路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする23下糠田村

 23、下糠田村(註1)
一、赤城大明神[小手十九社] 神主伊藤讃岐守
 土御門御宇 元久年中遷座という
 祭所 経津主神(ふつぬしのかみ) 元文二年[丁巳]正一位神階(*1)
 当社は専ら武運長久の弓箭の御守神なり。神徳の広大なる事なかなか拙き筆に書きちらさんは恐れあれば記すにあたわず。
 土人の言い伝えたるには上州細布(註2)というところより遷座なりと。今、掛田村桑嶋與惣左衛門、当社の鍵持つなりと云う。
 [○赤城大明神、天禄三年上野国勢多郡赤城山より同村広瀬川辺細布森(今の落舘明神ノ森これなり)に遷す。元久年中、田代五左衛門先祖、字本山(今本山神社これなり)に遷す。天正中須伯耆守親重なる者、城郭の腰に遷座して城内守護の奉仰す。のち仙台(米沢の誤りか)に移るや同時に遷座すと云う。](*2)
 [○姥ケ懐山舘、天正伊達輝宗羽州長井庄資福寺に葬るその時他に在して殉死すと云う(仙台御藩祖成蹟にあり)。後、須田家政宗に従い仙台に移る。(*3)
 古舘、天正年中、小柳太郎左衛門の居舘、臣本田某なる者あり伊達輝宗と語らい主人を落城す。輝宗、本田の逆臣なるを憎みこれを退く。後、布川に居住す。今の本田家これなり。小柳太郎左衛門は伊達家の臣となり、のち伊達家と共に仙台に移ると云えり。](*4)
一、石橋二枚 鳥居石ノ額正一位赤祇大明神
一、石燈籠二基[天明八年戊申 六月吉辰]願主 菅野新四郎(*5)
一、階二十六檀 長床[三間七間] 手水石 鉢敷石 大木数株有り
一、末社蠶養神
 細布 大ヶ谷 鎌ヶ入
一、真徳寺
 開山頭陀八世日慶伝朔大和尚
一、築舘城主須田伯耆居す 米沢官臣(*6)
一、宝筺院陀羅尼塔[寛政二戌年建] 願主菅野氏(*7)
一、小手廿六番札所三十三観音を安置す 安永酉年(註4) 願主菅野新左エ門
 清浄庵
  ここに来てめぐるつきたて清浄のかねのひびきにあくる東雲
 清浄庵鐘銘に曰く、奥州伊達郡築舘町清浄庵
 二代同州安達郡二本松渋川村日向(ひなた)火断木食(*8)
 寿福院 願主 月照海上人 願主 菅野新左エ門(*9)
 于時享保八[癸卯]天 九月晦日
一、稲荷宮 階二十一檀 石鳥居石額
一、天神宮(註5) 石の宮殿 地主 菅野新左エ門
 天明二年丑(註6)建立
一、愛宕山大権現[堂二間半四面] 別当修験清水寺(註8)
 それ、あたご山は地蔵龍樹摂化の地として唐の五台山の風景に似たるとかや。大唐の日羅の変化(へんげ)なり。勝軍地蔵は修羅闘諍の瞋恚(シンイ)を調伏し太平静謐の守護をくわえ給う忍辱(にんにく)慈悲の尊体なれば、それ利益あまねく衆生に施し給う。かのゆえにとおくこの地に勧請あり。その徳いよいよ高くして太平鎮護の安全まもり給う事あやまりなしとかや。(*10)
 この山に登りて眺望するに絶景なり。石段高くして二百九十七階あり、勇壮の者ならではこの坂よりのぼる事かたし。
一、石燈籠二基 銘に曰く[天明三年六月吉日] 願主菅野萬五郎
一、石燈籠二基 銘に曰く[奉納御宝前天明八年戌申六月吉辰] 願主菅野新四郎(*11)
一、大石数あり手水石物見石
一、十王堂(註7)[一間四面] 修験 大徳院(註9)(*12)
一、(空白) 修験 行清
一、包石 いにしえこの石落したりしに一夜の内に元の如く居りたると土人云い伝えたり。
