路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

ナワシロイチゴ、エビガライチゴ



 エビガライチゴ。
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 上の2種は祖が同じと見え、開口の小さい花の形態がよく似ている。キイチゴナワシロイチゴ節に学者は分類する。学者の皆様にお願いしたい。分類に際し理由も提示いただけないだろうか。若い頃、何で読んだか書名を忘れたけれど「地上の昆虫の味に惹かれ両生類が爬虫類になった」との記述に詩的な感興を覚えた。あるいは「アメリカ両大陸が結合した結果、赤道近く東西に走る海流は南北に分かれ大陸の両岸を暖めさらに極地へ氷河の水を供給した」など。何事であれ理由が明示されるのは心地よい。山間を走る電車が鉄橋にさしかかり、谷間から彼方の山、遥かな海面など展望が開ければ乗客皆窓外に視線を送る。見晴しのよさは快感になる。
 例えば「エビガライチゴはナワシロイチゴを祖とし、△△△△との交雑によってガクの毛に赤の色素を獲得し、次に××××との交雑により先端が尖る葉の形を持つようになった」という具合の記述を期待する。DNA分析なら可能だろう。
 DNA分析に期待するのはそればかりではない。ヒゴスミレがエイザンスミレと異なるのは葉の細さと五深裂、さらに花弁の白さも加わろうか。しかし現実に白っぽいエイザンスミレは数多いし、細い五深裂と見た葉が花期を終え、葉の幅を広げてゆくのも目にする。私はこの2種の区別を無意味と考えている。スミレ好きの方なら「それはヒゴスミレとエイザンスミレの交雑種だ」と言うかもしれない。ある獲得形質が数代続いて種の名を得る。ヒゴスミレもしくはエイザンスミレ、どちらであれ種名を立てるに値するか、決着をDNA分析に俟ちたい。
 同様にタチツボスミレ系統のいくつか、オトメスミレとシロバナタチツボスミレの種別は妥当だろうか、分析を請う。
 ホタルブクロとヤマホタルブクロの違いはガクの切れ込み部、その凹凸一点にある。そしてどちらも赤花と白花を持つ。だからとてアカヤマホタルブクロやシロヤマホタルブクロとは誰も言わない。学術を装った植物種名の中には人間の功名心による無用な名前がまぎれている気がしてならない。


イメージ 5 間抜けな話、長らく私はエビガライチゴの毛を針や棘と思い込み触れないようにしていた。エビガラの名前から短絡したもので、ガクも甲羅の硬さであると。実際は毛であり、よく見れば先端が胞子状になっている。先日触れたところ少し湿りがあり何かを分泌しているのか、それとも昨日の雨の名残りか、分泌なら虫の姿が多数ありそうなのにそれは見当たらなかった。



イメージ 6 間抜けついで、宅地の一角にこれを見、新たな外来種と思い込んで図鑑を探った。何しろ葉に較べ花の小さいこと、この不均衡は異常だ。宅地であるから栽培種の零れかもしれないが、まさかこんな小さな花をわざわざ栽培するとも思えない。


イメージ 7 そう、私的にビショウギクと呼ぶ、ごくありふれたハキダメギク、その咲き始めの一花だった。花は小さくとも数多ければ葉とつり合う。

 野草を見るようになって三年目ぐらいのこと、草薮に3センチほどの白と赤紫模様の派手な筒状花を見た。葉はヤブランの葉に近い単子葉植物の線形。これほど目立つ花なのに名前が浮かばない。(おれは新種発見か)胸ときめかせ、当時カメラを持っていなかった私はメモ帳に花の形を書き写す……が、下に地上茎のようなものが見えた。それを目で追ったら樹上に届いた。そこにはお馴染のクズ。風か獣の跳び走りで地上に落ちた蔓、まだ一花しか開いていない小さな花房が単子葉植物の株の中心に載ったというわけだった。
「普段、頭上で房になって咲く花が一つだけ地面にあると案外わからないものです」知人に述べたが愚かさの言い訳としては弱い。


イメージ 8 巣が壊れそうにまで育った燕。翌日には飛び去っていた。燕は飛ぶ体力と能力が備わって巣立つのか、住むに狭すぎるから飛び立つのか。
 この巣は早いほうで現在まだ多くの軒下に子育てが進む。昨日そんな巣を見上げていたら親燕がしきりに私の頭近くを縦横する。「あっちいけ」の意思表示。ただそれほど攻撃的ではなく、声の威嚇もない。十回ほど飛び回ったのち電線に羽根を休めた。

 以前、とある山道で猪親子に出会った。脇道の向う20メートル先に居て、私を見た子供が嬉しそうに走ってくる。町中で偶然知人一家に会い、小さな娘が「おじちゃーん」と駆け寄ってくるそんな具合だ。母猪が「キィーッ」と金属質の警戒声を放つと子供猪はすぐに踝を返し共に藪陰へ去った。


