路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする26小嶋村及び奥付

 26、小嶋村(おじまむら)及び奥付
一、[十九社内]植田社御霊宮 神主菅野因幡
 御手洗、その滴り数反の公田を潤す。
 鳥居 階十二枚 長床
 本社 祭所 天御中主命(あまのみなかぬしのみこと)(*1)
一、薬師堂 近年梅松寺となる 地主高橋源右エ門
 三州鳳来寺峰の薬師を模し二菩薩十二神を安置す(*2)
 御服籠りは伝教大師の御作四寸八分の尊像なり (*3)
一、内宮外宮
一、熊野三所権現
一、深海地蔵堂 地主高橋弥兵衛(*4)
一、平内 加老(*5)
一、伊豆大権現 地主高橋小兵衛
一、狐石 四角なる石なり 下にうつろあり
一、天の逆石(アマのジャクいし) 石面に手のひらの跡あり
一、南 大槻あり
一、古賀坂堤
一、古内
一、地蔵堂 地主高橋伝右衛門
 古川備後と云う人居たりしとなり。今に城形わずかに残れり。仙台へ行きて高三百二十八貫三百九十八文、加美郡宮崎村所拝領して代々住すと云々。(*6)
一、皀樹(サイガシ)橋(*7)
 加老深海の流れここに落ちて小手川に合す。
一、小志貴宮
一、細橋堤
一、池ノ入 古舘[何人の居たるという事知らず 八幡宮あり 古舘の鎮守なりと云い伝う]
一、虚空蔵堂 修験 大善院
 往昔ある僧都、虚空蔵求聞持(こくぞうぐもんじ)の法を修せんとてこの山に一百日参籠し給う。五月ごろ皓月西山に隠れ明星東天に出る時、前川に閼伽水(あかみず)を汲むに光炎頓(とみ)に輝きて明星天堂の内に来影し、忽ち虚空蔵菩薩と現れ給うと言い伝えたる尊像なり。(*8)
 いにしえは五月十三日なりし縁日を近代三月廿三日に移したるとなり。
一、橋本橋
 池ノ入[岩屋あり二間四方程の岩穴なり 往古蝦夷住みけるとや]
一、壁屋橋
一、舘 梅松という人の旧地なるよし言い伝えたり。伊達俊宗の子か是非を知らず、後人猶考うべし。この舘の北にて手渡川小手川に合す。(*9)
一、熊野宮 菅野因幡
一、佐須奈辺稲荷大明神 舘の鎮守なりとぞ(*10)
一、念仏堂 京都知恩院末庵
一、上ノ橋
一、下ノ橋 両橋の間小嶋町駅
一、名号碑 六地蔵
 橋 階
 門 額 梅松寺
一、経塚山梅松寺
 当寺の旧地は上ノ橋より南に古碑あり、南無阿弥陀仏の六字も中は埋りて見分らず。その後今の地に移る。山号も梅松山と云いしに近代経塚山と改む。
 客殿の東には異石怪樹をならべ庭中に造化四時の風光玄妙にして比類なし。
 宝物石摺の観世音、我が朝に三幅渡りしその一ツなり。懐妊婦人産所にこの御影を安置すれば必ず安産ならしむ霊験あらたなり。(*11)
一、大乗妙典六十六部供養石 [願主]新関氏茂兵衛建 享保元[甲辰]年南呂(なんりょ)吉祥日(*12)
一、階十五枚 左に名号石[無能筆]並杉数株あり
 右に古碑あり銘は星霜ふりて見えがたし 階八枚
 地紙形(じがみがた)の手水石五輪あり、そのほか古碑多し。(*13)
一、阿弥陀堂[五間四面] 額往生山[福王@@筆](*14)
 四面に茂林脩竹ありて幽閑なる地なり。往古は安倍宗任の開基にして七堂伽藍巍々たりと云々。
