路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

揺れて後(1)

 頻繁な余震はまだ続いている。
 私の住む町は福島県阿武隈山系の中、浜通り中通りの中間に位置する川俣町。地盤は広く花崗岩が岩盤となって地震の影響は少ないと昔から言われている。3月11日の震度は6弱だった。

 棚や箪笥の上に載せていたものはすべて落ち、姉が集めた人形を入れたガラスケースは3つ割れ、部屋は散乱状態。食器棚から落ちた茶碗コップも少し割れて物置では棚板が一枚はずれ傾く。決定的被害ではない。築60年以上の木造ボロ屋でも崩れなかった。
 裏の家では座敷の壁が一部剥げ落ち、前の家では石造ブロックの塀にヒビが入った。
 電気が止まり、情報がない。せめて震源地と震度を聞こうと関東にいる身内へ電話をしたが通じない。
 幸い近所に火災や建物の崩壊はなく救急車を呼ぶ家もない。
 夜は懐中電灯と蝋燭で過ごす。水は出てガスも使える。懐中電灯を小脇に挟み酒の摘みを作った。

 翌日から狭い範囲ながら町のあちらこちらを歩いた。
 3月12日
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 蔵壁の崩れとずれた自販機。

 外見上最も多いのは屋根瓦の一部崩落、百軒以上もあるだろうか、それは家の新旧を問わない。
 東から来る「いわき」ナンバーの車が多い。
 昼に電気が復旧しテレビで津浪を見、さらに原発を見た。
 家近くの小学校が浜通りの人を受け入れる避難所となった。他の小学校や町の体育館も同様。私の家の電気が早く復旧したのはそのお蔭であるのを翌日知った。同じ町なのに遅れた地区もある。オカミノゴイコウ。

 3月13日
 中学時代の同級生の母堂が一人暮らしをしており訪ねたところ、郡山市に住む娘さんのところへ移るとのこと。荷物を玄関口にまとめ旦那さんが迎えに来るのを待っていた。
「おとといはだめだったけど、夕べは眠れたの」と笑って言いながら目は窪み周りはくろずみ疲れの色はある。私の亡母もそうだったが大正生まれの人は総じて我慢強い。過疎化の進む町、一人や二人住いの老人宅は数多い。

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壁面モルタルの崩れた家。

イメージ 5 ガソリンスタンドでは給油待ちの車列が歩道に1キロほど並んだ。

 3月14日
イメージ 6 同じスタンド。

イメージ 7 国道沿いの道の駅貼り紙。福島市は断水している、もう泣くか。
 脇のベンチで昼酒昼飯にしていたら屋外の水道でシャンプーを使い洗髪の女性二人。
 駐車している数十台がここで夜を明かしたと見える。スーパーやドラッグストアには行列あり入場制限もなされた。コンビニへ行っても棚はカラ。この町は4800人の避難を受け入れたと新聞にあった。