路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

廃堂再訪再再訪、及び赤城神社

イメージ 1 昨年11月、スミレの記事に併せ天井画のある堂宇の写真を載せた。
 この堂は峠を下りたところ、広い田は作れない谷間に二十軒ほどが点在する小集落にある。昔からほとんどの家が養蚕をしていた。
 今年1月半ば、そこを訪れた方から、堂には松飾りもあり現役かもしれない、また大正時代の絵馬もあるとの通知を頂いた。私が昨年訪れた折は床に砂礫と埃が堆積し中に入らなかった。信仰心は持たないけれど土足で堂内に踏み込まない程度の礼儀心はある(にもかかわらずなぜか多くの人から礼儀知らず恥知らずの評価を得ている)。
 そこで1月29日に訪れ中に入った。砂礫はない。ただし、床板を破らないよう釘を打った部分に足を置くそろりの歩行。
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 奥に本尊があり左に絵馬が掛かっている。大正八(1919)年の日付、その前年は各地で米騒動が起き、この年も物価が乱高下し、朝鮮半島では独立運動あって日本軍が鎮圧。現在、沖縄で独立運動が起きたら政府はいかなる対応をとるか、空想は飛ぶ。
 折紙細工とビーズを瓔珞状に垂らした新しい飾りがある。頭は百円ショップのプラスチックハンガー、ゆえに廃堂と呼んだのは私の誤り、集会所の意味は失ったけれど信仰の上でまだ現役になる。

イメージ 4 本尊右側の壁に堂の改修費を負担した人たちの芳名板が三枚並ぶ。
 上は「彩色屋根替」明治四四年四月。中は「地蔵尊堂宇 備?費寄附芳名」大正十二年十月。下は「屋根替寄付」昭和三五年。よってここが地蔵堂とわかる。


イメージ 5 中の芳名板末に「合天井 画師 富田村大字小神 松本巳代治」他、大工は小島村の高木末四郎、屋根職は小神の氏家亀次郎の各氏。
 この芳名録中の人名と各絵の左下に記された名が数人一致し、絵は大正十二(1923)年の作と確定できる。この年9月は関東大震災があった。

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 絵の質は意匠描法においてさして高いものではない。こんな言い方をしても私自身は絵を描けない。ただ地元に絵を描く人がいてそれを喜ぶ人がいる、それは文化といえよう。

イメージ 8 中央にある絵は龍、この写真では墨が薄くなって判読できないけれど「地主 藤原新五郎」の記名あり。「松本さん、おれ、辰年なんだ、龍を描いてくんねえか」と頼んだかもしれない。




 多くが花鳥画の手本を真似た筆法であり、題材は蓮、菊、水仙芍薬、果実の柿、枇杷、葡萄、鳥では鷹、山鳥、雀、鵯、さらに月に雁、楓に筒鳥のような絵柄もある。また兎やミミズク、玉蜀黍を齧る白鼠、人物像では蝦蟇仙、寿老人、宇治川先陣を思わせる武者絵もある。それらに比して少し上質と見えたのは滑稽味の次の三作。

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 立花(りっか池坊では「たてばな」と読む)の薀蓄でも語りながら得意の旦那に(いや、そこを切っちまっちゃあ)と呆れる客。次のは、花てえのはこれこのように筆を使うのがよろしいと自慢の絵師に(ヘボ絵師が、見れたもんかい)と客。この絵は自身を戯画化しているかもしれない。三番目、鼠に逃げられた間抜け男。子供が餌の上に伏せた笊の片方に紐を結んだ突っかい棒を立て、雀を取る遊びがある。その要領で桝を用い鼠を捕らえたか。夜中、鳴き声してまんまと鼠が掛かった。手に捕まえようと桝の片端を持ち上げたところで脱兎の如く鼠は跳び去る。「アチャーッ」と落胆の男。はだけた寝巻きに褌も露わな姿勢、そして逃げ去る鼠の距離の間合いが程よく描いてある。絵師松本氏の本領はこれかもしれない。ただし、いかにも江戸期滑稽本の挿画にありそうな題材ゆえ模倣か創作か判断する知識を私は持たない。

