路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする8東五十沢村

 8、東五十沢村(ひがしいさざむら)(註1)
一、小手十九社正一位熊野三所宮
 延喜式に云う。紀伊国牟婁郡(むろぐん)熊野早玉神社と之に依り以て速玉男(はやたまお)事解男(ことさかお)伊弉冉(いざなみ)の三神、熊野三所権現となす云々。(*1)
 当社は養老年中勧請なり。あらあら指を折るに千六十余年に及べり。例祭八月十九日。
 養老井 石鳥居 石額 階五十二檀 神主高橋佐渡守(*2)
 元文二[丁巳]年正一位神階
  薄霞む森や牛王の村からす 亀六翁(*3)
 糠道内(ぬかどうち) 古内
一、阿弥陀堂[一丈四面]階十二檀 地主 南八郎兵衛
一、十王堂[九尺四面]
一、薬師堂(註2)(註3)[三間四面] 額 瑠璃殿[拝殿二間に五間] 別当三条院
 中尊は日域地主(じしゅ)医王善逝@像、何天の相好(そうごう)にして恵心僧都御作(*4)
 大木の杉数株有り、霊水有り。この井にて目を洗えば陰翳(そこひ)たちどころに晴るるとなり。縁日四月八日。
一、蛇塚
 いにしえ此処に大蛇すみて人民をなやましける時、ある僧都、この塚に埋め封じたるとなり。西にあるを首塚、東にあるを尾塚と云う。その間二百歩程隔てり。
 塚の廻り三十間程水廻り通るなり。江下の農夫、水を直(す)ぐに通さんとて塚のほとりを堀切しに不思議の事ありて止(やみ)ぬとなり。(*5)
一、伊豆大権現 稲荷大明神 鳥居階二十枚 地主高橋多左衛門
一、村高 千三百三石三升 千三十四石六升四合(朱書)(註4)
 元禄十丑年、東西両村に分る。小谷野(おがいの)名主源右エ門代
一、六十三騎 百石[香田]神埜治郎右衛門 百石[中居]高橋大学 百石斎藤清
一、牛頭天王宮(註5) [字]柏崎 松数株あり
 蔵師ノ内(くらしのうち) 館 政所内(まんどころうち)
一、硯山 往古木幡山弁才天の旧地はこの山の嶺にありしとなり。古(イニシヘ)の宮の礎(いしずえ)今にあり。堂の平、堂屋敷など名のみ残り、義家朝臣の乗馬落ちたる処なりとて今に草木生えず、山の曽祢(そね)に窪き処有り。(*6)
 弁天の鳥居の跡とて政所内の前なる田に印の榎あり。ゆえに香田(こうでん)祭り田(まつりでん)の字(あざ)あるもこの謂れなりとかや。
一、幸神(サイノカミ) 岐神(ふなとのかみ)猿田彦命
 この前に橋あり、西五十沢東五十沢の流れ落入るなり。
一、小手八番札所観音堂 [字]梨ヶ作 大松数株有り
 縁日二月十七日[梨は百菓の長と云いて菓子の中のとりわき賞玩なるものなり]
  五十沢やこだまの影は梨子ヶ作何かこたへて夕されの声(*7)
一、地蔵堂 [字]香田 此処より硯石、川中より出る
一、山神宮 [字]光内(みつうち)
 松ノ内 柏葉 一歩ヶ作 祭田 小高屋敷 中居(*8)
 政所内[往古、木幡山の鳥居の旧地なりとて今に命の榎あり](*9)
 蔵師ノ内 霜田 館
一、大六天神
 この大六天宮は八百余年に及ぶとなり。則(すなわ)ち面足尊(おもだるのみこと)惶根尊(かしこねのみこと)を尊崇する所なり。
 この御神は分神一体にして未だ男女差別なく天神第六の御神なれば第六天神と敬し奉る。
 神皇正統記に実に国常立(くにとこたち)の五行の徳、各々神となりてあらわる故に国常立の尊を合せて六代となすとなり。
 また大六天は魔王の棟領にして常に多化自在天(たけじざいてん)に住し給うと云うは仏説に云う所にしてこの御神は格別なり。
 当社は唯一の神道にて神主ありて祝詞をもって神慮をすずしめ奉るものなり。(*10)
一、地蔵堂 小手地蔵詣廿三番 [字]胡桃坂
 この地蔵尊は古仏にして作人を知らず。堂は二間四面なり。縁日霜月十五日 別当三条院 地主菅野庄右エ門。
一、元禄四[辛未]年 東西両村に分る。
一、六十三騎 百石 [中居]高橋大学 百石斎藤清蔵 百石[香田]菅野治郎右エ門
   香田住人神埜治郎右エ門 川又本町三浦義陳 これを記す