  神秘ぞと包みし石の心かな 比君庵
一、琵琶石
  びわの名や石吹風も秋の声 画水
一、座頭石
  わらひには探る手もあり夜の石 以柏(*13)
一、伝女石[原本には@女石と書いてある。「@1」は「専」であり「@2」=「寺」ではない](*14)
  伝女石の後ろむすびや葛の節 蔵六(*15)
一、傾城石
  嘘や買ふて傾城石に苔の華 水舟老人亀六(*16)
一、西舘(註10)信夫城主佐藤庄司一門佐藤民部居す@(*17)
一、古田 片筆(*18)
一、目倫木山御林(*19)
一、合葭(アイヨシ)
一、六十三騎 簱頭 知行二百石 足軽五十人 田代五左衛門

註1一統「封邑」
註2同右「細布は東奥の古事なり此地も古は細布をおりし事も有しか」
註3この細字の部分は後に書き加えたものである。
註4安永酉年は安永六年に当る。
註5一統「三月二十五日祭礼」
註6天明二年は[壬寅]で同元年が[辛丑]である。
註7一統「閻魔の廰安置す十王一体なり」
註8同右「清水寺修験者当社別当…大久保貴見院配下」
註9同右「大法院正善院各修験者…大久保邨貴見院配下」
註10同右「須田伯耆守居住…東の方大手のよし北の方社あり…一説に元暦年中(元暦は二年で改元文治元年となる)…佐藤庄司基治が一門同苗民部と云人居住せる由」
註、本文には記されていないが一統志には
一、古碑
 貞治六年二月三日建立(*20)
 信達歌云利蝕一宇不存可惜(*21)
 按北朝貞治六年當南朝正平二十二年
 是時南朝将帥新田公楠公及義興等已戦死而唯正儀存焉(*22)
 如我信達間亦既奉北朝正朔者可以相隻時勢云々(*23)
 安政二[乙卯]歳迄四百五十八年也

*1遷座の年号元久は1204年の改元、神階を受けた元文二年は1737年。一統は「赤城」を「赤坂」と、また次の文の鍵の持ち主の名「桑嶋」を「来島」と誤記。
*2この○印の文は後人の書き込みで活字本には無い。天禄三年は平安中期の973年、天正は1580年前後の年号。
 「(米沢の誤りか)」は編集者の脇注。
*3殉死は須田伯耆。輝宗の死は1585(天正13)年。
  ガリ版本は「他ニ在フテ」と記すが「シ」を「フ」に書き誤ったと解し「在して」と直した。声に出して読むには「ざいして」「おわして」どちらでもよい。
  また、須田伯耆の子も須田伯耆を名乗っており、1590年に伊達政宗一揆を煽動したと氏郷に讒訴した記録が残る。その名を「親重」と記述する書冊もあり、今の私にそれを詮索する時間はない。
  「仙台御藩祖成蹟」の「成」にママのルビ。『仙台藩祖成蹟』のことでルビ不要。
  「長井庄」は現在の山形県長井市、資福寺は1280年頃の建立と伝え、後年、伊達氏夏茂城の一部になり輝宗の子政宗もここで育った。
  寺が城郭の機能を持つことは自然で飯坂の頭陀寺や立子山の一円寺なども地形にそれが見て取れる。城は大勢が雨風を凌ぎ寝起きできる建屋、武器兵糧の倉庫と兵馬の集まる平坦地、敵の進攻を防ぐ堀などからなる。世間の名城に見るような高層の天守閣や石垣が必須というわけではない。里山を歩くと草や雑木の茂りに隠れた切岸や削平地など昔の砦か山城をしのばせる地形をいくらも見る。
*4「古舘」は隣の布川村にある。「こだち」「ふるだて」読み不明。
*5ガリ版本は「戊申」を「戌申」と誤記。
*6「官臣」は「家臣」であろう。「米沢」とは上杉家。
*7寛政二年は1790年、『小手風土記』成立は1788年、つまり後年の追記か寛永など年号表記の誤りかそれはわからない。