 絵には一枚ごと施主の住所氏名が墨書してあり大正期の行政区分がわかる。富田村大字鶴沢、福田村大字羽田、飯野村大字西飯野、小手村大字上手渡、小手川村大字御代田など、その範囲は川俣町より広く、隣接する月館飯野を含んでかつての小手郷と重なる。
 絵を見ながらなぜ向きがバラバラなのかとの疑問はあった。もし私が堂建築の指図者なら絵の上を本尊に向ける形で揃えるだろう。ただし飯館の山津見神社天井の狼絵も向きはバラバラだけれど。

 その日家に戻り、いつものように酔い寝て夜中三時に目覚め、枕元の本へ手を伸ばしたその時に閃いた。絵の向きは施主の住まいを向いているのではないか。これぐらいその場で気づきそうなもの、おれはどこまでバカなんだと情けなくなる。
 里山歩きに東西南北同じ方角へ二日続けて行くことはない。常なら四日後なれど気掛かりを放置するのも精神衛生に悪いとて、30日再再訪した。

 推測は誤りだった。同じ地域の施主でさえ向きは違う。なぜか。
 堂の入口に腰を下ろし、一合ちょっとの酒を飲み、握り飯を食う。見上げると梁の木材は柱より新しい、合天井(ごうてんじょう、格天井とも書く)の角材も同様、これは昭和35年の屋根替にがさつな職人がでたらめに載せたのかもしれない、と新たな推測をする。

 以前、町の春日神社を調べた際、宮司だった方の記述に、木彫の動植物には平和への願いが込められているとあった。しかし私は感覚の鈍いたちで大きく構えた寺や神社に平和への意志と願いを感じることはない。よしやそこに平和への願いがあったにしてもそれはおれらの平和、党派の平和にすぎまい。攻撃を受けたらすぐ反撃の用意があるぞとの威嚇の構えを持っている。(このことは後日再び述べるかもしれない)
 較べて、この地蔵堂のような、地域の生活内にある小さな堂宇においてこそ平和への意志と願いを強く覚える。私らが平和でありあなた方も平和であるようにとの願い。


 この堂から田圃一枚隔てた奥に鳥居がある。以前、青面金剛を捜して以来、寺や神社、堂宇、祠、石碑があると必ず立ち寄る習慣ができた。29日に気づいていたけれど他の用事あって帰りを急いだ。そこでこの日に立ち寄った。
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イメージ 14 赤城神社。川俣では初めて見る。内部は耐震補強が施され、折紙細工の飾りがここにも奉納されていた。





 傍らの家の庭に女性の話し声があり、停車した車の中に人がいる。私は人相が悪いので普段なら女性に声を掛けることはしない。昔、道を聞こうと通りすがりの女子高生に「あのぅ」と声を掛けたら「キャッ」と悲鳴されたことがある。この日は酒が入っていた。悲鳴はされないものの驚かれたが、堂の絵の向きについて尋ねると、年齢差のあるおばちゃん二人、車から出てそれは知らないとのこと。「すぐ当主が帰ってくるから、ちょっと待ってて」。堂で飯を食べている時に軽トラがこの家から出て行くのを見た。簡単な買い物に出かけたか。
 おばちゃん達と立ち話して、年嵩の方がこの家の生れであり、瓔珞飾りもこの方が奉納したと知った。
 軽トラが戻ってきて、不摂生も露わなオヤジ腹の堂守当主、「今度おれがあの堂とこの神社見ることになった」。神社の耐震工事はこの方の仕事になろう。絵の向きがバラバラの理由を尋ねると、「知らね。おれら子供の頃、あん中で遊んだんだ。天井板バラバラ落ちてきて、子供だもん、意味なんか知らね、いい加減に戻した。結果があれ」
 疑問は氷解した。住所だの屋根職人だのは見当違い、それ以前に向きを疑問としたこと自体が見当違い、どうでもよい事柄に属していた。あるいは積極的にてんでばらばらを意図したかもしれない。疑問が解けるのは身体上の快感を伴う。堂守氏の言で久しぶりに笑った。天井板が落ちる遊びならボールでも使ったのだろう。
 赤城神社がなぜここにあるかも尋ねてみたが経緯はご存じないとのこと。「それは、調べます」と引き取り、「お茶飲んでがせー」との誘いに「おれは、酒のほうです」と辞して帰路についた。


