路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする22上糠田村

 22、上糠田村(註1)
一、女神山
 小手五岳の一つなり。古諺に信夫城主佐藤庄司の娘、薬師の尊像を負い奉りこの峯に登りぬ。そのころ糠田村村民十八軒なりしが一同に霊夢を蒙りて互いに奇異の思いをなし、この峯に登りて見るに霊夢に違わず一女薬師の尊像を負い奉る。即ち、仮堂を営みしとなり。その後薬師堂を建立せり。然るに建武年中霊山に北畠中納言顕家卿在城の砌、今の負見山に遷せしと云々。(*1)
 この女神山は青木峠と陰陽の山にして筑波の女体を移せし山とぞ。祭礼は三月十五日。
 蛇石 釜石 東物見石 西物見石
  めがみ山しげき小笹の露わけて入そむるよりぬるる袖かな よみ人知らず
  山の名の紛わし花の裾もやう [隈左]呂角
  透通るめがみの山の落葉かな [又水]真丹(*2)
  笑ひ声玉も寄るなり山ざくら [保原]冑六
  花の香に猶奥床しめがみ山  帒児
 この山、東は糠田、南は手渡、西は秋山、北は小国、四ヶ村に根の張りたる山なり。
一、熊野大権現 小手十九社 [神主]伊藤紀伊
 鳥居 階 長床 本社
 紀伊国三熊野(みくまの)より三つの烏飛び来たりて化すと云えり。六月十五日祭礼。社は杉茂りていと神さびたり。(*3)
 祭所 伊弉册尊(いざなみのみこと) 事解男神(ことさかおのかみ) 速玉男神(はやたまおのかみ)
一、東王塚 山名なり。女神、東王塚、麓山、御代田五光山まで山つづきなり。
一、麓山大権現 [神主]伊藤紀伊
一、勢至堂 [地主]佐藤弥右衛門
一、岳林寺 いにしえ糠塚山と号し、近代東照山と号す。禅宗羽州米沢正眼寺末寺。橋二つ階十枚。
 葷酒不許入山門の碑[日州立] 本尊釈迦牟尼仏 前の森に石彫の十六羅漢(*4)
 石の羅漢 [天明年中]日州恵輪和尚建立
一、小手廿七番札所観音堂[三間四面] 階十八段
 石の燈籠二基、銘に曰く延享三年[当村]斎藤清右衛門 延享四年[当村]斎藤蔵人
 大木の柏木数株あり、銀杏の古木あり。字上ノ坊。
  おも稲の草をぬかだとまふで来て人の心のみのらざらめや
一、薬師寺[保原長谷寺末寺真言宗不納七畝歩]
 建武年中、女神山の頂より霊夢によりてこの地に移しけるとかや。その節迄山号を医王山と号しけるに、薬師瑠璃光如来の眉間放光の瑞相によりて眉間山と改む。四月八日八月八日縁日なり。参詣群集す。
一、観音堂 柳平 入山
一、小手地蔵詣第三番地蔵堂 地主與右衛門
 越途 細田 酒戸の内 引田 神ノ内 坊池
 八藤内[むかし藤氏の人居したるゆえ字名とすと云えり]
 入ノ内 @畑 日向(ひなた) 河原 早稲田 坂下(*5)
 踊り坊 古碑あり元暦元[甲辰]年(*6)
 「大水和泉田川、小手川に合す(*7)
 末ツ家 坂下 山ノ神 平(たいら) 道林澤 長畑 岫(くき) 元苗内 天坂(*8)
一、修験 高山院 浄法院[不納三畝歩] 清浄院
一、小手地蔵詣第四番
一、畑中 舘ノ腰 土橋[この下にて糠田川、小手川に入りける]
一、村高 千四百二石五斗一升
一、追分碑 右飯野 左川俣道
一、土地大豆に宜し
 大豆は申に於て生ず、子に於て壮し、壬に於て長じ、丑に於て老し、寅に於て死す。甲乙を悪(にく)み、寅卯を忌(い)む。(*9)
 豆を種(う)うるに夏至の前十日を上時となす、夏至の日を中時となす、夏至の後を下時となす云々。(*10)
一、六十三騎 二百石 左藤弥右衛門

註1一統「村邑」

ガリ版本はこの位置に附録を置く。明治期の書冊所持者、熊野神社宮司伊藤氏の書き込んだ文章が七ページほどあり女神山の前説や六十三騎のリストなど含む。それを今は略す>

*1一統は人々が山に登ったところを「霊夢に少しも違わず嬋娟たる一美女薬師如来を負奉り居給ける 邨民等是を労はり 即仮に草の庵を結び姫諸共是に入れ奉る」と記し文章は一統が上。また「負見山」を「眉間山」とする。
   集落の人々が同じ霊夢を見る設定は説経節の定型。
*2「落葉」を活字本は「若葉」。花続きの句ゆえ「若葉」が正しかろう。「又水」は川俣、「真丹」は筆者の俳号。
   前行の「紛わし」は音数が合わない。「ふさわし」かもしれない。
  次行の「冑」に「曾カ」とルビ。一統は「冑大」とする。これは保原とあるので「亀六」だろう。口太山の項でも「笑い仲間」の句がある。
*3「神さびたり」をガリ版本は「神久ひ多り」とし「久」にママのルビ。
*4「日州」は日向国、現在の宮崎県のことだけれどこの文章の場合は次行の僧名の意味、日向出身の僧かもしれない。「日州立」は欠字。実際は「日州立之(これをたつ)」。この石柱や羅漢像は現存する。
*5@は手偏に猪、活字本は木偏に猪として(楮カ)とルビする。
*6「元暦元年」は1184年、一ノ谷合戦のあった年、翌年壇ノ浦にて平氏滅亡。「踊り坊」を一統は「躍坊」。
*7この行、どの地名に付けたかわからない。活字本は「古碑あり 元暦元年 大水和泉守 関へ鍛冶修行ニ出テ関ヲ破リタリトテ大水と云々」こちらの文章も意味が通らない。
*8この行を含めた以下の四行はガリ版本に無く活字本より写した。修験の「高山院」を一統は「方山院」と記す。
*9これは『雑陰陽書』の言。活字本は「申」を「甲」、「老」を「考」と誤記。
*10これは『氾勝之書』の言。両書を引用した『斉民要術』からの引用になる。更に言えば『斉民要術』を引用した日本の農政書からの引用。