路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする付記1信達風土雑記のこと

 付記1信達風土雑記のこと
 秋山村冒頭に引用された『信達風土雑記』(元文五年)は日下兼延著、福島県史第24巻に掲載されている。一行28字の二段組印刷28頁分、その中の川俣部分27行を以下に写す。和歌と俳句以外はすべて訓点返り点なしの漢文表記。次に本文と重複するが素人デタラメ読み下しを置き、いくつか語注し、更に私見を述べる。

 従福城巽阻三十余里之嶮路而有一邑謂川俣也是小手庄而廿一郷
 之庶民儈合県也郷裏有古舘曰朝日舘焉於当邑在春日明神社伝聞
 古昔山陰中納言東遊日勧請於此和州三笠山神社焉
  吉田社与春日社為同躰貞観中納言藤原山陰卿建焉春日四所
  大明神者第一殿武雷神第二殿斎主神第三殿天津児屋根命第四
  殿姫大神貞観元年十一月九日始行此祭矣
  当邑春日祭九月九日也
   禰宜達の碁盤きよめや神無月   馬耳
   命もやおのれをうつす鹿のこゑ  既白
 爾来年々祭祀無怠慢也亦近邑渾以絹機為産業焉其織出品類巧於
 綾而至干繊穀者応飾豪貴之襟其細綸綃紈者軽羅一衣重三両也無
 大無小昼夜各不止矣或嫗婦之繰車音如雷声響亦淑女之機杼音似
 冬風烈矣毎月六度儈県而為商賈交易者也所謂於三都有斯之絹名
 矣亦以紫染為名誉隣国好賞之也当郡於立子山邑有古舘号北裏舘
 焉天正年中石橋氏何某居之亦於青木村有神社鎮祭悪源太義平之
 尊霊焉伝謂納白幡及武具太刀等矣凡此廿一村者委稼穡産業故山
 舎田屋豊饒而富家並於軒寛々矣東隣於相馬地南旁於田村郡而西
 向於安達郡恰如凾中也雖為伊達郡之中小手庄三七之村民者言語
 人物等別有風姿也亦県阜飯野筑舘小島穐山等雖多舘舎旧塁恐繁
 泄之也夫廿一村之産物者絹綿紬紙煙艸良材薪木畠穀等数品也
   伊達郡之内小手庄廿一郷者
  大波    小国[上下]  御代田   布川   手渡
  糠田[上下] 小嶋   [川又]飯坂   大綱木 [川又]小綱木
  五十沢   鶴田     小神    羽田   松沢
  飯野    大久保    立子山   青木   秋山
  築舘   村数廿一ヶ村
   此高合三万千三百四拾石壱斗九升余也

 福城より巽(南東)三十余里の嶮路を阻(へだ)てて一邑有り川俣と謂う。是、小手庄にて廿一郷の庶民儈合(かいごう)の県(まち)なり。郷裏に古舘有りて朝日舘と曰(い)う。当邑に春日明神社あり、伝え聞くに古昔(そのかみ)山陰中納言東遊の日、ここへ和州三笠山神社を勧請すと。
 吉田社と春日社は同躰にして貞観(じょうがん)の間、中納言藤原山陰卿建つる。春日四所大明神は、第一殿武雷神(たけみかづちのかみ)、第二殿斎主神(いわいぬしのかみ)、第三殿天津児屋根命(あまつこやねのみこと)、第四殿姫大神(ひめおおかみ)なり。貞観元年十一月九日始めてここに祭を行う。
  禰宜達の碁盤きよめや神無月  馬耳
  命もやおのれをうつす鹿のこゑ 既白
 爾来(じらい)年々祭祀怠慢なきなり。また近邑は絹機(きぬはた)を産業となしもって渾(ふる)う。その織り出す品類は綾に巧みにして、至って繊穀(せんこく)を干(もと)むる者に応じ豪貴の襟を飾る。その細綸綃紈(さいりんしょうがん)は軽羅一衣重三両(ちょうさんりょう)なり。
 大なく小なく昼夜各々止(やす)まず、ある嫗婦(おうふ)の繰車の音は雷声の如き響きし、また淑女の機杼(きじょ)の音は冬風の烈(はげ)しきに似たり。
 毎月六度儈県して商賈交易(しょうここうえき)をなすものなり。所謂(いわゆる)三都における有斯之絹(うすのきぬ)の名なり。また紫染(むらさきぞめ)をもって隣国好賞の名誉となす。
 当郡立子山邑に古舘有りて北裏舘と号(なづ)く。天正年中、石橋氏何某居す。また青木村に神社有りて悪源太義平の尊霊を鎮祭す。伝に謂う、白幡(しらはた)及び武具太刀等を納むと。
 此の廿一村は稼穡産業に委(くわ)しきゆえ山舎田屋(さんしゃでんおく)豊饒にして富家(ふうか)軒を並べ寛々たり。
 東は相馬の地に隣し、南は田村郡に旁(そ)い、西は安達郡に向かう。恰(あたか)も凾中(かんちゅう)の如きなりと雖も伊達郡のうちに小手庄三十七の村民は言語人物等、別しての風姿あるなり。また県阜(まちざと)、飯野(いいの)筑館(つきだて)小島(おじま)穐山(あきやま)等、舘舎旧塁多しと雖も繁を恐れこれは泄(はぶ)く。
 それ廿一村の産物は絹綿紬紙煙艸(たばこ)良材薪木畠穀等数品なり。
  伊達郡のうち小手庄廿一郷は
  大波 小国[上下] 御代田 布川 手渡 糠田[上下] 小嶋 [川又]飯坂 大綱木 [川又]小綱木
  五十沢 鶴田 小神 羽田 松沢 飯野 大久保 立子山 青木 秋山 築館  村数廿一ヶ村
  この高、合わせて三万千三百四十石一斗九升余りなり。

