路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

この文字列は(1)

 言語感覚は絵や音楽に触れるのと同様、個人的嗜好の側面があり、以下の私見は酔漢のからみ、ひねくれ者の言いがかりにすぎないとお断りします。言葉咎めの文ですが言葉狩りの意図はありません。

イメージ 1 アルファベット表記の部分、「あぶくまがわがわ」と読んでしまう。

イメージ 2 下級役人的畳語。

イメージ 3 この地の人は普通の運転にすら多大の努力を要するのかと疑う。

イメージ 4 胸にしっかり箒を抱えて守る人の姿が脳裏をよぎった。隣に「掃」の字があるせいだろう。

イメージ 5 君や僕をカタカナ表記する場合、概ね子供をさす。子供は免許を持てない。加えて「愛ことば」を気の利いた言い回しとする感覚に少々引ける。以前住んだ町の駅に「ふれ愛のまちにようこそ」の看板があり、とある女性は「痴漢の居そうな町ね」と吐き捨てるように言った。

イメージ 6 「シート」に「死止」を宛てたところに意味は理解しても厭な違和感がある。分析すれば先ずseatの語尾は子音であって母音を含む「と」ではない。また波止場の例はあっても通常「止」の音読みは「し」であり「死止」の読みはシシ、百歩譲ってもシトと読み、長母音のシートではない。そして日本語のシトには尿の意味がある(蚤虱馬の尿(しと)する枕もと:芭蕉)。音の近いshitとて尾籠な語、汚い感じのする標語ではある。

 実にどうでも良いことばかり、勿論「ぼくは正しい」など言うつもりはない。さりながらまだ言い足りず、後日、続きを。