*8「火断木食」(ひだちもくじき、かだんもくじき)は煮炊きを要する五穀十穀を去り、木の実や草の根を食べる。修験道では即身仏への第一段階修行、この修行を行った人を木食上人と呼ぶ。実際には鳥獣同士の戦いに敗死したものを焼くなど火食もする。稲作渡来以前の食生活に近い。
*9渋川村日向の寿福院は地名と寺、そして大日如来像、どれも現存する。寺は正徳五(1715)年に月照海の造立。上人は湯殿山に参籠して奥儀を得たと伝わる。僧の三字名は珍しく特定の一宗派が用いたかと考えたが曹洞宗常泉寺歴代住職墓誌には寛永から明和までの間に四人の三字名があった。当時は珍しくなかったかもしれない。ただ月照海の名については戸川安章氏の記述で解を得た。山外禁足の特殊で厳しい修行をした一世別行(いっせべつぎょう)者が行人と呼ばれ上人号を允(ゆる)された。諱(いみな)の下に海字をつけたと。
 寿福院の大日如来像は川俣の町飯坂にある大日如来と対になっている。
 その像について述べるのでここの注は長い文になる。
 密教系の大日如来金剛界胎蔵界の二像を対とする。この二像のわかり易い違いは手の形、印相(いんぞう)にある。
 金剛界大日如来は左手の人差指を立てそれを右手で握る、拳が上下に重なる形、親指は共に内側に握る。これを智拳印(ちけんいん)と呼ぶ。
 胎蔵界大日如来は座禅僧の姿で馴染の掌を上向きに重ね親指を触れ合わせた形、これは法界定印(ほっかいじょういん)と呼ぶ。
 印相の意味合いなら検索すればいくらでも出る。信仰者には納得の説明も不信心の私にはどれも漠とした言葉事でしかない。
 それは措いて、川俣大日堂の川向かいに金剛界の摩崖仏があり、月照海上人はその対になるよう胎蔵界を置こうとしたのではないか、その理由が台座の刻銘に書かれていないか。調べる中で渋川にある像の台座蓮弁に刻まれた銘の写しを『月舘町史Ⅰ』p410に見つけた。両脇の寄進者名は省き、正面蓮弁の由緒書を転記する。

  奥州安達郡渋川村火断木食
  上人月照誓願勧化男女
  一万人造立金胎両部之大日
  尊像然余素清貧有志而無力
  如短□不及痒處依之欲募一
  人六銭於一万人以遂所志手
  携化冊周施諸方則有志之士
  女□資財助余願夥焉是故両
  部之鋳像不日成□金界安置
  奥州安達郡渋川村胎界安置
  同国伊達郡川俣村古師所謂一
  縷不能制象必依多孫嗟非翅
  能所求願満耳教後来若干有
  縁人殖現常因不亦大乎
  于旹正徳五年乙未十二月吉辰
    奥州宇多郡中村城下□
    鋳像師 斎藤別当
         勘左右衛門尉
           藤原良實

 『小手風土記』の文ではないがこれまで同様デタラメ読みを試みる。補足資料は二本松市役所から送っていただいた渋川の如来像全体の写真(これの台座部分を拡大すれば一点一画は無理も文字の輪郭はつかめる)と、私自身が実際に見た川俣の如来像銘(こちらは町指定文化財とてガラス板に覆われ読めるのは正面蓮弁のみ、しかも台座湾曲部にある行末の二字分は読めない)の二つ。
 まず単語の説明や欠字誤字などの指摘をする。
 2行目「勧化(かんげ)」は仏の教えを広めるというのが本来の意味、実際は寄附集めを指す。
 5行目の□は偏が「眉」の字の目を月にしたかたち、旁は「辛」。これは「臂」と読んだ。背中が痒いけれど手が短くて届かない。