 朝変暮化の世々山かたぶき谷埋れて其所々々も少なからず、阿弥陀堂の旧地は田の字(あざ)となり中御堂と唱いて印の榎あり。(*15)
 この寺の鐘、兵乱によりて伽藍回禄の後、木幡山へ賊徒等盗み取りて逃げ行きけるに俄に雨風激しくこの鐘自然に声を出して小島恋しと響きさまざまの不思儀ありけるによりて木幡山より当寺へ返せしと申し伝えたり。(*16)
 真言宗安養寺瑞光山と改む。この尊像は伝教大師の御作、一寸八分の尊像なり。
 当寺の鐘の銘に曰く
 奥州伊達郡小手之郷小嶋村往生山安養寺 願主別当法印大僧都実諺 享保三年[戊戌]春三月四日(*17)
一、亀岡山と云う 仙台へ移して亀岡八幡宮と崇め奉りぬ。往昔伊達俊宗公勧請にして深く敬い信仰ありしとや。
一、八幡宮 自然の大石数多有り
一、太郎坊山
一、御林
一、中嶋 道場 岸波
一、梅松宮
一、三百田
一、寄居館 伊達俊宗の居城なり
 御壺松 古墳なりと云う。今にこの松の根に手を入れれば腫るるとなり。
 御檀松 藤原俊宗古墳なりと云う。ある年、この塚をあばきて金銀を得たる人有り、即時に興隆寺回禄に及びしもそれゆえなりとぞ。(*18)
一、観音堂 小手三十番札所[九尺四面] 如意輪観音菩薩(*19)
 松山なり古木の桜あり
  慈悲の舟おしまに寄居万代もまふて来る身を松のむら立(*20)
一、蠶神(かいこがみ) 祭所 倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
一、比丘尼帰り 正徳年中ころ義縁法印とて蕭然と山居の僧有り。小手三十三番札所の観音の御詠歌作者なり。
一、修験 妙香院
一、反田(そりだ) 中屋敷 上平(かみだいら)
一、小嶋山興隆寺 階
 本尊は釈迦仏を安置し文殊普賢左右にす、大権(だいごん)達磨を脇檀に安置す。
 開山大檀那 伊達藤原俊宗
一、稲荷宮 興隆寺鎮守宮なり
一、冨士大権現
一、岩久
 いにしえこの地美良なりといえども水少なくして土地の利を尽すに不足たり。小手川の流れをここに更(かえ)んために岩をくりぬきて水を引寄せ田地に注ぐその功大なり。何人のなせる事か知らず。よりて岩くると云いしを下を略して岩くと唱う。(*21)
 古ヶ坂の流れこの下にて小手川に合す。
一、十三仏 一風和尚建立
一、観音堂
一、秋葉堂 天明元年建立
一、岩久橋 道平(どうたいら) 葭之内 狗石 内野山
一、御林 上杉中納言御領分の時、鷹を取りて米沢へ上げれば、鷹の住む所ならば深山たるべきとて御林となるとなり。寛永十六年己卯 山守 甚四郎。(*22)
一、修験 大中院(註2)
一、田代 @沢(*23)
一、地蔵堂 小手地蔵詣第三十番 地主 弥左エ門
一、蛇塚山(註3)
一、麓山大権現
一、阪 瀧 茂庭 新関 @股橋 細越橋[ここに石馬と云う石有り](*24)
 唱名橋 唱名 川の岩瀬に音高く白波みなぎりて太鼓などのように聞こゆるとぞ(*25)
一、地蔵堂 小手地蔵詣第廿九番 地主 甚四郎
一、六十三騎 二百石 左藤藤兵衛
一、小手の庄東にあたる村なり相馬領境
一、村高 千五百十四石五斗三升六合(註4)

