路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする27附録(神主の書き込み)

 27附録(神主の書き込み)
 この文章はガリ版本の上糠田村末に置かれ活字本にはない。編者前書きの通り明治時代の文であり現代仮名遣いに直す必要もないけれど、当時の神主たちを風靡した平田篤胤流の情緒が濃くさらに作話に類する記述もあって参考資料にはなろう。送り仮名のカタカナ部を平仮名にし適宜改行も施した。一ツ書で二十五項目、中に小手六十三騎の一覧あってそれとて正確さを欠き編者が括弧して改めている。
        *
 この附録は底本の奥州川俣@渡辺(弥左エ門家)本が明治年間に上糠田村(現在月舘町大字糠田)の熊野神社神主伊藤氏の所有となり当時の伊藤氏が底本の欄外又は別紙に覚え書を記入しておいたものである。極く一部を除いて殆んどが附会の説に過ぎないが、一応附録として収めた。(*1)

一、女神山
 女神山、上古は御上山と称して鎮守府将軍文屋綿麿(ふんやのわたまろ)(註、弘仁二年四月征夷大将軍任命、同年十月閉伊(へい)の蝦夷覆滅の捷報を奏す)、東夷征伐の際、当山に登って東屋国の神を鎮祭し給う事熊野宮社記録に見ゆれば尤も古くより開山せし事押して知るべし。抑(そもそ)も現在女神明神は元御上(みかみ)明神にして、延喜式名神の大社臨時祭二百八十五座の内、陸奥国十七座の内にして将軍登山以前より是御山へ鎮座坐(おわ)す御神なり。
 然るに元暦の頃から当山に薬師の尊像を安置するや@(アヤ)まり語って曰く、吾れ嘗て瘧病(おこりやまい)患う、薬餌を用いて功なし、然るに尊像に祷(いの)りて忽ち平癒す。尊像甚(はなは)だ応あり。一度求めあれば則ち疾痛者は之を治し、痿痺(いざり)の者は立ち、瞽者(めくら)は明復し、聾者(つんぼ)は忽ち聴く。その他之を祈れば必ず効あり。之を聞きて倶(とも)に耳を驚かす。是より隣里郷党時差を薦め粢盛を具え、駿々として一山挙げて仏法守護の山と化せり(建武の頃、当山の麓へ遷し後ち天正元年眉間山へ安置す。委しくは薬師寺の条を見るべし)。(*2)
 御上明神の神威次第に少縮となり建武の頃明神へ佐藤民部義忠の娘小笹姫の霊を合祀して女神明神と改称せり。是より社号乱雑となり、筑波山の男体女体を形とりて小手神森を陽神明神とし女神山を陰神明神とす。また石社中へ鏡を納む。また鏡明神と改称し、或いは仏号をもって水雲山天井尊と定め、また五大尊大日如来と改称し、実に千変万化の名目を附会し、大社の号を失い、これ皆神道その職を怠るより出づ。しかして伝記由来を失うも浮屠神明を潜めて仏宇を雑(まじ)えるより出づるなり。嗚呼、釈徒異端何ぞ無情なるかな。挙げて歎ずべけんや。(*3)
一、東王塚山名義
 君中経に東王父は青陽の気世云々。
 在蓬莱山十州記に扶桑地方万里上有太帝宮太真東王父所治之処也とあり此太真東王父は太皇伏羲氏なり云々。
 三洞部に老子中経東王父の條に各曰伏羲云々。(*4)
 古老伝説に曰く、往昔神仙の二僧あり、東王坊大徳坊と云う。常にこの山頂に於て相撲を試む。また老鹿を愛し白狼を馴(てなずけ)けて相伴う。後、東王坊の死体を山頂に葬むる、よりて山名起こる。鹿狼を埋めしところ鹿狼山と云う。所謂(いわゆる)上之内ともある山上これなり。
 山頂に大徳坊の足跡と称せし水溜りあり、渇水と雖も水常の如し。大徳坊和尚の事を称して大徳と云う。駅燈随筆に曰く、大徳坊山鬼をもって上人を称し、一日、信夫郡の稲を負いここに来りて之を曝す云々とあり。郷中に大徳坊の事跡伝えて所々にあり。
 一名経塚山とも云う。往昔凶年の際、千部の経を埋めて豊年を祈る。よりて山名起こる、所謂四岳中なる一切経山の如き類なり。