 6行目の「六」は月舘町史で行の二字目にあるも渋川像の写真では行頭にあってなを「文」とも読める。川俣像でも数字は行頭でその数は「一」。前行の末字を読めず確かなことは言えないが「募一人六銭」ではなく「募一文銭」としてみた。どなたか確認していただきたい。
 7行目の「化冊(かさつ)」とは奉加帳のこと。また月舘町史の「周施」は誤記で渋川像の写真でも「周旋」。
 8行目の□は明らかに「抛」。
 9行目の□は置字の「矣」。
 11行目の「所謂」は「いわゆる」の読みが一般的だけれど音調と意味合いに少々ズレを感じ、字のまま「謂う所」と読んだ。
 12行目の「一縷不能制象 必依多孫」。
  「制象」を二字熟語として読めば法律や掟の意味。しかしここでの「制」は「製」「つくる」の意味で用いている。『詩経』に「制彼裳衣(かのしょういをつくる)」の句あり。「象」は「かたち」。
  「孫」は「絲」を誤読したもの。刻銘は「系」が二つ横並びの形をしている。「多孫」では別の意味になってしまう。
  この句は『盂蘭盆経略疏』の「一縷不能制象。必假多絲。一人不能制業。必資衆徳」から引用したもの。「假」が「依」になるも意味は合う。餓鬼道に落ちた亡母をどうしたら救えるか尋ねた目犍連に釈迦が言った言葉。糸一本で服は作れない、必ず多くの糸から布を作り服の形にする。同じように人一人の力ではどうにもできない、衆徳の助けが必要だ。そこで十方衆僧を供養し目犍連の母は成仏できた。これが毎年雨安居(うあんご)のあける旧暦七月十五日を祖先供養の日と定めた由縁。『盂蘭盆経』は釈迦の言葉が入っているも中国僧竺法護による偽経の疑いあり。『盂蘭盆経略疏』は宗密(しゅうみつ)によるその注釈書、平安時代日本に入り盂蘭盆会は広く日本の習俗となった。
  「嗟非翅(ああ、つばさにあらず)」。この「翅」に対応する言葉が前後に見出せず、ヤマ勘で死者が天上界に昇るのは翅によるのではなく衆多の供養によると解した。
 13行目の「能所」は思弁の場合働きかける側と働きかけられる側の二面を言う。仏家の用いる「能化(のうけ)」「所化(しょけ)」は菩薩と衆生を指す。
  「求願(ぐがん)」は極楽往生への願いと解した。「後来」は「将来」。
  「若干」を現代では「少しばかり」の意味で用いるが一でもあり十でもある不定数のことで「たくさん」の意味に使う場合もある。
 14行目の「現当」は現在と当来(将来)の二世(にせ)。
  月舘町史の記述は「因」の上にある「福」の字を欠く。
  「不亦…乎(また…ならずや)」は定型句。
 15行目の「旹」は「時」の古字、川俣像では「時」になっている。「于時」は「ときに」と読む。
  「正徳五年」は1715年、「吉辰(きっしん)」は「好日」の意味。「年」の字を川俣像は「季」とする。
 ついでの話、私はこの鋳物師の名前が読めない。「斎藤別当 勘左右衛門尉(かんぞうえもんのじょう) 藤原良實」この方は斎藤勘左右衛門爺さんだろうか。「別当」は多義あって高家たる斎藤家で家宰を勤めている勘左右衛門爺さん、又の名が藤原良実さんなのか。「尉(じょう)」は判官か翁、先祖は蔵人や検非違使だったと表明しているのか。家系の始祖は藤原鎌足や秀郷と誇示して藤原名乗りか。隣にお住いの方から斎藤さんと呼ばれたか藤原さんか、この方の子供時代の呼び名はカンちゃんかヨッちゃんか、それがわからない。教えを乞う。

 奥州安達郡渋川村、火断木食上人月照海、男女一万人を勧化(かんげ)し、金胎(こんたい)両部の大日尊像を造立(ぞうりゅう)せんと誓願す。
