路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

路上の雀

イメージ 1「羽なければ空をも飛ぶべからず」と長明は嘆いたが、この雀、羽はあっても飛べず歩けず路上にいた。カメラを寄せたら顔をそむけ首から上は動く。林道とてまだ山間に入る前、農家の点在する生活道路である。車の姿が見え軽く掴んで路傍の草むらに置いた。指先に触れた腹部の奇妙な柔らかさ。腹筋運動に励む鳥の姿を見たことはない。

 それだけでまた歩を進めた。私は雀を助けなかった。この季節に蛇はなかろうが猫なら居る。猫でなくとも何らかの生物に捕食されるのは明らかであり、また捕食されずとも飲食できない身であればやがてその場に伏し昆虫らの解体作業に供されるだろう。

 そこから家に戻るまでの一時間余り、とつおいつの物思いになった。道につらい悲しい弱った人を見かければ駆け寄らずに居られない衝動を持つマザーテレサならどういう心の納め方をするだろうとか。
 あるいは記憶の断片、若い頃の酒の席、加藤トキコ氏(漢字表記忘失)の歌に事寄せ鳥を美化して語る女性に興醒めを言った。
「鳥は翼があるから飛べるのではなく、下痢腹と脳味噌が軽いせいです」
 男達は笑ったが女性には叱られた。
「あんたってホント、デリカシーが無いのね」
 (こんなにも空が恋しい)と歌う加藤氏の曲は私も好きだったけれどこの歌手、加齢とともに音程が取れなくなり今は聞くに堪えない。北島三郎氏同然。

 いや、そんなことを言いたいのではない。もとより私に仏心などありはしないし、山歩きで踏み潰した生命の数は厖大であろう。あの世で頭上に蜘蛛の糸が垂れてくる期待は皆無だ。
 また一つ余計なことを思い出した。芥川の『蜘蛛の糸』を子供の頃に見たが挿絵では登る男の手が太綱を握るかのように描かれていた。糸は握れない。登ろうとするなら手のひらにひと巻しながらでなければならないはずだがそんな絵を見たことはない。

 その日、連想から連想へ物思いは続いたけれど、今になって思えばただ一事、私が雀を助けるだけの知識と能力のない悔いが、この3月老母をなくしたことと一重にある。