一、正一位熊野三所大権現は管領上杉家三代[景勝、定勝、綱勝]の祈願社にして創立の紀元を尋ぬるに人王五十代桓武天皇御宇、延暦年中、陸奥出羽両国の按察使(あぜち)兼鎮守府将軍大伴家持卿、陸奥国府へ下向の際、安積郡に於て夷賊蜂起せし時、高旗山に坐(おわ)す宇奈己呂別(うなころわけ)の神の威力により儘(ことごと)く之を征伐す。(*5)
 然るに一の賊膚大墓なる者逃れて奥に至る。将軍跡を追うて山岳原野を跋渉して追いける程に、深くも奥に迷い入らせ給う。于時(ときに)空中より三羽の霊烏飛び来りて駅路を指して導き給え如きを将軍大に悦び、その霊徳を感じて宮柱太敷立て熊野三所の神霊を祭らせ給う。郷土をもって神領に供え給う。(*6)
 然るに郷土を監察するに往古和銅の頃、南部行基、山川を経紀して国郡郷里を定むるも未だ麤(そ)にして細(くわ)しからず。土民普(あまね)く皇沢に沐浴すると雖も草昧野蛮にして村に長(おさ)なく邑に首(かしら)なく各々封堺を貪り衢(みち)を遮りて相盗略するの意あり、山野に入りて鳥獣を捕獲するを以て営業となせり。土地沃壌なりと雖も未だ農耕に精しからず。(*7)
 将軍扈従(こしょう)の臣下を置かしめ熊野三所の神徳を示して教化を敷き、皇徳を宣揚して庶頑を化尊す。原野を開拓して以て民に農桑を教え、浴堰を築(かま)えて灌漑を起し、道路を開鑿(かいさく)して通行を便にす。此時始めて村堺を分かちて五ヶ村を置く。所謂(いわゆる)掛田村[寛正元年洪水後大波、小国を置く]、御代田村[寛正元年洪水後布川を置く]、糠田村[寛正元年洪水後、小島、手渡を置く]、福田村[寛正元年洪水後、秋山、青木、立子山、飯野、大久保を置く]、富田村[寛正元年洪水後、小神、松沢、鶴沢、五十沢、綱木、飯坂を置く]是なり。(*8)
 村々に桑穀木等を殖えしめて養蚕機業の道を奨励し、広布狭布の絹布を織らしめて調庸の道を起さしめ、その業、歳を逐(お)うて大いに開け、後ち奥羽に普及したり。古(いにし)え所謂奥羽の調庸広布狭布是なり。稼穡開くるに従い山舎田屋豊饒、富家軒を並んで寛々たる郷里に一変し大いに民風の改善を得たるは誠に御神徳の余沢なりと云うべし穴賢。(*9)
一、嵯峨天皇御宇、東夷等歴代時を渉り辺土を擾乱せしかば鎮守将軍文屋綿麿詔(みことのり)を奉じて東夷を征伐するの際八幡奥(以下約九〇字欠、この欠字は紙を切りとりたるもの以下同じ)
一、天喜二年、陸奥の豪族安部頼良謀叛し源頼義綸命を奉じて逆賊追伐のため奥州へ発向せらるるや頼良の二男貞任三男宗任等部下を従がえ伊達信夫に出陣す。頼義之を聞き逆賊追伐のため社前に於て流鏑馬の神事を奉納し軍馬を調練して士卒を励まし給え。(*10)
一、永萬元年三月陸奥藤原秀衡西舘[一名月見舘とも云う]の地頭佐藤民部義忠をして普請奉行となし、高舘より飛騨匠八人を遣わして鴻(おお)いに土木を起し、既に三カ年を経て本殿、拝殿、雷殿の楼閣、五重の塔、経殿の五宇造営す。実に輪奐壮麗その美を極む。(*11)
一、仁安三年六月十五日、藤原秀衡の臣河辺五郎行定を遣わし金泥の大般若経一部を納む。国土安穏の祈祷あり。(*12)
一、崇徳天皇御宇大治三年、堀川鳥羽両院の勅使として中納言顕隆卿当国平泉へ下向の際、当社境外なる東南二カ所の大華表(おおとりい)へ御染筆の額を遺(のこ)させ給う。世にこれを石の勅額と云う。(*13)
一、建久七年四月、常陸介念西(ねんさい)藤原朝宗、当社の本願藤原秀衡時の領主修造致すべき例沙汰の旨(むね)御置文残せらるの処、然るに近年鴻(おおい)に廃破、供物燈明以下已(すで)に断絶の由愁うるにより堂殿修繕を加う。就(つい)て百貫文の地を以て社家に賜う。(*14)