 然るに余は素(もと)より清貧、志有りても無力、短臂の痒処に及ばざる如し。之に依りて一文銭を一万人に募り所志を遂げんと欲す。
 化冊(かさつ)を手に携え諸方を周旋すれば則(すなわ)ち有志の士女、資財を抛(なげう)ち余が願いを助くること夥し。是故(これゆえ)両部の鋳造不日にして成る。
 金界、奥州安達郡渋川村に安置す。
 胎界、同国伊達郡川俣村に安置す。
 古師の謂う所「一縷(いちる)制象す能(あた)わず、必ず多絲に依る」と。
 嗟(ああ)、翅(つばさ)にあらず。能所が求願(ぐがん)は耳に満てり。教えは後来若干(いくばく)も有縁(うえん)の人へ現当福因を殖(ふ)やさんこと亦(また)大ならずや。
 于時(ときに)正徳五年乙未十二月吉辰

 銘に刻まれた金剛界胎蔵界の配置が渋川と川俣で逆になっており、その原因を空想すれば口留蕃所での取り違えが浮かぶ。
 像は台座が下向き蓮弁と上向き蓮弁の二段重ね、それへ仏体が乗り、頭に五仏宝冠を載せる。後ろに輪光背、部品数なら5になる。冠や光背は人が背負うこともできようがおそらくそれぞれを薦包みにして牛馬に載せるか荷車を牽かせるかしたであろう。海岸沿いの中村城下から阿武隈高地へ登る。差配は塩商人が請け負ったかもしれない。国境の番所では荷改めが行われ薦を解く。再梱包の折に行き先である川俣と渋川の札を刺し間違えたなどはありうる話になる。川俣で一体分を下ろし、そこで胎蔵界でないと気づく人がいれば良かったけれど知識を持つ人なく胎蔵界像は渋川に運ばれた。渋川の月照海上人が「まあ、ええよ」と言ったかどうか、像の再配置は行われず現在に至っている。
 上人の本拠地が渋川ならば川俣にも有力な支持者が居たのだろう。現在では川俣と渋川に接点はないけれど天保の頃に下手渡藩主となった立花氏の参勤交代ルートは小島、羽田、西飯野、小沢を経て二本松の奥州街道に出る。その小沢が渋川村。当時は幹線道路に準ずる一筋道があって人と物の往来があったと見る。
 『小手風土記』成立の1788年はすでにこの像が置かれていたはず、しかも三浦甚十郎氏の住居から歩いて五分の大日堂記述は「唐銅大仏也寛文元辛丑鋳所也」となっているのがわからない。
 月舘町史によると月照海上人は九州の生まれ、天台宗の羽黒ではなく真言宗湯殿山で修行し、山を下りてからも木食を生涯続けた一世行人であったという。
 また「伝承では」と前置きし月照海は相馬の殿様の病気治癒のため千日祈願を行ない効験の礼を受けて大日像を建立したと記す。従って銘に並ぶ寄進者名で相馬人の名があることや中村城下の鋳造である説明になる。ただし秋山の小蓰王祠にある梵鐘も相馬の鋳物師によるもので小手郷には大型の鋳物を造る職人が居なかったとも言える。
 寄進者名には「霞春童女」「初夏童子」「妙松信女」など法名も数多く、この大日像が追善供養として造立されたことが窺える。
 とまれ上人の行動範囲は広く、享保六(1721)年には十万人講を立ち上げ二本松の薬師堂に宝篋印塔を建立し、享保八年は本文にある清浄庵と寿福院の鐘を造っている。没年は元文四(1739)年、墓は渋川にある。

*10「龍樹」は西暦200年頃のインド僧、空(くう)の観念を整理した。海中の竜宮から『華厳経』を持ち来たった説話もある。