註1一統「東五十沢邨 公邑。東綱木の西にあり、当邨は山中にて沢の多く有る故に五十沢と云うか、又は五十と書てイとのみ訓めり、然ればイはイヤの心有れば沢の多くある地、即ち五十沢(イヤサハ)と云う義なるべし…元禄十年三月両邨に分る高千三十二石六升四合」
註2同右「除地五十五間四面…本堂の後に経塚あり」
註3同右「虚空蔵堂、薬師堂の北にあり、御丈五尺余、三月十三日祭礼…除地二十間四面」
註4村高朱書にて「千三拾四石六升四合」と併記してある。
註5一統「六月十四日祭礼」

*1「延喜式」の撰を終えたのは927年、平安時代初頭になる。「熊野早玉神社」の記載はあるも当時「三所権現」が成立していたかそれは知らない。1130年にはできていた。
  「熊野三所権現」は通常本宮の家都御子大神(けつみこのおおかみ)、新宮の熊野速玉之男神(はやたまのおのかみ)、那智勝浦の夫須美神(ふすみのかみ)を指し漢字表記は様々にある。
  「速玉男」はイザナギが黄泉国から逃げ帰るさい吐いた唾から産まれた。これをイザナギ当人と読む説もある。その唾を掃き払ったのが「事解男」。いくつか資料を読んでみたが「事解男」の説は腑に落ちない。今思案中。
  イザナミの埋葬地を古事記は出雲と伯伎(ほうき)の堺にある比婆山(ひばやま)とするも日本書紀は熊野と記す。その故あってか宇多院の907年熊野御幸以来何人もの天皇が参籠している。仏神水波、習合によって熊野全体を浄土と見る説法も生まれ吉野にかけて修験道発祥の特異地ではある。
*2「養老井」を活字本は「養老碑」。
*3熊野では神の使いが八咫烏、神社で配布する牛王宝印(神符)には文字の線に図案化したこの烏が並ぶ。それを模したか九州の彦山では鷹の午王宝印。神の使いは教派仏神によりさまざまあって春日の鹿、稲荷の狐、日吉の猿、富士山の使いも猿、大黒天の白鼠、変り所は虚空蔵菩薩の鰻。
*4「日域」を活字本は「日城」。地主(じしゅ)とは守り本尊、薬師瑠璃光如来は東方浄瑠璃世界の主、光照らす所隈なくの意味ゆえ「城」は誤り。
  「医王善逝」は薬師如来の別名。「善逝」とは彼岸に達して二度と汚濁の現世に戻らない仏のこと。
  @は人偏に「リ」「可」を並べた字、活字本は人偏に「何」、適字不明。
  「何天」の意味も私は知らない。教えを請う。「荷天(天を荷う)」あるいは「荷天(天の蓮)」かもしれない。
  「相好」を活字本は「相婦」と誤記。
  本尊の薬師像は平安中期の作で県の指定文化財。他に納まる像について1976年調査が行なわれ、14センチの糸繰り姿座像と22センチの蚕養神(こがいしん)立像が発見されこの二点は町の文化財に指定された。蚕養神は文政五年の作。私はこの調査報告書を見ていない。
  別当の三条院は聖護院派の修験。現存社殿の木鼻の一つは町飯坂春日神社にあるのと同じ白澤(はくたく)、人面にして蹄の足。海老虹梁や木鼻は禅宗が中国から齎した建築様式であり、木鼻の名称を知らなかった私は長年「向拝柱(ごはいばしら)の突き出物」と呼んでいた。龍、唐獅子、獏の三種以外は珍しい。
*5「江下」の江は草体字のまま書き、「江」カとルビしている。活字本は「此下」と記す。
*6「など」は「抔」、活字本は「杯」と誤記。
  「曾祢(そね)」は低く続く峰。
*7「五十沢」は現在「いさざ」と発音するも、この歌の場合「いそさわ」と読むのだろうか。本文の註1には「イヤサワ」の訓も記す。
*8「命の榎」は乳房の形をした瘤を持つ榎であろう。乳の出ない女性が願掛けをする乳銀杏と同じ信仰。円朝には『怪談乳房榎』の作がある。
*9「神慮をすずしめる」は「神慮を鎮める」の意味。「涼しめる」や「清しめる」と書くが現代では使われなくなった。