路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする12立子山村

 12、立子山村(註1)
一、八幡宮 八八幡とて八所あり
 神社考に云う。清和天皇御宇、貞観元年八月、大安寺沙門行教奏問して豊前国宇佐より山城国男山に勧請す。応仁(おうじん)天皇是なり。その後諸国に遷座し奉るなり。(註2)(*1)
一、八釈迦 八所にあり、八舘とて舘跡八つあり。
一、駒込舘 八幡社 石橋九市郎居す[当郡立子山に於て古館有り、曰く北裏館なり(註3)。天正年中石橋何某居すとか。(*2)
一、桐ヶ口舘 この館主、仙台領駒ヶ峯城主宮内因幡の家老大内要人とて今にその子孫あり。
一、江尻舘 八幡社 釈迦堂
一、春田舘(註4) 八幡社
一、本内舘 八幡社
一、北浦舘(*3)
一、大舘[清水あり百日の旱魃にも尽きず]
一、藍瀧舘 釈迦堂[七尺四面]
一、三久保(註5) 八幡宮
一、竹ノ下 八幡社
一、御代手(註6) 釈迦堂
 銀杏の大木、村民一円寺の銀杏の木と女夫(みょうと)なりと云々。
 銀杏の樹に雌雄有り、雄は三稜有り、雌は二稜有り、すべからく種(しゅ)之に合すれば池に臨みて影を照らしまたよく実を結ぶと云々。広記に見えたり。(*4)
一、名号碑 元文五年[庚申]七月十日
一、一本木戸(*5)
一、浜居場
一、追分碑 従是(これより)南川又飯野 西福島 右寺山道
一、太鼓石 談居(註7)[石上に日尊上人法花(ほっけ)を演談し給いたる旧跡なり。ここにて一円寺を見立てたりと云い伝うるなり](*6)
一、舟石 道のかたわらに船の形の石有り、大きさ三間余り、石上に
 南無妙法蓮華経一円精舎 随喜阿闍梨日仁 宇円坊日吉 陽雲庵芳誓(*7)
 明和七[庚寅]稔四月廿八日
一、銀杏の大木 門二つあり 小峠山
一、松尾山一円寺(註8)[法花宗京都要法寺(註9)末寺]
 不納五反九畝歩 檀頭 安倍忠兵衛 高橋市左エ門
 当舎は弘安五[壬午]年建立、開基日尊上人は日蓮上人の孫弟子なり。奥州国司北畠中納言顕家卿の孫なり。
 鎮守には三十番神を祭り七面明神は是経宗応護の神なり。(*8)
 峯の松風、谷の水音、皆梵音の響きありて尊し、当代まで三十余世に及べり。境内広くして古跡なり。
一、鬼子母神 釈迦堂
 愛宕山大権現 この寺内に池有り、鮒片目なりとぞ(*9)
一、撞鐘堂(つきがねどう)[鐘銘略す 銘の終りに]冨士大石師 駿河阿闍梨日堅誌之
 明和五[太才戌子]稔九月吉禅日 大願主当山十九世随喜阿闍梨日仁(*10)
 岩作 内ノ馬場 上ノ内
一、追分碑 右飯野 左川又
一、小手十五番札所観音堂[九尺四面]
 御長さ五尺聖観世音菩薩、大同年中の草創行基菩薩一刀三礼の御作にして応験著し。(*11)
  横雲は東の空に立子山朝日のかげにそむる藍瀧
 鮎流る春の景、花夥(おびただし)く杜鵑(とけん、ほととぎす)の頃、諸人ここに遊んで酒を汲み詩詠をなし、鮎の飛ぶに心を移して星を迎えて帰るなり。(*12)
一、村上薬師堂[一丈四面]別当大楽院
 縁日四月八日
 そもそも村上山は天暦(てんりゃく)年中、阿武隈川の川中に一夜に湧出したる石山なり。数十丈巌石そびえて鳥も翔りがたく古松枝を垂れ、藤葛花を洗いて蒼苔露なめらかなり。
 嶺には薬師如来を安置す。林下は隈川帯て白浪岩を砕く勢いありて、水流の委曲驚蛇に似たり。伊達第一の勝地にして千巌(せんがん)秀を競い万壑(ばんがく)流れを争うたる山水の美と言いつべし。(*13)
 石窟ある処々土俗呼んで蝦夷穴と云う。上代穴居巣居の蹟(あと)かその所由(いわれ)を知らず。十人は十景、百人は百景有るの絶景なり。(*14)
 三沢 合子坊内 遺子内 長走り 野上(註10) 桑ノ久保
一、名号碑[無能筆] 畑ノ小屋 修験往生院(註11)
 竹ノ内 丹波屋敷 疣(イボ)石 医者坊内 小林
一、太平山天正寺[禅宗頭陀寺末寺 不納三反三畝十五歩]
 往古龍己山天照寺と云う。宝暦年中天火にて炎上す、その後太平山天正寺と改む。(*15)
 開山頭陀八世日慶伝朔大和尚
 本尊
一、村高 二千二十二石二斗八升七合 八斗四升七合(朱書)(註13)
一、御林(註14)[長九百間 横二百六十間]無立木 反別七十九町余
一、東西一里 南北二里
一、六十三騎 無知行小貫太郎左衛門 百石橋本内蔵之助 百石安部四郎兵衛
       百石佐久間治郎右衛門 百石本田作兵衛
一、小手庄西の方にあたる村なり、鳥谷野村に隣る、阿武隈川の東岸なり。
一、舘岩明神
一、愛宕大権現
一、月山
一、甚念坊山
一、御林(註15) 北穴

