路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

川俣町の春日神社(白澤及び黄道二十八宿)

 連想に任せて書いていたら無駄に長い文となった。論脈を整理できない頭の悪さを証明する。
 きょうお尋ねしたいのは二点、お読みのあなたの身近に白澤像があるかどうか。また、黄道二十八宿を祀る神社があるかどうか、そしてそれが社殿の裏側に位置しているか、なぜ裏側なのかがその疑問。
 間違ってこのブログを開いた方、冒頭の白澤像とずっと後ろの木簡写真のみをご覧頂きたい。私の文は読むに値しない。

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 知り合いの方から、この町の郷土史家、高橋圭次氏の文を見せていただいた。「川俣文化28-1」と「28-4」。
 春日神社の社殿に古代中国の神獣白澤(はくたく)像があるとのこと、私は白澤の語も知らなかった。左写真の上方直角に突き出ているのは獏と唐獅子、下段が白澤。善なる為政者の世に現れ人語を解し、黄帝が出会って天災病害を除く法を教わったという。ならば像は厄除けの意味になろうか。
「白澤像は疾駆する姿の前半身像で、頭部は人面に三眼と一対の角、山羊のような髭があり、胴体の左右に3つずつの眼と二本の角があり、足は牛のような蹄です。国内に白澤図は知られていますが白澤彫刻の所在は見当たらないので川俣春日神社が国内で唯一かもしれません」と高橋氏は記す。
 この写真は塗装も剥げ風化もあり姿不明瞭なれど『白澤像』でネット検索すれば岐阜県各務原市内藤記念くすり博物館所蔵の張子製白澤像の明瞭な写真を見ることができる。顔つき髭髪などはペルシャ風にも見え白澤は文明を伝えた異民族と解釈もできようし、人面獣身像はエジプトメソポタミアからの東漸かもしれない。
 ネットでは目黒五百羅漢寺の像も出る。

 現在の社殿は1740(元文5)年、暴れん坊将軍吉宗時代の建造になる。将軍がサンバを踊ったかどうかは知らない、当時の民間信仰庚申会には青面金剛(しょうめんこんごう)あってこれも三眼。以前、石仏に関心を抱く知人からその石像を教わり、里山歩きのついでとばかり注目して町内でも30体ほど見つけ知人に報告した。製造年代が読める範囲ですべて江戸期のもの、ただ風化もあろう明瞭に三眼の刻みある像は少なかった。この仏像は足元に三猿もしくは三尸を置く。
 三眼とは(おれは、お前らの心の中、過去世、来世もお見通しよ)の意味合いと想像する。一つ目については柳田国男の著作がある。
 同じく3の数字ながら古代中国人の想像による三足の意味合いがわからずにいる。太陽に住む三足の烏、鼎など三足の器、その器について学者は祭器であると述べて済ます。私が知りたいのはいかなる心情による祭であり器であるのかなのに。ついでに言うと三足の器は古中国とメソアメリカにのみ見る(ペルシャの古陶器に三足の水盤を一つ見たがそれは中国からの西漸だろう)。氷期の太古にバイソンを追い、シベリアからアラスカへ表出した陸橋ベリンギアを渡り、氷の回廊を経て何世代かを費やしアメリカ大陸を南下したのは中国大陸にあって三足の意匠を見出した民族の末裔と空想する。あるいはメソアメリカの神獣、羽毛のある蛇は竜に等しく、竜は水神、中国大陸から南洋の島を伝いイースター島を経てアンデスの麓に到達した海の民を空想してもよい。中国の古代絵には人面魚身や人面鳥身などもある。

