路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

鶯の声

 ワンワンと吠える日本の犬はアメリカでバウワウと吠えるらしい。では日本でホーホケキョと鳴く鶯はアメリカでどう鳴くのか。英語に詳しい知人に尋ねたら知らないと言う。それもそのはず鶯は東アジアの鳥であった。

 折口信夫死者の書』十一章は鶯の声に始まる。
 ほほき ほほきい ほほほきいーー
「鶯の鳴く声は、あれで法華経法華経というのじゃて」
 作者はこの記述によって仏教伝来以前、鶯の声は「ほほきい」であったと示す。『出雲風土記』に法吉鳥(ほほきどり)の語がある。
 江戸期の作と見られる狂言佐渡狐』において狐の声を問われた男、「ほほきい」と答え、「それは鶯じゃ」と賭物を奪われる。現代ではホーホケキョ一辺倒でもホホキイの擬音が長年用いられていたとわかる。

 日本の鳥のうちおそらく異名の多さで鶯は時鳥に次ぐ。幾つか知識をひけらかす体裁で述べる。
 禁鳥(とどめどり)は鶯宿梅の故事による。村上天皇の世に内裏の梅が枯れ、小役人が良い梅の木を捜し歩く。とある邸にそれを見つけた。掘って運び出すところへ邸の主が歌の文を枝に結ぶ。
  勅なればいともかしこし鶯の
   宿はと問はばいかが答えむ
 これを読んだ天皇は梅を返したという。歌の主は貫之の娘、紀内侍(きのないし)である。

 愛宕鳥(あたごどり)というのは十五世紀、都で盛んだった鶯合(うぐいすあわせ)に愛宕派と大原派があり『三十二番歌合』の一首による。
  羽風だに花のためにはあたご鳥
   おはら巣立にいかが合わせん
 新しい鶯を仕込むには良い声の鶯を同じ籠に入れる。これは付子(つけこ)と呼ぶ。

 匂鳥(においどり)は歌論を述べた『篠月抄』に見る。
  雪もはや消えがてになる山里に
   めづらめづらに鳴く匂鳥
 ついでながら近年まで鶯の糞を化粧品として用いた事実があり、女心を私は解さない。

 耳目鳥(みみめどり)は『古今打聞』より、
  みみめ鳥きつつ鳴くなりわがやとの
   八重紅梅の花ふみちらし  源公忠(みなもとのきんただ)

 人来鳥(ひとくどり)が鶯をさすようになったのは『古今集』雑躰、読人しらずの歌以降のこと。
  梅の花見にこそ来つれ鶯の
   ひとくひとくと厭ひしもをる
 (おれは梅の花を見に来ただけなのに鶯のやつ、人が来た人が来たと嫌い鳴く)
 擬音「ひとく」は本来小鳥一般の鳴き声であり、今で言うピーチクパーチクに相当する。音はptk。昔のハ行はパ音に近く、ファフィヒュフェフォと発音されている。それは『後奈良院御撰阿曾』に見える謎々「母には二度会ひたれど父には一度も会はず」で証明される。答は唇。ハの発音は上下の唇が触れ、チでは触れない。この書は1516年成立、同じ十六世紀来日した宣教師がラテン語で著した『天草版平家物語』において肥前や平戸の第一字はFになっている。
 若い日の乱読による知識一片がパズルピースとして甦る。室町期以前の日本人は下の歯が前に出る噛み合わせだった。それでハ行を発音すればファ行になる。自分の顔で実験可能。ただしこの骨格変容を何で読んだか思い出せない。ご存知の方あれば教えを乞う。

 唐の玄宗が黄色い鶯に付けた金衣公子(きんいこうし)は時鳥にも用い、鶯の異名はさらに遷喬(せんきょう)、楚雀(そじゃく)、百喜(ひゃっき)など多数ある。

 梅に鶯、春告鳥の名の如く初音は毎年三月下旬、彼岸の前後になる。そしてこの十年のうち四回は春蘭の初見と同日だった。それが今年は突然暑い日がきた三月七日、例年より2週間早く初音を聞いた。
 この鶯、春の鳥とはいえ夏でもその声は聞く。老鶯(ろうおう)や狂鶯(きょうおう)は夏の季語、ならばいつまで鳴くのだろうとこの数年、八月も二週目になると声を聞けば山歩きのメモ帳にウグイスと記す。例年二十日前後にその文字が途絶え聞き納めと知る。

 去る夏、林道を歩いていたら傍らの畑で作業していた老婆が二重の腰を伸ばし、高橋まゆみ氏の人形そっくりな表情をして曰く。
「おたくさんみたいにさっさか歩きてもんだ、こうなっつどわがんねで。鶯鳴くのはホーホケキョだべげんちも、おらなんかヒェードッコイショって聞こえんだぞい、あはははは」
 座布団一枚。

 藪鶯(やぶうぐいす)は冬の季語なるも、目はかすみ歯抜け尿漏れ物忘れの私にその確認は不可能。