 神社に祭られる神を私は土地神、先祖神、職能神に三別して個々の神名を特別記憶しない。仏教についても私の持つ唯一の知識は色即是空の教義のみ、他は比喩の絵空事としており、仏像も温顔と憤怒の二種、個々の仏名を記憶しない。そのつど調べそのつど忘れる。記憶に必要な脳みそが無いのだから仕方ない。
 さて赤城神社、山の名を冠した神社なら修験道を含むのが常で、ネット検索をしたところその通り、大沼神に千手観音、小沼神に虚空蔵菩薩、中央火口丘に地蔵菩薩があてられている(地蔵岳)。土地神の要素として水源神の意味も持つ。しかしこの神社の最も特徴的なのは職能、養蚕神の要素になる。今も里神楽に養蚕の舞が奉納されるとのこと。14世紀、南北朝時代の書『神道集』に一之宮抜鉾大明神は渡来系の神、元々の一之宮たる赤城大明神が絹を織るに生糸が不足し抜鉾に借りた、故に財の君である抜鉾を一之宮とし、自身は二之宮になったと縁起を記す。
 その赤城神社を創設したのは紀の国からやってきたやはり渡来系の豪族上毛野(かみつけの)氏という。土地の名も上毛野から転じて上野(こうづけ、現代仮名遣いではこうずけ)となる。今の群馬県。ついでに漢字の豆知識、陶器の上野焼は「あがのやき」と読む、これは福岡県。秀吉の朝鮮出兵の折、細川三斎が連れ帰った陶工による窯で後年家光の茶道師範小堀遠州の好みに適い七窯の内に入って名を揚げた。

 現在、赤城神社は関東に広く分布し東北では福島県に五ヶ所とウィキペディア記述、その一つが月館にある。旧小手郷の内、かつては糠田村の村社であり上記写真の赤城神社との距離は約二里、ゆえに末社と本社の関係になろう。
 以前春日神社を述べた中で、この地に養蚕と機織を齎した小手姫伝説のあることは記した。その小手子は崇峻妃、父は大伴糠手、糠田の地名はその名に依ると書くのは大正15年山根正一の『小手風土記人物誌』。小手姫と糠手が里に来て山桑の多きを見、養蚕に適した地なり、使いを上野に走らせ種繭を譲り受ける。以来、度々繭を或は蚕種を受けて恩顧の赤城神社を建てた、と言えば子供向けの昔話になろうか。
 なら大人向けの昔話はどうか。糠田村の養蚕家を訪れた赤木組幹部、「いい蚕種を持ってきてやる、春日組の下っ端でいるよりおれらの舎弟になれ、悪いようにはしねえ」「ほんじゃ今年頼むべか」かくして上野の蚕種は齎され、秋に糸市を立てるや数年の内に繁栄を見て赤城神社を勧請し傘下となる。赤城組はさらに信夫の大森にも歩を刻み、さらに亘理あるいは峠を越え出羽にも縄張りを拡張せんとの折しも大洞(だいどう)派と三夜沢(みよさわ)派の内部抗争が始まり拡大の野望は頓挫した。
 いや、この昔話は赤城山国定忠治を連想しての与太、養蚕家を貶める意図はない。そもそもバカな私はヤクザと国家の違いすら知らない。ミカジメ料と税金、縄張り争いと領土紛争、どこが違うのか。強いて違いを挙げれば国民と組員、人数規模の相違のみ。
 忠治ではなくやはり赤城山麓に生れた剣聖上泉信綱から起した別の空想もあるが略す。
 歴史上どこかの時代に上野国から蚕種を受け取ったかもしれないというのが私の推測になる。