註1一統「一説に昔…信夫小太郎治重と云ふ人大きなる悪龍を殺せし故に龍子山と名負せいと云々」
註2同右「延元二年北畠顕家卿男山より当村八所館へ移し奉て鎮護の神と仰ぎ給ふと云、後世邨内産神と尊信…八月十五日祭礼」
註3一本に「北浦館」
註4一本に「春日館」
註5一統「以上八所旧館、館中各々八幡宮鎮座す又釈迦尊を館毎に安置す…これを八所釈迦と申…按ずるに延元年中、北畠顕家卿奥国司たりしとき、家臣等の居住せるより、北畠武運長久の為に館々に勧請せしものなるべし」
註6同右「此地柿の名産なり御代手柿…一に味能出柿(みよでがき)とも云へり」
註7一本に「談石」
註8一統「開山は日蓮上人の孫弟子日尊」日尊は二人あって一は日蓮-日興-日旦-日尊(実成寺上行院)、二は日蓮-日常-日高-日祐-日尊-日暹と続く。開山の日尊は後者と思はれる。猶、縁起についての俗説は「小手濫觴ー中巻」参看
註9一本に「安法寺」
註10一統「此地に野城と云所あり伊達輝宗朝臣小浜を討し時陣し給ふ所」
註11同右「往生院宅宝院 各修験者 大久保貴見院配下」
註12同右「公朝薪木山」
註13朱筆部分は後に訂正加筆したもの
註14一本に「本内」
註15一統「紋笹沢 北沢に生ず佐々の葉皆紋ある故…沢名を負はす。渡利村…との境にあり…当村は小手荘西の方に当れり信夫郡渡利村に隣」接。

*1「神社考」は『本朝神社考』林羅山。「行教」は空海の弟子。
 「応仁天皇」は応神とも書き神功皇后の子、中世の武家社会以降軍神として顕著。
*2「北裏館」を活字本は「此裏館」。
*3この行、活字本欠。
*4「広記」は南宋陳元靚著『事林広記』かもしれない、生活百科辞典。私は見ていない。
*5この「一本木戸」と次の「浜居場」の下に活字本は「釈迦堂」を付す。
*6「談居」を註で「一本には談石」と記す。活字本は「淡居」、一統は「淡石」。現在も田畑内に残る大石で演壇にふさわしい。「談石」が妥当。
*7「宇円坊」を一統は「宇日坊」。「芳誓」を活字本は「芸誓」。
*8「三十番神」は日蓮宗が特に強調した日替わり神。「七面明神」は七面山の龍女、七面天女法華経の守護神。
  また前行で日尊が顕家の孫とあるのに対し一統の志田氏は時代違いを指摘。
*9「片目鮒」は弘法大師の伝説にある。通りがかりの庭先で焼かれている鮒を見、譲り受けて井戸に放ったら生き返った。以来、この井戸の鮒は片目。
*10「吉禅日」を活字本は「吉祥日」。明和五年は1768年、一円寺建立の弘安五年は1282年。
*11一統の志田氏曰く「後世事を好む者 何も角も行基と慈覚とを仏工師と心得 みだりに此人々の作と云ふらし 世人を計りし事其罪大也」。同意する。
  ついでに言えば、山間の数軒集落に落人伝承がある場合、それが実際は戦国期の北畠その他の落武者だとしても時代経るに従い皆平家落武者の伝になる。
*12一統の記述は「風土記に春景左宜母之花杜鵑之頃は邨人単士殿隠者遊興干茲酌酒作詩詠歌之情斜日十人有十景百人有百景云々」。
  「左宜母(さぎも)」は陰暦五月の呼称「さくも月」の「さくも」かもしれない。「斜日(しゃじつ)」は夕陽。
*13この文は『都図会』「笠置寺」の項から引き写し。その文は「数百丈の巌石そびえて鳥も翔り難く、古松枝を垂れ蒼苔(そうたい)露なめらかなり。麓には泉川を帯びて白浪巌を砕く勢ありて、水流の委曲驚蛇に似たり。山州第一の勝地にして、千巌秀を競ひ、万壑(ばんがく)流れを争ふたる山水の美といひつべし」。
   また前の鮎滝とこの村上記述は等しく『信達風土雑記』から章句を摘んでいる。付記1に述べる。
*14「所由」を活字本は「所日」、一統は「由所」。これは「所以(ゆえん)」「所縁(ゆかり)」「由緒」の意。
*15「龍己山」を一統は「龍王山」。