一、延元二年八月、北畠中納言顕家(あきいえ)卿、西征の軍議を決して霊山城を発し、義良(のりなが)親王を奉じて檄を伝えて便宜の軍を催さるるに、結城入道道忠、伊達行朝らを始めとして伊達信夫下山の勤王の輩来従するは凡(およ)そ六千五百騎なり。その時、当熊野堂をもって仮の御所と定めさせられ給い、親王は十余日の程御通夜あらせられ給う。于時(ときに)親王の御供なる広橋修理亮(しゅりのすけ)藤原経泰、神前に菊花を奉りて皇運の隆昌を祈願し奉る。世俗今に御所宮大明神と唱称し奉るは是縁(えにし)なり。(*15)
一、応仁以降、管領(かんれい)乱れて梟雄割拠の世となり疆壌(きょうじょう)を争うを既に百三十有余年、時に慶長五年八月十五日、上杉景勝伊達政宗と戦いて雌雄を決せんと欲す。上杉家の老臣本庄越前守繁長、宇佐美弥五右衛門、岡左内、二本松七郎、山上道友、武倉隼人、色部修理之介、須田大炊長義等の諸将、当熊野社前に於て小手郷へ檄文を伝えて野武士六十三騎を召集して知行割印を相渡す。于時、本庄繁長神前に於て契願して曰く此度の合戦は上杉家の盛衰存亡の秋(とき)なり、願(ねがわく)は神霊の加護を垂れ給いて敵陣を攻伏し給いて上杉家の軍威を発揚されんことを謹(つつしみ)て祈念奉る。終(おわり)て宇佐美弥五右衛門神前に於て熊野神軍隊と軍旗に大書し、軍旗を押立て大軍蹶起、隊列を作り組旅を整え梁川城へと発向しける。同年十月八日、上杉勢六十三騎を先鋒として藤田桑折の間に対陣せし伊達と大戦のこと、並に敵将政宗茂庭山中まで追伐して上杉勢の大勝利を得しこと委し(約九字削除)(*16)
  小手六十三騎熊野神軍隊左の如し
一、下糠田村  二百五十石  田代五左衛門
一、町小綱木村 二百五十石  安斉藤兵衛
一、立子山村  二百五十石  小貫太郎左衛門
一、鶴田村   二百五十石  関太郎左衛門
一、手渡村   二百五十石  斉藤五左衛門
一、町小綱木村 二百石    菅野与兵衛
一、飯野村   二百石    岡 金五郎
一、小島村   二百石    佐藤藤兵衛
一、糠田村   二百石    佐藤弥右衛門
一、御代田村  二百石    渋谷助左衛門
一、御代田村  二百石    佐藤 帯刀
一、小綱木村(町小綱木村)  二百石    氏家惣右衛門
一、大波村   二百石    栗原新左衛門
一、秋山村   二百石    高橋清十郎(清四郎)
一、小綱木村  二百石    佐藤与右衛門
一、飯野村(飯坂村)  二百石    渡辺弥次右衛門
一、飯坂村(飯野村)  二百石    関 帯刀
一、飯坂村(飯野村)  二百石    大河内藤治
一、飯坂村(飯野村)  二百石    高野馬之助
一、大久保村  二百石    高野 備中
一、大久保村  二百石    高野内蔵之介
一、大久保村  百五十石   高野次郎兵衛
一、大久保村  百石     佐藤 源内
一、大久保村  百石     佐藤新右衛門
一、大綱木村  百石     菅野八郎右衛門
一、小綱木村  百五十石   佐久間庄蔵
一、小綱木村  百石     菅野利左衛門
一、小綱木村  百五十石   蒲田(香野)三郎右衛門
一、松沢村   百五十石   斉藤十郎左衛門
一、羽田村   百五十石   佐藤平左衛門
一、松沢村(羽田村)   百五十石   斉藤(佐藤)次郎右衛門
一、飯坂村(飯野村)   百五十石   関太郎左衛門
一、松沢村(飯野村)   百石     本田彦十郎
一、飯野村   百石     高橋(高野)九右衛門
一、飯野村   百五十石   朝倉六郎左衛門
一、飯野村   百五十石   小和田彦作