 この『信達風土雑記』も著者自筆本は失われ誤字脱字や後人の書き込み多い写本が流布しているという。県史が底本としたのは寛保三(1743)年西海逸民氏が写したものを文政年間北城という人が写した本とのこと。この本は序文と後序、殿語が置かれて書写の経緯がわかる。県立図書館には三種の写本があって逸民氏のは奥書が元文五年(1740)、他は宝暦元年(1751)と慶応四年(1868)、これらは全頁写影のCDで確認できる。川俣部分を見ただけでも文字の違い章句の異同は数多い。私は古文書を読めないが活字本との文字照合ぐらいはする。

 「三十余里」は古代里程。五、六里。
 「郷裏」は「郷里」の意味で用いている。
 「命もやおのれをうつす鹿の声」を『小手風土記』は「おのれを福に」と意味不明の変更。
 「繊穀」の「穀」は適切ではないと本文の私注で述べた。逸民氏の筆写本や宝暦本は正しく「縠」を用いており県史編纂者の誤読か誤記、もしくは印刷会社の誤り。慶応本は偏の「糸」部分を「米」か「禾」。それ以前に「至干繊穀者」を「至於織穀者」とする。
 「軽羅一衣重三両」の「重」の字、他の二写本にはない。「十三両」と解することもできようが三の倍、六両として「ちょうさんりょう」の読みにした。素人山勘読み。
 「青木村に神社有りて悪源太義平の尊霊を鎮祭」は松沢村の甲大明神。他の二写本は「悪源太源義平」、そして「此廿一村」の前に頭陀寺と開山青牛和尚についての書き込みがあり「川股町」「川俣町」の表記を用いている。
 「泄」は「もらす」が適切な訓読みだろうけれど音調が合わず省略の意味に読んだ。他の写本はこの文字を「泜」とする。「泜」は「川」あるいは「齊」のこと、それでは意味が通らない。
 「此高合三万千三百四十石…」、他の写本は三石加えている。この石高は後の書き込み。

 『小手風土記』のガリ版本で編者の木村氏はこの『信達風土雑記』からの引用を「しかし筆跡等より見て、本文は後世に書き加えたものと思われる」と述べる。そうだろうか。町飯坂春日神社の項に置かれた馬耳と既白の句の並び、立子山の村上や鮎滝記述が『信達風土雑記』からと見え、しかもそれは三浦氏の地の文に章句が織り込まれている。また飯野村阿武隈川の歌四首は雑記から拾ったと見えることからして氏の手近に写本はあったと考える。筆跡について確認できないけれど漢詩漢文は楷書、和文は草体字にするのは当時通常の筆記法、この部分が楷書だからとて筆跡が違うとは言いきれない。そして編者の木村高橋の両氏は『雑記』からの引用と人づてに聞いただけで本文は見ていないかもしれない。あれほど『信達一統志』の記事を註に置きながら『雑記』との相違は記さず、既白の句の違いさえ註にない。