 地理誌によると月館の赤城神社勧請は1204年、その頃は後鳥羽院がいて、摂政は藤原良経、関東公方の将軍が源実朝、日本のトップスリーが揃って和歌の名手だった時代になる。だからとて人々花鳥風月を愛で情緒纏綿温和な世だったわけではない。院は配流、実朝は暗殺された。
 とりあえずその神社を見ておこうと2月に出掛けた。

イメージ 15 一の鳥居、柱はコンクリート、笠木は文字通り木材、白く塗ったのは繭からの発想かもしれない。





 二の鳥居の狛犬は阿吽の配置が見慣れたものとは逆、向って左側に阿が座っている。プレートにはそれぞれ「国威発揚」「武運長久」の文字があり、皇紀二千六百年(西暦1940年)と刻まれていた。

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 本殿正面に幾つも奉納額があり、修験の山でお馴染み、不動尊が右手に持つ降魔の利剣(ごうまのりけん)を配している。
 私は信仰心を持たないゆえお尋ねしたい。憤怒顔の神仏に病魔退散や怨敵退散を祈願する場合、その神仏が敵をやっつけてくれることを願うのか、それとも、やっつける力を私に与えてくれと願うのか、どちらなのだろう。

イメージ 18 本殿の裏、並んだ石碑の中に「大物忌神」があった。享保元(1741)年。川俣町の春日神社本殿の改築と同じ頃、将軍吉宗の時代になる。大物忌(おおものいみ)は伊勢神宮で神の食事を司る。その神格化は五穀豊穣の願いになろう。大物忌神社は鳥海山そのものを御神体とする出羽一之宮、それが赤城神社にあるのは修験道の繋がりとも見る。

 修験道神道と仏教の合体であり、適宜、道教儒教も混じり陰陽道も。何教であれ人類史から見れば天地自然の理を解そうとする試みゆえ影響しあうことに不都合なく、真理真実へ近づけば良いだけの事。とは言えそれを妨げるのが党派争い。
 明治初年の廃仏毀釈運動は天皇を至上神として純粋化するため内部に食い込んだ仏教要素を排する運動であり、先頭に立ったのは各地の神主だった。木製仏像の頸や手首を落とし鼻を削ぎ、石像を割った。おそらくその折の神主たちに最も影響を与えたのは平田篤胤だったろう。それより先、賀茂真淵本居宣長が確立した国学の伝統にあるも私はその系統の書物を一冊も読んでいない。
 この方たちが古文の解読に多くの成果を挙げたことは承知している。しかし賞揚する大和心の根拠には偽書を正史と見、比喩を事実と解するなど砂上の楼閣が多く含まれる。明治5年、西暦での紀元前660年に皇紀元年を定めたのもその国学の流れを汲む幇間学者たち。
 紀元57年、『漢委奴国王』金印を受けたのは貿易港のボス猿、紀元200年前後の卑弥呼時代も集落の宗教的連合はあったかもしれないけれど国家と呼ぶほどではない。
 日本が国家の体をなしたのは7世紀、647年大化改新による国郡制、701年大宝律令による国郡里制を創国期と見る。
 東夷北狄西戎南蛮の中国人的思考法は大和朝廷にもあり、勢力範囲に収めた先端地に神社を建て官幣社とする。奈良朝から平安朝、その官幣社の分布によって大和朝廷の拡大を知る。神社を建てるのは、古くから中国商人華僑が外地へ出た場合、廟を建て集団互助会のコロニーを作るのと同じ意味を持つ。官幣社には格付けが加わり先に述べた赤城神社の内紛を起したりもした。

 名称を知らないゆえ個人的に御拝柱の突き出物(ごはいばしらのつきでもの)と呼んでいる木彫。
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 一般に唐獅子、獏、竜のどれかであり、例外的に春日神社の白澤(はくたく)がある。
 この唐獅子、通常なら横向きか正面向き、それを45度に出したこの形式は初めて見る。
 そして何より造形に力が漲っている。刻むべきは深く穿ち、膨らむべきは満ち、偶然か計算か、木目の模様がそれと調和しており、彫師の鑿は躍動したかもしれない。これまで見た唐獅子の中で最も優る。
 以上で赤城神社の項は終り、以下余談。