一、飯坂村   百石     斉藤雅楽之助
一、飯坂村   百五十石   氏家孫兵衛
一、飯坂村   百五十石   斉藤(安斉)四郎左衛門
一、五十沢村  百五十石   菅野七郎兵衛
一、五十沢村  百五十石   渡辺助右衛門
一、五十沢村  百石     菅野次郎右衛門
一、五十沢村  百石     渡辺 隼人
一、五十沢村  百石     高橋 大学
一、五十沢村  百石     斎藤 清蔵
一、大波村   百五十石   安部清右衛門
一、布川村   百石     犬飼彦右衛門
一、秋山村(小神村)   百五十石   武藤 大学
一、秋山村   百五十石   金野(今野)金右衛門
一、小神村(秋山村)   百五十石   菅野(神野)与惣次
一、青木村   百五十石   阿曽平次郎
一、青木村   百五十石   白根沢将監
一、青木村   百五十石   斉藤縫之助
一、青木村   百五十石   斉藤 丹波
一、青木村   百五十石   阿曽内蔵之助
一、立子山村  百石     橋本内蔵之助
一、立子山村  百石     佐久間治郎左衛門
一、立子山村  百石     本田作兵衛
一、立子山村  百石     阿曽四郎右衛門
一、小島村   百石     佐藤彦右衛門(*17)

一、慶長六年十一月朔日、上杉景勝公前年出陣の際当社へ祈願のことありしが霊験顕著なるを以て福島城臣本庄越前守繁長を遣わし百二十五石の寄進書、並(ならび)に上杉家武運長久の為め(以下約十字欠)
一、元和三年三月十七日、上杉定勝公福島城代本庄出羽守充長を遣わし先例の如く社領寄進相続書、並に上杉家武運長久の為め(以下約十字欠)(*18)
一、寛永三年三月十五日、上杉定勝公の願、神祇官の執奏により朝廷より神階奉検正一位こと。(*19)
一、寛永十三年五月、上杉定勝公御寄進奉改造
  一、拝殿[八間三間半] 一、御石間[六間五間] 一、本殿[三間半三間]
一、承応二年五月十三日、上杉播磨守綱勝公福島城代臣本庄出羽守政長を遣わし(以下約三十五字欠)(*20)
一、寛文四年五月七日、上杉綱勝公薨ず。嗣なくして封土を削らるや同時に社領をも没収されたり。嗚呼遺憾なるかな、恰も一陣の天風颯と吹来って赫々たる神燈忽ち其光りを失いたる如く社頭寂々たり。社家愁うるも何ぞ及ぶべけんや。嗚呼歎じても猶余りあることぞや。(*21)
一、寛文五年四月八日夜、丑の上刻炎上す。偶風激烈にして糠塚山頂の火葬穢火飛び来りて大木の梢を焼く。忽ち拝殿幣殿本殿に延焼し、猛火防ぐの術なく社殿及び境内蓊鬱たる古木をも瞬時間にして灰燼に帰せり(以下約九字欠)無事たることを得たり。嗚呼これ千歳無辜の恨み事と云うべし。(*22)
一、寛文六年十月、惣氏子寄進社殿改造す。
 本殿[壱間半四面] 雨屋[四間五間] 拝殿[六間半三間]
一、安永七年正月十二日夜丑刻炎上す。御神体猛火(以下二十五字欠)(*23)
一、天明三年十月総氏子寄進、本殿改造す。続いて拝殿改立の計画ありたるも不幸にして大凶年に遭遇したるを以て遂にその目的を達せず。  本殿[一間四面] 雨屋[三間五間](*24)
一、抑も当社は官使の創立にして世々の征討使等の祈願奉幣のことあり。降(くだり)て中近古に至りて上杉家三代の祈願社となるや神威赫々として栄花その美を極む。然(さ)れども豈(あ)に不幸にして上杉家の削封となるや同時に社領没収せらるること始めとし続いて壮観偉麗を極むる殿堂一朝烏有に帰するを以て衰廃の原因此処に基づけり。社頭は年を逐(お)うて次第に少縮し僅かに一村落の叢祠に過ぎず、嗚呼挙げて歎ずべけんや。有志の君子有為の人主、造営を盛んにし社格を古昔に再興せしなば則(すなわち)千(あまた)庶幾(こいねがわくは)国豊かに民安んじて其神徳に帰らんか。識者弁焉(以下約二十字欠)(*25)