イメージ 3 地元の人の日常会話ではここを春日様と呼ぶ。我が家は近所にあり子供の頃は遊び場にもし、オオムラサキを初めて捕ったのもここになる。小学五年頃か、長床で巫女姿の女性達による奉納舞があり、中に同級生がいて美を覚えた記憶もある。毎年、大晦日の前日ぐらいには神主宅へ「歳神様を受けに来ました」と訪れ、お札と御幣を頂いてくる。亡母は毎日神仏へ手を合わせる人だったのに、この馬鹿息子は信仰心のかけらもない。神仏へ何かを願う、祈る、あるいは礼言する、その心を持たない。神事や建築の知識も覚束なく誤記あれば指摘を乞う。
平安時代に奈良興福寺の荘園だった川俣地方に、奈良の春日神社の分霊が荘園の守護神として、嘉祥3年(850)に勧請されたと伝えられています」(高橋氏)
 春日神社と興福寺藤原氏氏神氏寺、承和の変が842年、小町の歌が聞けたかもしれない時代のこと。これは蛇足で言う。小野小町は朗詠に秀でていたのではないか。証拠は無い。何年か前に韓国映画『風の丘を越えて』のビデオを見ていた際に舞い降りた空想になる。作歌の「胸走り火」の語は抑揚の上で少し流れの躓く感があり、6音や8音の字余りも多い。それらは独特の歌唱によってもたらされた言葉かもしれない。雨乞小町は広く伝わる話だけれど文字面で見る和歌自体は凡庸な作だ。それが伝説化するのは何かパンソリのような独特な唱法に素晴らしさがあったのではないか。小町は今来の渡来人、あるいは二世、他言語の抑揚を知る人かもしれない。
 それは措いて、850年は藤原良房天皇の外祖父として天皇家と一体化し、以後藤原氏平氏の台頭まで三百年近く繁栄を続けた。平氏に第一の権は譲っても公卿として氏族の命脈は存続しDNAの伝播は今も日本に広く及んでいるだろう。日本に多い佐藤の苗字は藤原を佐(たす)けるの意味らしい。加藤なら加勢する、伊藤は地方長官か、斎藤なら神職、工藤は藤原家の職人、およそ何藤の苗字はすべて藤原氏ゆかりと解することもできる。
 二十数年前、なぜ良房は自ら天皇になろうとせず外祖父の地位をめざしたのか疑問を起こした。史書など書き換えればよい。それをしなかったのは部族氏族水準での経験則によるのではないか、藤原氏の祖、中臣鎌足は妻問い婚と、不稔の年には王が殺される習俗を持った渡来系の人かもしれない。古い本を読む場合はこの空想を意識の隅におく。
 その藤原氏や三足の器、他にも幾つか歴史上の調べ物はあったけれどすべて今は杜絶している。この地に戻り16年、町に図書館はなく、福島市へ通うバス代もない、ネットで調べるには私の目が耐えられない。いや、町に図書館が欲しいと言っているのではない。以前、関東の20万都市で仕事をしていた休日、図書館の歴史辞典を開いたら、ページをめくった際にパリッと製本時に生じたひっつきの剥がれる音がした。新本ではない、十年前発行の基本的辞典(吉川弘文館国史大辞典』第1巻)、そのページは誰も開いていなかったと知れる。漱石三四郎が図書館へ出かけ、どんなマイナー本でも必ず誰か読んだ形跡あるのに驚嘆したのは昔話と化した。人口1万4千のこの町に図書館を造ったところで無駄な出費、宝の持ち腐れになるのは見えていよう。ただ、部屋に百人いようと話し声なく机と椅子があり無料で居られる静かな場所なら切望してやまない。
 私が日本史について調べる場合の最初はこの辞典だけれど、古代中国については、のっけのとっかかりに『諸橋漢和』を使う、語句と出典を得て明治書院の漢文大系に移る、二段構えのとっかかりとする。いや、していた。いやいや、こんな教養あるかの言い方も変で、私など古文書は読めず漢文とて返り点がなければ途方に暮れる素人だ。ただ空想と思考を遊んでいる。

 愚痴はさておき『古事記』では中臣の祖を天の児屋の命(あめのこやねのみこと)と記す。この命は天照大神が岩戸に隠れた時に鹿の肩を卜し祝詞を唱え鏡を重要な道具に用いた。鹿は春日神社で神の使い、鏡は御神体、その理由と読むのも可能であり、中臣氏が祭司系の人とも読める。春日の鹿、八幡の鳩、日吉の猿、三輪山の蛇、菅原天神なら牛、神の使いはそれぞれにあり、それは氏族部族の指標ともなったろう。与太を述べれば昔話『猿蟹合戦』を私は猿族に迫害されている蟹族を臼族と蜂族が支援した部族抗争と読む。『桃太郎』は安い報酬で猿族と雉族を従え海外遠征し財宝を奪ってくる話であり、川を流れてきた桃からの出自譚は別の話だろう。

 生活単位は家族があり、部族氏族があり、民族があり国家がある。個人から国家人種人類どの水準においても延命を行動の動機とする。生命体は一様におのれの種を数倍化させる機能を体内に持つ。ただし数量確率は種によって異なる。また倍化増量が基本だとてバッタのある種は成虫個体が増え過ぎ食糧危機を感知すると生殖機能が止まる(日本の少子化は人口圧によるかもしれない、上空からの写真で見る東京の密集は異常だ。子育て云々の話はあるも戦後はもっと劣悪な社会環境で子を産み育てた)。また別に、男女数のバランスが崩れた場合に個体が性転換する魚類もある。
 いや、藤原氏の話だった。『古事記』の註に丸邇(わに)氏が今の天理市から春日へ移って春日氏となりしばしば皇室へ女を奉ったとの記述から思い浮かべたのは采女のこと。春日神八乙女舞などの神事は采女選考美人コンテストを兼ねていなかったか。神主と土地の頭株が酒を回し飲みながら女の品評する。
「都へ上げんには二番目がいいんでねえか?」
「いやあれは、おらいの嫁にすっからだめだ」
「三番目は」
「あれはよ、おちょぼ口して大人しそう見えっけんちょ、気ぃ強ぇぞ。むぐれっつど引っ掻いでくっかんな。大君の顔引っ掻いてみろ『どごの娘だ、小手庄だ? 潰せ』となってはおおごとだべ」
「ほう言えば、おめえこないだ目の下に傷作ってたな。いい年こいてまぁだ女のケツ追っかけてんのか」
「いやあれは、薪取っしゃ行ってウコギで引っ掻いたんだでば」
「どうだか」
 など、品定めは雨夜と限らない。神社は地縁集団を纏める機能を持ち、主社と末社は地縁集団を自派へ組み込むシステム。地方の富と美女を中央が吸い上げるシステムは昔からあったということだ。小野小町采女説もある。
 後宮三千の中国皇帝ならずとも古代の王は美女を集める癖がありジンギスカンのDNAはユーラシア各地に広く分布している。万葉集に残る鎌足の歌は(俺は天皇から采女を貰うほど信任厚い有力者だ)との解釈が付きものだけれど、単純に(ええなええな、やっぱり若いおなごはええな)と喜ぶヒヒ爺と解しても誤りではない。