 ついでなので鮎滝と村上の文を見る。『小手風土記ガリ版本の立子山村では、
「鮎流春景尤夥杜鵑の比諸人爰に遊んて酒を汲詩詠をなし鮎の飛を心を移して迎星て帰る也
 一、村上薬師堂 壱丈四面 別当大楽院 縁日四月八日
 抑村上山は天暦年中阿武隈川の川中に一夜に湧出したる石山也数十丈巌石そひへて鳥も翔りかたく古松枝を垂れ藤葛花を洗いて蒼苔露なめらか也嶺には薬師如来を安置す林下は隈川帯て白浪岩を砕く勢ありて水流の委曲驚蛇に似たり伊達第一の勝地にして千巌秀を競い萬壑流を争ふたる山水の美といひつべし石窟ある処々土俗呼んで蝦夷穴と云上代穴居巣居の蹟かその所由をふ知十人は十景百人は百景有の絶景也」

 『信達風土雑記』は村上を先に述べる。
「東於阿武隈川之澹中有嵓嶼名謂村上也嶢崢@@磈々焉於爰臨坻延筵卜座睒@之者青松浸枝藤葛洗花嶮巌帯苔槁木曝雪矣四時風景更無窮也伝聞可謂遊海中之於蓬莱瀛洲焉旋此両岸有別風而如異邦矣於乎茲数代之国守促駕士民運歩四衆遠尋来而賦詩題歌焉掎歟堪惜如斯風景遠於中国奇異巌隯陰於夷塵焉」
「嶢崢(ぎょうそう)」は高い山、「@@」は山偏に聿と山偏に兀、「ろつごつ」、転がりそうな危うい大石の重なり。次の「磈々」筆記は磈の上に山が書かれているがパソコンのフォントにない、「磈」も同意味、「かいかい・ぎぎ」、ろつごつと同意反復、剥き出しの岩壁描写。「坻(てい)」は川中の島。「卜座」は意味不明で「卜」を「外」の略と読んでみた。あるいは「占」で「座を占める」と読むも可。「睒」の下の@は目偏に矞、「だんきつ」、驚き見ること。「槁木(こうぼく)」は枯れ木。「蓬莱(ほうらい)」と「瀛洲(えいしゅう)」は東海の彼方、古代中国人が空想した不老不死仙人の島。『史記』秦始皇紀「海中に三神山有り、名は蓬莱・方丈・瀛洲という。遷人ここに居す」。「掎(き)」は引き寄せる。「隯(とう)」は島。

 東、阿武隈川の澹中(たんちゅう)に岩嶼(がんしょ)あり名を村上と謂う。嶢崢(ぎょうそう)ろつごつとして磈々(ぎぎ)たり。ここに坻(てい)を臨み筵を延(の)べ外座(がいざ)し睒@(だんきつ)す。青松(せいしょう)枝を浸し、藤葛(とうかつ)花を洗い、嶮巌(しゅんがん)苔を帯(たい)し、槁木(こうぼく)は雪に曝さる、四時(しいじ)の風景更に窮まりなし。伝え聞く海中の仙界、蓬莱・瀛洲に登り遊ぶとも謂いつべし。この両岸は異邦の如き別風ありて茲(ここ)へ数代(すだい)の国守が駕を促し、士民歩を運び、四衆遠く尋ね来たって詩を賦し題歌す。かくの如き風景は遠き中国奇異の巌隯(がんとう)を掎(まぢかにせる)ものか、夷塵(せぞくのちり)を陰(かく)し惜しむに堪う。

 また鮎滝の記述は、
「亦陽渉岩渓十余町而有謂鮎滝処矣春景尤夥毎歳花杜鵑之頃者村民覃士庶隠人遊興於此而酌酒詠歌為詩惜於落日矣十人有十景百人有百景之絶境也沙頭@於楊柳芝間枕於怪石山上哢於花月滝下汲於鮎魚優游舞踏無谷酔侶為之必迎星而帰也凡隈川之辺諸村水涯峡谷之間有岩窟焉四壁者以石而累々其高十尺或一弓其広逮尋常上蓋盤石焉其戸口僅而一仞一尺容易不可成人力処也如斯之空窟在於処々也土俗呼此曰蝦夷穴訝億有穴居巣民之人乎不知其所由也亦村上怪嵓之流下飛石伝桟行数十町而有碧潭名謂大渦也斯処両岸如合壁亦似累卵彎水時々作巴字雖大旱更不窺淵源之処也於岸上有虚空蔵大士之殿宇焉名山謂黒岩呼寺号満願寺前有垂桜矣枝条蔓四隅十余間也其景色溢隣郷未開花客者待弥生而為群終日忘帰家矣」
 「杜鵑(とけん)」はホトトギス。「覃士」の「覃」は筆者が「單」を誤用したもの。冊子すべてにこの誤用がある。書写子でなく著者日下氏の誤り。「落日」を他の本は「斜日」。@は木偏に原、パソコンのフォントになし。「げん」。「甘蔗(バナナ)に似た実がなり皮核皆食える」と中国での古義を辞典は記す。芭蕉や棕櫚かもしれない。「哢」は鳥のさえずり。寸法単位の「一弓」は五尺、六尺、八尺、時代により変わった。「一仞」も同様でほぼ七尺ぐらい。戸口の「一仞一尺」は高さと幅を言っている。「訝億」は「億」にママのルビ、「訝憶」に読んでみた。