一、岳林寺、元亀三年[壬申]四月一日心悟和尚の開山にして由緒縁起詳(つばら)ならず。伝に曰く、当山は元上ノ坊なりと云う。然れども文献の徴すべき事なければ知り難し。(*26)
 宝暦十年二月十一日夜の四ツ時、上ノ内入野より野火洩出て未申(ひつじさる)の風激甚にして石砂を飛ばし忽ちの中に当村築舘町御代田布川石田の五ヶ村へ延焼し火勢猛烈にして防禦し難く、遂に四百軒余りを以て灰燼に帰せり(委しくは熊野宮社記録にあり)。此時当山寺門伽藍旧記過去帳に至るまで全く焼失す。(*27)
 同十一年三月十七日、食堂仏殿宝蔵の三殿を改造す。此時寺場今の地に移す。
一、薬師寺、治承四年西舘[月見ヶ城を云う]の地頭佐藤民部義忠の開基にして寺領百貫文の地を納む。観月和尚の開山なり。始めは女神山麓にありて寺門益々繁栄なりしが建武の頃山上より薬師の尊像を当山の麓へ奉遷するや寺門と共に稍々衰えて修繕の力なく遂に廃滅に帰せり。
 天正元年八月八日、紀州奈智の大智和尚巡錫し来りて廃寺の跡より薬師の尊像を掘り出しければ斉藤因幡なる者と相謀り眉間山頂上を伐開(きりひら)き一宇を建立して薬師の尊像を遷祭し猶(なお)麓に薬師寺を建立して再興す。(*28)
 元禄元年六月廿二日(註)薬師堂改造す。
 安政三年十二月三日、薬師寺炎上す、その砌古文書等焼失すと云う、嗚呼惜しいかな。
 (註)貞享五年九月丗日元禄に改元する従って六月廿二日は貞享年度である。
  千社札なる起因
一、本朝六十五代の花山法皇は御在位僅(わずか)三年早くも世の無常を感じ開眼上人を導師として剃髪し入覚とさえ御改名あり。後、西国三十三カ所の観世音を巡礼納札の御企てのありてより以来、今の千社納札と云うものの起りし所以(ゆえん)とあり。(*29)

*1@は渡辺家の家紋、三星一文字。
  「当時の伊藤氏」とは伊東直衛氏と思われる。
*2@は謬を省略した字。
  「尊像甚だ応(こたえ)あり」は「応験(おうげん)あり」がより相応しい。
  「時差を薦め」は「時羞(じしゅう)を薦(すす)め」の誤記か編者の誤読。「羞」は料理食品の意味。
  「粢盛」の「粢」には編者による「繁」の脇注あるも「繁盛」ではない。「粢」は黍や餅のこと。つまり「粢盛(しせい)」は供物。下の「具え」は「供え」が適字。
  「駿々として」は「駸々(しんしん)」であろう。勢いよく盛んになる意味。
*3「浮屠(ふと)」は元々「ブッダ」の音訳で僧侶一般をさす。それが「屠」の文字によって想起する屠所屠殺の言葉のため口調によっては「クソ坊主」ほどの気味合いになる。
*4この「何々云々」並びの文は筆者が読み齧りを羅列したか文法的にも読み下しにできないところがありそのまま写した。
  「気世」は「元気」の誤記。「君中経」は『老子中経』。その第三神仙に「東王父者 青陽之元気也 萬物之先也……治於東方 下在蓬莱山……其精気上為日……名曰伏羲」とある。 
  「東王父」は道教における男仙のトップ、「扶桑大帝東皇父」「東君」とも呼ぶ。古仙の西王母と対になるよう後代発案された神君。
  「十州記」は志怪小説集『海内十洲記』のこと。
  「三洞部」は道教の経典中「洞真、洞玄、洞神」の三部。「洞真部」は鬼神を呼び出す術らしいが私は読んでいない。
*5郡山に「宇奈己呂和気神社」がある。
  大伴家持陸奥按察使鎮守府将軍に任命されたのは延暦元(782)年と記す史書があり、また延暦三年に持節制東将軍、翌年鎮守府将軍と述べる書もある。家持の生年は養老年中718年頃、六十を超え大将として実際に多賀城へ赴任したかそれはわからない。延暦四年に没している。