イメージ 9 定点観測と称し月一度は歩く道の休憩点。数年前、いつものようにここへ腰を掛けたら何蜂かしらない、脚長蜂よりひと回り小さい蜂が羽音立てて向ってきた。様子見の飛行ではなく明瞭に攻撃の突進だ。(おれはお前の怨みを買うことはしていない)と思いつとっさに手で払った。小指下の手のひら横側を刺された。私の痛みと痺れは三日で消えたものの、どうなのだろう、蜂の中には針を放出すると死ぬ種類があるという。その種の蜂なら気の毒でもある。この階段の2段目下に蜂の巣があって気づかなかった私の迂闊だ。
 それにしても蜂の体重は数グラム、私は数十キロ、数万倍の相手に単身攻撃を仕掛けるその精神に驚く。私はゾウに立ち向かう勇気がない。それどころか小柄なオバチャン相手でも口先で歯が立たない。ヒト科と蜂では思考回路が違うと結論しかかった時、思い出した、何年か前、ニューヨークの高層ビルに飛行機で体当たりしたヒト科がいる。そして日本軍神風特攻隊、その発想モデルは蜂だったのか。


イメージ 10 道路から写したとある庭先の猫母子、佇む位置が母と子である。もし私が庭へ一歩踏み出したらこの母猫、身を低く尻を浮かせて威嚇声を放つだろう。その声で子猫は奥へ走り去る。私が子猫へ目をやった隙に母猫も逃げ去る。
 ただし、私が手に鰺の干物でもぶら下げていたら猫の態度は逆になる。「ミャーン」と寄ってくる母猫、干物をやれば食いつく、そこへ走ってきた子猫が反対側から食いつく。母猫は食うのを止め身繕いなどしながら子猫が食い終わるのを待つ。子猫が食い満ちて去る。干物が断片でも残っていればそれを平らげ、もし私がまだそこにいるなら再び「ミャーン」と寄ってくるだろう。
 猫も子供のうちは遊びをするものの飼い猫身分の母親ときたら、食うか、寝るか、侵入者を威嚇するか、行動が三種だけになる。較べてヒト科のオバチャン達はよく動きよく喋る。
 昔、野毛山動物園で見た禿鷹は、止まり木の上で石化した如く微動もしない。暇だとてパチンコに行こうか酒を飲もうか考えない。必要な食を得ているからは何欲する無しの趣であった。


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 貫禄のアカガエルと尻尾の消え残る幼なアマガエル。
 食いつ食われつの生物相、この幼なアマガエルの脇の田んぼは昆虫に食い破られ、潰れた葡萄さながらオタマジャクシの死屍累々たる一画になっていた。一つの生体はその生体になりえなかった無数の死を含む。
 ヒト科の女性が胎児の時点で持つ原始卵胞の数は五百万から七百万という。実際に卵子となるのは月一であるから生涯せいぜい五百個。較べて精子は若い男なら一日一億個も製造する。西洋騎士道に発するレディファーストの道徳律はこの事情によるだろうとは私の山勘。
 以前バイト先で若い男が家庭内身分を述べた。
「うちで一番偉いのはお母さん、次が妹、その次お父さん、次が猫、その下がぼくです」平穏な家庭を推測できる。
 

イメージ 13 若いトカゲ。尾は宝石の輝きを放つ。若さを意味する青春の「青」はこのトカゲの尾に由来する(嘘です)。「トカゲの尻尾切り」とは若い人の才能に嫉妬した老大家がその若者を徹底的に排除するという意味である(これも嘘です)。

  梅雨時を命の春にやDNA  凡脳


 二週間前、いつも新聞を読みに通っている公民館で顔見知りのおばちゃんが言った。
「屋根にフクロウいるんです。ずっと。飛べないみたいで」
 二階から見下ろせる玄関の屋根にそのフクロウはいた。もし捕まえられるなら鳥の餌をあげてもいいし、山へ放して自然に任せようとも言う。この人は山間の数軒集落に住みシャモの飼育もしている。
 館内で網を物色したが見当たらずゴミ用のビニール袋を手に借りた脚立で屋根に上った。
 近づく私から逃げようとてフクロウは羽ばたきして横ずさる。やはり飛べない。ビニール袋に足から入れる形で捉え、顔と頭は外に出ている。小脇に抱えると抵抗しなかった。十五センチの距離で見つめあうその目はまん丸。フクロウの眼球は固着しておりヒト科の用いる横目、流し目、あるいは自民党幹事長のような斜め下に相手を見る芸当など不可能だ。
「だいじょぶだよ」声を掛けたものの通じたかは不明。
 おばちゃんが用意した段ボール箱に入れた際にバタついたもののすぐ静かになった。フクロウなら暗いほう安心できよう。
 三日後、そのおばちゃんに会ったらフクロウは元気になり少し飛べるという。祝着至極。かつて飛べない雀や燕を放置した身としてほんの少々自責を減らした。
 勿論手柄はおばちゃんで私はおこぼれの余慶、比喩的に言えばまともな隣人でありえたというだけのこと。
 ただ私は動物愛護鳥獣保護その他人道的感動的いかなる運動にも関与しない。つい先ほど憎しみ込めて蚊を叩き潰した。