註1及2一統「妙香院大善院大中院 各修験者 同郡大久保邨貴見院配下」
註3一統「むかし此山に大きなる蛇住みて人をなやましけるを麓山権現地蔵尊の御加護を以て其大蛇山中に埋めしとかや。故に此神仏を祭れると」
註4村高は朱書。後世加えたもの。

 時々(よりより)四方山川の勝(しょう)を遍覧し、昔人の経蹟を尋ねてその由縁を詳記し、これを全くして名づけて小手風土記と曰(い)う。(*26)
 嗚呼(ああ)聆(きく)、左思の博才だも蜀都の賦に歴年たりし所を況(いわん)や予が撰、年を渉(わた)らず、寡聞浅識、何(いつか)その耻(はじ)を雪(すす)がん。後の君子の遺漏を正し澡洗(そうせん)を俟(ま)つのみ。仲春廿一日、此君庵に於て書す。旹(とき)に天明八年なり。(*27)
  伊達郡又水駅 撰者 平義陳(*28)
  川又 渡辺弥左衛門

(註)猶常泉寺所蔵の「渡辺嘉兵衛本」の奥書は左の通りで、復刻の底本となった「弥左衛門本」より写したことが記されてある。
「原本虚字誤文多是ヲ改正ス可キトコロ予も不孝短才不解三ヶ所多者其儘に写す見る人予カ字誤と誹(そし)ることなか連(*28)
 明治十八年六月 渡辺嘉兵衛君た免
         青々写之
 元渡辺弥左衛門所有なるを金子青々君をして写之 渡辺嘉兵衛所有」とある。
 猶、註に「一本に」とあるのは嘉兵衛本をさす。

*1「天御中主神」は高御産巣日神神産巣日神造化三神の第一、宇宙存在そのもの、仏教なら大日如来の格か。頭や手足を持った個体としての姿形はない。『古事記』は「この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)と成りまして、身をかくしたまひき」と述べる。『日本書紀』では国常立尊(くにとこたちのみこと)、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)の三神、「乾道(あめのみち)獨(ひとり)化(な)す、所以(このゆえ)に此の純男(をとこかぎり)を成せり」と記す。
*2「三州」は参河国(みかわのくに)。薬師瑠璃光如来は日光月光の両菩薩を脇侍とし眷属の十二神将が並ぶ。
*3「御服籠り」の意味不明。一統はただ「本尊は」と記す。
*4「深海」は地名。住所表記では「ふかうみ」と記すも地元の方は「ふこみ」と発語する。
*5現在地名は「平四郎内」と「我楼」。
*6「古川備後」は「古内」の誤りだろう。「城形」を活字本と一統は「堀形」。
  一統は「古内館 舘中地蔵尊を安置す」。また一統は古内備後の所領を「三千二百八十石」と記すも一村でその石高はありえない。
*7「皀樹」は「皀莢(さいかち)」のこと。

