路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

怒りの葡萄の種

 皆様お馴染み、山のゴミの山。概ね舗装道斜面と脇道歩行50メートル内。

 舗装林道の斜面はゴミだらけ。
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 右下のは運転手が昼飯休憩をする県道ポケット部のガードレール越し斜面。したがってコンビニゴミが多い。


イメージ 5 何かのチェーンが見える。家庭ゴミではなく産廃物に属するだろう。


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 家電品、池の面にブラウン管。


イメージ 8 畑の傍に廃車。


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 こちらの廃車は人家から5百メートルほど森に入ったところに十年以上前からある。右の写真はそこへの道。横様に崩落などもある道で、もしこの車を撤去しようというなら道を直すのが先になる。


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 県道脇の堀にポルノビデオ。右は車のバッテリー。


イメージ 13 段ボール箱の中には生後間もない猫の死3。


イメージ 14 舗装林道のピーク部脇の林、この林床にゴミは写っていないが、地面の中にパチンコ台が3台ほど隠れている。十年前すでに半分埋れた状態であった。


 下の文は7年前地元の新聞『福島民友』へ投書したもの。題は6字2行、本文は1行14字、全400字の構え。

 大きな顔した
 赤ん坊たちよ

 文句は面と向って言いたい。
が言えない。過日の朝、家の前
に犬のフンがあり飼主の姿はな
い。卑怯(ひきょう)者だ。
 卑怯とは何か。自ら責任をと
ろうとしない心と振舞を言う。
身近な例はゴミ袋に名を書かな
い、あるいは袋の透明を無効に
するよう紙で覆う。名指され、
指弾されるのを回避している。
 見つからなければよいとの心
里山もゴミだらけ。家電品、
車の部品、コンビニゴミ……。
車のバッテリーは鉛と硫酸であ
り、すべての山は水源をも意味
している。
 県道原町線、人家のない町境
数キロは毎年雪解けの春三月、
ゴミが道の両側に帯をなす。車
からゴミを放る者達よ恥を知れ、
とは言うも無駄、現代ではその
匿名性と逃げ隠れの便利さで車、
電話、パソコンが卑怯者の喜ぶ
三種の神器だ。
 シモの世話を人任せにしてよ
いのは病人と赤ん坊。意識もつ
病人ならそのさい眉間に切なさ
を浮かべ、赤ん坊は喜ぶ。世間
には一人前の顔をした赤ん坊が
多過ぎる。


 確かに私は文章がヘタだけれど、この投書はその私が赤面するほどさらにヘタな文へ変更の上掲載された。題も「卑きょう者が多くてこまる」だったか、コピーも切り取りもしてなくうろ覚え。この新聞へは4度投書し、3度掲載されたがどれもこちらにすればヘタな文に変えられている。そこでもう一つの地方紙『福島民報』へ2度投書し1度掲載された。それまた肝心な語を抜き余計な語を盛った変更に読むこちらは恥ずかしい限り。皆さん、投書欄を読む際は編集者の変更があるとお含みを。十数年前、今は廃刊になった『噂の真相』誌へ投書した文は1字1句そのまま表記された。
 一昨年このブログを立ち上げたので、どうにも腹立たしいとか他者の知識を仰ぐなど何か言いたいことがあればここに書けば良く、もう新聞などへ投書せずにすむ。いや、話が横道になった。

 ゴミについてだが、役人なら『ポイ捨てはやめましょう』など看板を立て「啓発にこれ努めております」と澄ましていられるも、本来はゴミを目にして(イヤだな)と思うその感覚が先だろう。同時に自らのゴミを他者に始末させる上下関係の恥ずかしさをも。

 さはさりながら私個人それほど立派で美しいわけもない。その逆、「あんたの存在自体がゴミ」と言われている。
 数年前、砂防ダムの上で昼酒昼飯にしていたところ、握り飯を入れてきたレジ袋が風に飛ばされ舞い落ちた。ダムは十数メートルの高さ、急傾斜の棘藪を分け取りに行くのは不可能だ。三年ばかりそこに袋の姿を見、(あれはおれが落としたもの)と自責あり。したがってゴミを非難するに「まず罪なき者が石を投げよ」と言われたら引き下がるしかない。
 いやそれもきれい事。酒嚢飯袋の身、立ちションはそこらじゅうにしている。唾や痰を吐くのもそらじゅう、ただコンクリートの上にはしない。尾籠ながら里山歩きをして十年の間、一度だけ大を我慢できず道を外れ、枝を拾って穴を掘り、用を済ませて落葉と土をかぶせた。トイレの躾は受けている。
 過疎化の進む里山だからこれで良かろうと思うが、人の多い富士や尾瀬や高尾などでは携帯トイレの義務化話も出るだろう。

 尾籠ついでに近詠一首。

  寒ければ酒を頼みの冬なれど
   みな小便になるぞ悲しき

 誤解なきよう付言します。私、家では乱雑にして埃高き生活をしております。

イメージ 15 浮雲よどこを離れて今の旅