ内 瀧ノ入
一、修験 和生院(註7)
一、小手庄亥の方にあたる村なり、信夫郡に隣れり。
一、土地栗に宜し大波栗と唱う。
 毛詩陸疏広要に云う、倭国の栗の大きさ雞子(タマゴ)の如く短し、是日本の丹波栗の事なるべし。(*9)
一、六十三騎 百五十石安部清右衛門
       二百石栗原新左衛門
 右新左衛門儀、親新兵衛を若松の証人に差し上げ、その身妻子共に梁川に籠城いたし数度(すど)の高名につき、須田大炊介殿より右二百石の判形(はんぎょう)所持仕ると申し候。

 附録及び註
 大波村の項に、後世朱書にて、種々附記してある、これを附録として収めた。但し本文を直接訂正した部分は附録より除いた。

 水渡明神は大波水源上に立たせ給うなり。今此処に引く住吉神より祭神宇志テ是祭なり。(*10)
 大波は水不足にして旱魃のため是祭なり。
 此后に山源の西、福島道に流るる川有り。又南方、立子山山上より東方へ流るる川有り。又一里二丁流れおり道下という処にて合す。是を水渡り川と云う。(*11)
 実方(さねかた)中将、住吉社参詣の折、この川にて身を@める時、御歌有り。この時案内人、木幡主殿あわせて須田縫之輔両人案内、時の社司大波隼人正なり。(*12)
 昔、この地に実方朝臣下りたる古例有りて今に御歌有り。住吉社参詣時の例も有り。又摂州より移せし時のいわれ有り。

註1一統「大波邨 村邑。上小国村の西北にあり、当邨は参州刈谷の城主土井淡路守殿別封邑なり、其治(ヂンヤ)同郡湯野村に在り、高千三十石八斗五升余、昔天正年中此邨に大波伊賀守と云う人住と云へり、故に大波邨と云か又は小さき山とも打続き…波の打来るが如く…見ゆれば大波と邨名を負はせしか」(*13)
註2一統「九月十九日祭礼」
註3「小手十九社に不有」は朱書で、「小手十九社」の文字を抹消、訂正している。
註4一統「此地大波伊賀守住み給ひし時の古き城蹟なりと」
註5同右「杉森中に鎮座…字を住吉といふ」
註6一統「大波氏北極星を信じ…祭り給ふなるべし」
註7「一統誌」にはこの外に「龍宝院、修験者、大久保貴見院配下」が記されてある。

*1「瓊々杵尊」は天照大神の孫、国を治めるため高千穂の峰に降った。
  「国常立尊」は天地開闢の神。
  「建御方主神」は「建御名方神(たけみなかたのかみ)」であろう。大国主命の子、諏訪神社の祭神。
*2「麾臣下」の「麾(き)」は将軍直属の意味。旗本、近衛。
*3「享和三寅年」を活字本は「亥年」。享和三年は癸亥、1803年。それでは風土記執筆の1788年に反する。寅年の延享三年1746年と見るべきか。一統は「享和二年亥」としてママのルビ。
*4「紅葉寸り」の「寸」にママのルビ。活字本は「紅葉する」。「紅葉せり」がよい。
  「白幣」を活字本は「日の幣」とする。これは紅葉と対照の白が妥当。読みは「しろきぬさ」あるいは「しろにきて」。初穂を神に捧げる前の句に続き、外は紅葉の色が増すにつけ神殿の幣はさらに白きを増すと付けた。
*5「帆をとく」を一統は「法をとく」と解説。また「国木」に「椚(くぬぎ)」と脇注する。
*6三柱の神は黄泉から戻った伊弉諾が禊をした水中で生れたゆえに航海の神とされる。活字本は「底筒男」を「応筒男」と誤記。
*7この一文は語の欠落があろう。「豊浦那珂」を活字本は「豊浦郡阿」と、また「真住吉」を「奥住吉」と誤記。
*8「並フ」は現在地名「奈良婦(ならぶ)」か。
*9「毛詩陸疏広要」は3世紀呉の人、陸璣(りくき)の撰になる『毛詩草木鳥獣蟲魚疏廣要』、小野蘭山が和名を付して『毛詩名物図説』を出している。
  一統は「丹波栗」を「丹波国」と誤記。
*10「宇志テ」にママのルビ。「うして」は「失せて」の訛音。住吉神の効力が失せたので新たに水渡明神を祭った、との意味に解した。
*11「此后」は「この後ろ」、或は「后」を土地神の意味として「このきみ」と読むも可。「山源」は前の行にある「水源」つまり明神の山。さても意味の通りにくい文章ではある。「道下」の地名は今無い。
*12「実方中将」は藤原実方三十六歌仙の一人、長徳元(995)年陸奥守。これは人前で頭頂を曝すのを恥とした時代、殿中で口論となった行成の冠を払い落とした無礼により「歌枕見てまいれ」と一条天皇に言われた話が『古事談』他に載る。
   @はネに支、「禊」か「祓」ではないか。「身を禊(きよ)める時」。
   梁川の八幡宮は実方が勧請したと伝える。川俣の春日神社が山蔭中納言の勧請によるのと同じく地方の主たる産土神を大宮人の功とするのは寄進荘園時代があったことも示す。
*13「其治」にヂンヤのルビは合わない「甚冶」ではないか。陣屋の意味。