*8この文は『都図会』「智福山法輪寺」から引き写し。
*9「伊達俊宗」は掛田城主懸田俊宗のこと。16世紀半ば、伊達家の稙宗と晴宗親子紛争天文の乱では稙宗側で働くも天文二十二(1553)年、家臣桜田親子の寝返りに敗北し斬られた。
*10「佐須奈辺(さすなべ)」は把手と注口のある鍋、酒を温めるのに用いる銚子(さしなべ)のことだろう。
*11「石摺」とは拓本。どこの観世音かは不明。
*12享保元年は丙申、1716年。「南呂」は旧暦八月のこと。「吉祥日」の「祥」をガリ版本は「拝」と誤記。
*13「地紙形」は扇形。
*14@@は米偏に全と、「沓」の字の日が田になっている文字。
*15「朝変暮化」の「暮」と「中御堂」の「御」を活字本は「普」「郷」と誤記。
  「其所々々も少なからず」を活字本は「其所々々もすくならず」とさらに変な日本語、一統が「其所も定かならず」としてまともな日本語。
*16「回禄」は火災の事。「雨風」を活字本は「南風」。「不思儀」を活字本は「不思義」、一統は「不審議」。これは「不思議」でかまわない。
*17僧都名「実諺」を一統は「実誘」。「戊戌」をガリ版本は「戌戌」と誤記。
*18「回禄」を「回録」と誤記。
*19「菩薩」は二文字を一字にする草冠を二つ重ねた略字体の筆記。編集者が(尊)カと脇注したのは誤り。
*20声に出して読めば「じひのふね おじまによりい まんだいも もうでくるみを まつのむらだち」。
*21「岩くる」は「岩刳る」。現在の地名表記は「岩阿久(いわご)」。
*22「寛永十六年」は1639年。
*23@は金偏に内を縦に二つ並べた文字、(濁)カと脇ルビ。これは活字本の「鍋沢」が正。
*24@は月偏に夾。活字本は「膝股橋」。現在地名に「房又」があり、「総股橋」ではないかと推測する。
*25「唱名」を活字本は「唱石」、一統は「鳴石」。太鼓のように聞こえるなら「鳴石」が正しかろう。
*26この奥付は『都図会』の後記を写した文。書名、住居、年月を変えている。
*27「嗚呼」の「嗚」を活字本は「鳴」。これは筆記における筆の滑りでよくある誤字。
  「聆」は「聴」と同義、ガリ版本は「キリ」と誤ったルビ。
  「博才だも」の「だも」は何々でさえもを意味する副詞。(晋の人、博学の左思でさえも十年の歳月をかけて『三都賦』を完成させ洛陽の紙価を高めた。比べ菲才の私は筆耕とて一年にも及ばず、遺漏誤りもあろうし、いつか汚名を払いたいものだが後世の方々、誤りを正し欠を埋めてくださらんか)の文意。
  「此君庵」は活字本金子氏の筆記も「此」。「此の君の庵に於いて書す」として三浦氏は渡辺弥左衛門宅で筆耕を終えたの意味にとることもできる。しかし三浦氏の俳号「比君庵真丹」によるであろう。これは芭蕉庵桃青に模した名の構えで「びくんあんしんたん」と読める。「びくん」は「微醺」、「丹」は赤色、名の意味は「酔っばらって真っ赤」。
  「旹」の文字は「山レ日」を縦並べした不明字、現代では使われないので編集者も迷ったと見える。
*28「予も不孝短才不解三ヶ所多者其儘に写す」を活字本は「予も不学短才不解のケ所多は其儘に写す」。「の」は「之」の筆記。ガリ版本の編者は「学」を「孝」、「之」を「三」と読み誤った。

 「誹ることなか連」を活字本金子氏の筆記は「咎ることなか連」。「咎る」は「とがむ(め)る」「そしる」どちらにも読む。これだけ誤字と誤記の多い書冊を書き写したのだから金子氏の愚痴も正当ではある。(誤字があったってボクチャンの責任じゃないもんねー)の態度。これは現代も町のホームページに文献から誤字をそのまま写して注も置かず平然たる役人と同じ態度になる。
*29「平義陳」。活字本の解説によると三浦甚十郎氏の三代後が幕末期にぶ厚い家系図を書いており、筆頭は桓武天皇の子葛原(かづはら)親王とのこと。ゆえに桓武平氏の名乗り、「義陳(よしのぶ)」は字(あざな)。

 嗚呼聞く、博才の左思にして大著『三都賦』を完成さするに十年要せしを。我が菲才この小記に筆染めてより一年有半を過ぎたり。原本の誤字と誤記その八割は指摘しえたりと自負せしも却りて我がなしたる誤字誤記入力ミスまた多かるべし。後の人の澡洗を俟つのみ。季は旧暦元旦、歳は令和五年なり。破牆傾柱の陋居に之を記す。
   川俣町住人 佐藤幹夫
   日本では神も仏も八百万 凡脳

 と、まあ奥付まで書いてしまったもののまだ下書き、すでに加筆訂正したい箇所が二十ほどあり、その後ワード文書に落し込みプリントしてようやく知人に渡せる形になる。たぶんひと月後であろう。