路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする24上手渡村

 24、上手渡村(かみてどむら)
一、[小手十九社]甑敷(こしき)大明神 渡部薩摩守(*1)
 祭所 天児屋根命なり。久代甑敷内より光輝きて託宣あるによりて鎮座すと云々。この手渡村にて今に甑敷を用いざるはこの謂れなりとぞ。
 遠鳥居[松二本有り] ここを鳥居所と字す。
 階五枚 石鳥居 石額 小志貴宮
 銘に曰く 安永四年[乙未]建立 渡部薩摩守
 拝殿[二間に五間]掛作り 階十九枚
 本社 祭礼三月十九日
一、麓山大権現
一、秋葉山大権現
一、地蔵堂 小手地蔵詣三十三番 立石 [地主]作兵衛(*2)
一、道祖神
 猿田彦命 伊勢国度会(わたらい)郡 大土公の神社を移せしと云う。(*3)
一、観音堂 小手廿九番札所 するすの田(*4)
  音もせずひくかあらぬかするすの田なのみも米の大悲なるらん
一、地蔵堂 小手地蔵詣三十三番[するすの田 地主紋右衛門][観音堂地内]
一、月読宮(つきよみのみや) 長屋
 祭所 月読命 土俗、お月の宮と唱う(*5)
 伊勢国度会月読社、また山城国葛野(カドノ)郡月読社を松尾の南に遷すよし文徳実録に出でたり。文徳天皇御宇、仁寿三[癸酉]年、疱瘡大いに流行し諸人これを愁う。この時当社の神託ありてその害を救い給う。是よりして貴賎疱瘡の災(ワザワイ)を免(マヌカレ)んためこの社に詣で神のたすけを祈るよし三代実録に有り。(*6)
 当社の勧請いつの頃という事不詳。
  影見れば秋にかぎらぬ名なりけり花面白き月よみの森
一、番匠内 小屋(*7)
 嘉祥年中、山蔭公春日大明神建立の砌、ここにて材木を切り、杣取(そまとり)木挽(こびき)の小屋掛けたるによりて字(あざ)を小屋と云い、大工の居りたるところを番匠内と云うと言い伝えたり。
一、地蔵堂 小手地蔵詣三十二番[番匠内]地主権右衛門
 南ヶ作 六角 冬室 経塚 谷本
 聖帰り あるひぢり、家有る事を尋ね得ずして帰りしゆえ名付くと云えり。一説に聖還俗(げんぞく)してここに住みたるゆえ字(あざ)とすとも云えり。(*8)
一、稲荷宮 舘石と云う大石有り 織姫御前
一、地蔵堂 小手地蔵詣三十一番 舘石
一、秋葉堂 惣善宮(*9)
一、庚申碑
 比叡山の三猿堂、伝教大師天台の不見不聞不言を以て三諦(さんたい)に表わし土の猿を作り給う。不見不聞不言(みず、きかず、いわず)の和語を以て猿の形とす。
 また申の字儀も有り、所々の庚申の碑にこの形を祭るは申(さる)の謂(いい)なりとぞ。
  見ず聞かずいはざるまではつなげども思はざるこそつながれもせず(*10)
一、舘跡
一、元禄九[丙子]年、室七郎左衛門様御支配の節、上下両村に分る。(*11)
一、村高 五百六十八石二斗三升四合(朱書)(註1)
一、六十三騎 二百五十石 斎藤又右衛門(註2)

註1,2 いづれも後に書き加えられたものである。村高の方は朱書である。

*1「甑(こしき)」は蒸し器。「渡部」を活字本は「渡辺」。一統「甑敷宮…所謂春日大明神なり」。
*2「三十三番」を活字本と一統は「三十一番」。また、数行後の「地蔵堂 舘石」は繰り返し。
*3「大土公」は「土公神(どくじん)」。陰陽道の土の神。一統は「土」を「工」と誤記。
*4「するすの田」の地名は現在「摺臼田(すりうすた)」。
*5月読尊は天照大神の弟。太陽神と月神の間柄はギリシャ神話と逆。古代の発音は「つくよみ」、「読」は数えること。
*6この文は『都図会』「月読社」から引き写し。活字本は「祈るよし」を「祈るより」と誤写。なお、『三代実録』仁寿三年の項にその記述なし。
*7「番匠内」と「小屋」の現在地名は「馬城内(ばじろうち)」と「古屋(こや)」。
*8「聖帰り」の現在地名は「聖ヶ入(ひじりがいり)」。「家ある事を尋ね得ず」では文章として不十分、一統は「坊家ある事を尋得ず」。
*9「惣善宮」の文字、ガリ版本に無し。一統は「総善宮」と書く。
*10この項、菊岡沾涼『諸国里人談』「三猿堂」から引き写し。ガリ版本と活字本は「三諦」を「三蹄」と誤記。一統は見ず聞かずの歌のあとに「聞けばこそ喜しくもあり腹も立ち聞かざるは実にまさるなるべし」と置き洒落ている。
*11元禄九年は1696年。