 「日羅」は伝説の人。この書では大唐とあるも『日本書紀』では敏達天皇百済から招いた高官であり日本で暗殺された。聖徳太子伝説では百済の高僧、日本に三つの寺を建立している。それがいかなる理由か愛宕山伝説では天竺の人に変り魔王の仲間入りをしている。『都図会』が「一説には天竺の日羅、唐土(もろこし)の是界(ぜがい)、日本の太郎坊、この三鬼は衆魔の大将なり」と記したのは『阿多古山縁起』か『愛宕山神道縁起』の文であろう。『日本書紀』の記述ではその身から光を放ったという。
 「闘諍」を活字本は「闘浄」と誤記。
*11「戌」は「戊」。
*12「大徳院」を活字本は「大法院」。
*13「以柏」の「以」に(似)カと脇注。活字本は「以白」、一統は「一拍」。
*14「伝女石」は「傳女石」の筆記。その「傳」に(待)カと脇注。
 @1と@2は専と寺の草字体。
 「傳」の字を活字本はすべて「傅」と誤るもこの文字に関しては「傅女(いつきめ・もりめ)」と解することもできる。「でんじょいし」ではありえない。
*15「葛」にクもしくはカと読める送り仮名あり。一統は「ツタ」とルビする。また「後ろむすひや」を「後ろむすぶや」。
*16「水舟老人」の「舟」に(叉)カの注。活字本と一統はともに「水母老人」とし、戯れ句作者の名前ならクラゲ老人が合う。また一統は「苔の華」を「こけのあな」とするがそれは無意味。
 座頭石から傾城石までの三句について私見を述べる。
 中の句「傳女石の後ろむすびや葛の節」、その「傳女石」の「傳」は人偏を書写子が付け足したと勝手に解釈し「專女(とうめ)」と読んでみた。老女のことであり「伊賀専女(いがとうめ)」の語もあるように古狐をも意味する。前の座頭石の句「笑ひには探る手もあり夜の石」、これは暗闇を手探りで進む夜這いの句、それを受け、娘目当てに忍んだところ床にいたのは婆さんだったとの滑稽。「後ろ結び」は帯のことで堅気女の意味、そして「葛」の文字、「恋しくば尋ね来て見よ」と歌った信田狐(しのだぎつね)の葛の葉姫に繋がる。「節」は結び目の「ふし」と節義の「せつ」どちらでも読める。次の句「嘘や買ふて傾城石に苔の華」は(石が苔むすほど末永くあたしの心はあんただけ)と女郎の起請文を真に受け散財する男、「苔」は「虚仮」の掛詞。この三句は連句として成り立っており洒落本隆盛の天明期らしさがある。ついでに言えば中の句の作者「蔵六」の名、これは頭と尾と四足を甲羅の下に埋める亀の意味、したがって亀六氏かもしれない。
*17@は一の下に女、活字本は「一女」とする。意味不明。
*18「筆」に(革)カと脇注。活字本は「片草」。
*19「倫」の字は活字本から。現在の無垢路岐山(むくろぎやま)。
*20「貞治(じょうじ・ていじ)」は北朝後光厳天皇の年号。貞治六年は1367年。
*21『信達歌』は天明六年熊坂台州著。
   一統では「利」を「剥」、「宇」を「字」。歌の一字が石の剥がれによって読めない、惜しいことだの意味ゆえガリ版本の誤り。
*22「正儀(まさのり)」は楠正成の三男。
*23「隻」を一統は「見」。相見る。(我が信達の地でも既に北朝を正統と見る人が多くなったようだ)の意味。一統の文が優る。
 誰もが声に出して読めるようにするのが趣旨ゆえこの碑文も読み下してみる。
 『信達歌』に云う、剥蝕一字存せずして惜しむべし。按ずるに北朝の貞治六年はまさに南朝正平二十二年なり。この時、南朝の将帥新田公楠公及び義興らすでに戦死して唯正儀存(ながらえ)てあり。わが信達間の如きも既に北朝を正朔と奉ずる者、もって相見る時勢なるべし云々。