*6「賊膚」は「賊虜」の誤記だろう。
  蝦夷の総帥「大墓公(たものきみ、おおものきみ)阿弖流為(あてるい)」が政府軍と最初に戦ったのは延暦八年、時の将軍紀古佐美(きのこさみ)を破った。坂上田村麻呂に降伏したのは延暦21(802)年のこと。前記女神山の項目にある文屋綿麿の制夷はそれより後、弘仁二(811)年。この折の東夷と大和政府三十年に及ぶ争いが決着した。日本武尊から幾度となく行われた大和政権の東征と神功皇后三韓征服を日本の神官は好んで言及する。
  「三羽の霊烏」。春日神社は鹿の導き、熊野神社は烏が導く。
*7「南部行基」は「南都」(奈良)の誤記。
*8この分村記述はでたらめ。
*9夜郎自大話法。「山舎田屋……寛々たる」は『信達風土雑記』の言葉。
*10天喜二年は1054年。頼義が貞任と戦ったのは天喜五年、一度敗れている。
*11永萬元年は1165年。「輪奐(りんかん)」とは美しく大きな建物のこと。
*12仁安三年は1168年。
*13大治三年は1128年。
*14建久七年は1196年。常陸入道念西は常陸海尊から義経の遺児を預けられた伝説がある、真偽不明。
   常陸国伊佐庄中村に住んでいた念西の、その四人の息子は文治五(1189)年頼朝の奥州征伐に従い石那坂の戦で佐藤庄司基治を討つ手柄あり伊達と信夫を与えられた。長男為宗は伊佐に戻り、念西が伊達へ移り。保原の高子岡に築城。名乗りも頼朝から一字拝領か伊達朝宗とした。後の仙台藩伊達家の始祖となる。念西の祖は藤原北家山蔭中納言と伝え、ゆえに藤原朝宗の記名がある。ただしこの家系は諸説あり。
*15延元二年は1337年。南朝の年号。
   顕家は親房の長子、陸奥守となって下向したのは元弘三年、時に数え年16。相伴う義良親王6歳であった。後醍醐の行った建武の中興が公家社家を厚遇したことに武家は反発し尊氏が叛旗を翻す。霊山に拠を移していた顕家が親王を奉戴して西上した延元二年はまだ20歳、転戦して翌年高師直と戦い和泉石津で敗死する。
 義良親王後醍醐天皇の第7子、延元四年、後村上天皇として南朝に立つ。
*16慶長五年は1600年。
*17この六十三騎については郷土史鈴木俊夫氏が寛永十五年に書かれた文書を発見し『小手郷文化』第一巻に発表した。『川俣町史Ⅰ」の記述はそれによる。記載の人の家系はほとんどが帰農後名主や在家層の地域ボスとなっている。
*18元和三年は1617年。
*19寛永三年は1626年。
*20承応二年は1653年。
*21寛文四年は1664年。
*22「偶風」という言葉は知らない。「颶風」かもしれない。
   「火葬穢火」の概念、とくに修験道では清い火と穢れ火の区別立てを厳密にする。
   原本は「千歳無こ」とあるのをお節介で「千歳無辜(せんざいむこ)」とした。
*23安永七年は1778年。
*24天明三年は1783年。
*25「則千庶幾国豊ニ民安して其神徳ニ帰ん乎」の読みはヤマ勘。「庶幾」は「こいねがわくは」と読む熟語としてあるが「千」の字が掛かる所なく浮く。「庶」と「幾」どちらも単独で「願う」の意味に使う。最初は「千庶(せんしょ)」「幾(こいねがわくは)」と読んでみた。無理筋だろう「千万」「千歳」などのように「千」の下に欠字があるか、或いは「于」かもしれない。「于(ここに)庶幾(こいねがわくは)」なら自然な読みになる。
*26元亀三年は1572年。
*27宝暦十年は1760年。
*28天正元年は1573年。
*29「花山(かざん)天皇」は右大臣道兼の策略により出家させられた。寛和二(986)年のこと。