 また陽(みなみ)へ岩渓を渉(わた)ること十余町にして鮎滝という処(ところ)あり。毎歳春景に尤(はなはだ)夥(ひとおお)し。花と杜鵑の頃は村民、単士(ひとりもの)、庶(そんじょそこらの)隠人(よすてびと)、ここに遊興して酒を酌み詠歌し落日を惜しんで詩をなす。十人あれば十景、百人あれば百景の絶境なり。沙頭(かわのほとり)、楊柳と芝の間には怪石を枕に@、山上の花月に哢(とりのさえずり)、滝の下に鮎魚(あゆ)の優游(ゆうゆう)舞踏して谷(きわ)まりなきを汲む。酔侶(よっぱらいども)必ず星を迎えて帰るなり。
 およそ隈川辺の諸村、水涯峡谷の間に岩窟有り。四壁は累々たる石を以てその高さ十尺あるいは一弓、その広さ尋常に逮(およ)び盤石を上蓋(うわぶた)す。その戸口僅かに一仞一尺、容易に人力にては成るべからざるところなり。かくの如き空窟処々にあり、土俗これを呼んで蝦夷穴という。訝しく憶(おも)えり。穴居巣民の人あるかその所由(よるところ)を知らず。
 また村上怪嵓(かいがん)の流れを下り、飛び石伝い桟行(さんこう)数十町に碧潭(へきたん)有り、名を大渦と謂う。この処、両岸合壁の如く、また累卵に似たる彎水(わんすい)時々巴字(はじ)を作(な)す。大旱(たいかん)と雖も更に淵源を窺えざるの処なり。
 岸上に虚空蔵大士(こくぞうだいし)の殿宇有り、山を名づけて黒岩と謂う、寺号は満願寺。前に垂桜(しだれざくら)有り、枝条(しじょう)四隅(しぐう)に蔓(のび)ること十余間なり。その景、溢るる色に隣郷の未だ花開(さ)かざるところの客が弥生を待ちて群集し終日家に帰るを忘る。

 重ねて言うが私の読みに信を置かないで頂きたい。文字の一つなら辞典を引けばわかる、しかし文節の区切りは矣、焉、也、乎などを目安にした山勘による。
 「穴居巣民之人乎」を慶応本は「穴居巣居之蹟乎」としており『小手風土記』筆者が見ただろう写本の系統になる。
 「垂桜矣枝条蔓四隅」を他の写本は「桜樹枝条垂四隅」。このような違いはきりがなくいちいちは挙げないが『小手風土記』三浦氏の援用した章句はお分かりいただけるだろう。『都名所図会』から引用した部分は本文私注に述べておいた。

 またついでにこれらを『一統』の記述は、
「藍飛泉(あいたき)
 岩上の流十四丈 流色藍をそゝぐが如く 故に斯は名付しなるべし 一説に年魚滝(あゆたき)とも云ふ 年魚此滝まで游ぎ来れ共登ることを得ず 故に鮎の止るを以て斯は名を負はせしならん 風土記に春景左宜母之花杜鵑之頃は邨人単士殿隠者遊興干茲酌酒作詩詠歌之情斜日十人有十景百人有百景云々
 村上山
 邨西逢隈川の水中にあり 薬師如来を安置す 是を村上薬師と称せり 堂一丈四面也 四月四日祭礼 古伝説に云天暦年中阿武隈川の中に一夜に湧出たる岩山なりと 高さ数十丈 鳥も翔がたく古松枝を垂れ藤葛花を洗ひて蒼苔の露なめらか也 岩下隈水を帯び白浪岩を砕くの勢あり 流水の委曲竜蛇に似たり 伊達第一の勝地にして千巌神秀を競い万壑流を争ひたるは山水の美と云ふべし 岩窟ある所土人蝦夷穴と云ふ 上代穴居巣の古き跡か 其由所を知らず 実に絶景なり」
 文中の「風土記」が『信達風土雑記』、「邨人単士隠者」の所、日下氏が「単」の意味で「覃」を誤用しているのを改めている。そして「左宜母之(花)」は志田氏の挿入とわかる。
 村上山の記述は『小手風土記』の援用。