路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

石原発言

 この時刻ゆえ酩酊状態で述べる。
「最後は金目(かねめ)」は現代の常識だ。
 マスコミがこぞって槍玉に挙げ、野党は問責動議を出し、こちらの知事だの町長だのは「県民の心を踏みにじる」「避難している人の心に寄り添ってほしい」とか、さも心外げに語る。
 そう、例えば、「住民の心に寄り添う」など知事得意の発言だけれどこれは意味を成さない。一方で「こんなとこ住みたかねえ、賠償金取っておれは移る」と言う人があり、「ここにはお墓もあっし、他所行け言わっちゃって、おら、なじょしていいんだかわがんねぞい。帰られるようしてくなんしょ」と言う人もいる。どちらに寄り添うというのか。中間処理施設予定地の地権者は千人を超える。
 かつて自民党政権は大規模公共事業にゼネコンを使い、ゼネコンはヤクザを使い、反対者に飲ませ食わせ抱かせ、最後は札束でツラを張り事業を完成させた。その思考法が今も地方行政に受け継がれ、首長は中央のゼニをいかに多く引き出すかを手柄の基準としている。「おれの顔は厚いんだがんない、もっと分厚い札束で張ってくなんしょ」と(好例は現沖縄知事)。
 今、私が注目するのは土地国有化にゼニ以外の理法が生まれるかどうか、その一点にある。
 忘れないでいただきたい、現在は中間処理施設段階であることを。
 つまり、最終処分場など迷惑施設の設置方法、その新たに有効な論理と手法をまだ誰も見出せずにいることを。

 以上、別に石原ノブテルを擁護する意図はない。
 震災後、民主党大臣が県内を訪れ「死の町」と発言したら、時の自民党幹事長石原は記者とテレビカメラを前に「万死に値する」とほざいた。万死に値するのは自民党だろうに、とは私の思い。
 先年の参議院選挙で自民党はこの県でもダブルスコアで圧勝しており私の意見などごまめの歯軋りに過ぎない。