 春日神社の白澤について郷土史家高橋氏は「国内で唯一かもしれません」と述べている。さりながらこれは川俣町の福沢にある薬師堂。
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 右はあきらかに人面であり、額の窪みが三眼とも見える。これまた白澤ではないか。
 堂内には県指定文化財の平安期に作られた仏像ありというも本尊の座は空席になっている。しかし脇師、神将像がいくつかあるのがわかる。戸には鍵。

イメージ 24 堂の前に役の行者像、両脇は青面金剛、修験の色濃い薬師堂になる。かつては羽山信仰の拠点だった。町の文化財記録をざっと通覧したがこの堂の建造年をまだ見つけていない。




 弁慶が義経を守って奥州へ下ったルートは修験道者のネットワークを辿ったと以前何かの本で見た。弁慶の父は熊野の別当、そして弁慶が刀槍を蒐集していたのは彼らが金属加工業者の集団でもあったからという。江戸期の頃までいた渡り鍛冶は彼らの流れかもしれない。

 また誰も言わないのだけれど修験道は鉱脈探しを兼ねていたかもしれないと空想している。断崖から身を乗り出すだの滝に打たれるだの、その修行は露出した地層を見る動作でもある。その名も行者葫という植物がある如く、山野をひた歩きして生き延びる衣食住の生活訓練を仏教語に名を借りて行ったとも解釈できよう。ただし、本来の悟りを得べく修行の人があることを排除はしない。あるいはまた、商品輸送において領地を跨ぐたび口銭を取られるのを嫌い番所のない山伝いに物を運ぶ密輸仕組に関与したかもしれない。
 廃仏毀釈運動に壊滅的打撃を受けた修験道も、今まだ出羽三山や熊野から吉野金峰山へ至るルートでは観光客を集め続いている。この熊野から金峰山へのルートは順の峰入りと称しその道を開いたのは天台密教の聖護院(しょうごいん)本山派、逆峰コースは真言密教醍醐寺三宝院当山派とこれまた本で読んだ。聖護院のトップは代々天皇家法親王が立った。つまり権威筋。聖護院蕪千枚漬は好物だが何十年も食べていない。

 ところでまだ勘所が腑に落ちない一点がある。地理誌にとある村落の生活者として「家数五八(役家二二、肝煎・小走四、寺・山伏・神主・行人・脇家三二)。人数一六八」などの記述がある。では農民町民、普通の生活者は江戸時代、坊主と山伏と神主、この三者をどのように使い分けていたのか、それがわからない。
 「吾作んとこの下の倅に狐憑いたみてえでよ、泡吹いておがしねごとしゃべんだ」「ほんじゃ伝法院の行者様に拝んで貰わせ、護摩焚いてグゥギャアーなんてすごい般若声出すんだわい。あれで落ちっぺ」「ほうがい、んじゃ連れてってみっか」畑作物を携えていく。そんな空想ならできる。

 さてここまでお読みの方はなかろうとて最後に仏像写真を置く。
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 川俣町のとある堂宇の中、フラッシュが光ってしまいさらにサイズを小さくした見苦しい写真ではあるが、仏像素人の私でも、もしこれを骨董屋さん、もしくは泥棒氏が見たら涎をこぼすだろうと直覚した。私の直感はすべて外れだけれどそれはさておき、三十センチ程の小さな像、仏像は大きければ良いというものではない。山高きがゆえに尊とからず、川深きがゆえに立って泳ぐとは式亭三馬の言。とくに右側のツリー状(雛壇状)のものは曼荼羅を立体化したのだろうか、この意匠は初めて見る。さりながら堂の施錠は弱い。ゆえに堂の位置を尋ねられても回りまわって梁上の君子に届くのは避けたい、今はお伝えできない。町の文化財担当者に鑑定を提案してみようか、しかし役人とはしゃべりたかねえな、そんな葛藤中。
 とりあえずこのような像があるとの証拠として提示する。
 きょうはここまで。
 (3月27日追記)
 きょう持ち主からこの仏像について教育委員会高橋圭次氏の調査結果を見せていただいた。左の火炎光背像は軍荼利明王、右は冥界の裁判官である十三仏(二体欠落)と知った。