  (ここで古事記を読んでの愚かな感想や天皇制、権力の二重構造、政治家の責任の取り方など書いた数十行は後日送りとして削除)


 春日神社の話だった。社殿に戻る。獏と唐獅子、白澤は先に出した。
イメージ 4 彫物などの細工品(あるいは建材もか)は江戸職人の手になり船で相馬港へ、そこから川俣へ運ばれた。







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 唐破風の下に鶴、向拝柱(ごはいばしら)の礎石は亀。これで鶴亀縁起がええわえ、とは言え、何々の命を祀る神社に鶴亀の対は江戸人の意匠、場違いな感もする。鶴でなく鳳凰なら似合うだろう。
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 鳳凰ならあった、欄間のような透し彫で竜もあり、鸞もある。この写真は判別しにくいため竜だけ置く。






イメージ 8 勅額は法性寺大納言(藤原忠通)の筆と裏面に記す。







イメージ 9 閻魔大王を連想した。いかにも冥府の判官みたいな人面あり。子供の頃は気付かなかった。鈴の綱に掴まり「ターザンだぁー」と揺れた罰当たりも見られていたか。人面の上部に文字列のような墨書あるも判読できず。




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 花の彫物も数あり、その花は菊か牡丹か芍薬か、天香国色牡丹を想起したとき脳裏に浮かんだのは1970年頃の高倉健
 世間の出外れ者を抱えまがりなりに地域密着型の渡世を営む若親分。そこへ銭儲けしか念頭にない新興ヤクザが侵食してくる。迫害妨害侮辱を耐え、子分達をも抑えてきたが侵食は止まず、ピント外れながら純な心を持った子分の一人が嬲り殺される。決然、衣服を換え、箪笥の下段から長ドスを取って外に出る。深夜なれば人もない。ただ、とある軒下にやはり長ドスを抱え池部良が佇んでいる。たった一人の身寄りである妹が病院で亡くなり、もはやこの世に生きる理由はない。高倉健とは別派だが個人としての共感はある。「ご一緒します」。頭を垂れる高倉。並んで歩く男二人に会話はそれだけ、おばちゃんみたいなべちゃくちゃしゃべりはしない。折しも雪、池部良が傘を広げる。歌が流れる。多勢に無勢は分かりきったこと、向かうは死地になる。敵一家の前に着き刀の鞘を払う。戸を開ける。土間に居た男が「殴り込みだーっ」声を挙げ、わらわらと現れた子分達と斬り合いになる。東映という映画会社は長く勧善懲悪の娯楽物を撮っておりひねくれ根性の悪役子分を演じる大部屋俳優の層は厚い。テレビドラマで少し名の売れた劇団俳優が敵役の親分にキャスティングされても顔の造り、表情において子分に見劣りする場合もある。そして高倉健の立ち回りは刀をバットか真木撮棒を揮うように扱う。それまでの東映時代劇は毛筆で米の字を書くような所作だった。形だけ勿体つけた残心などもない。部屋から部屋への斬り合いは庭から廊下へと続き池部良が倒される。瞋恚の炎さらに熾盛、子分達を斬り伏せついに親分を一室に追いつめる。一対一では高倉健に敵すべきもない親分、
「ま、待ってくれ。た、た、た、頼む」この期に及んで命乞い。
しかし、
「てめえ、腐りきった野郎だ。死んで貰うぜ」倒される。
 諸肌脱いでいる高倉の背には唐獅子牡丹。高倉健とは春日神の権化か。
 すでに夜は明けており、列をなしてやってきた官憲に対し従容と縛につく姿を遠景映像に劇は終る。(私がしたのは部族抗争であり、国家反逆の暴力意志はありません)との劇構成になる。
 牡丹に唐獅子、竹に虎は古くから画題に用いられ春日神社と直接結びつけることもないのだが、例えば伊勢神宮の素樸清浄森厳と幽邃に比して、等しく神社を名乗り鳥居を立てながら春日神社は威嚇と攻撃性を蔵しているかに見える。同じ朱を用いる稲荷神社とは部族の違い、伊勢神宮とは民族の違いと言えないか。
 また神社というもの、憎い男を呪い殺す牛の刻参りに用いられる。五徳を冠し、胸に紐鏡、神木に藁人形を釘で打ちつける。この呪いの満願は七日。男達よ、女の恨みを買ったら余命七日と心得るがいい。

イメージ 12 狛犬は魔除けゆえ威嚇的で不思議はない。それにしてもこれは善良な子犬を悪鬼が踏んでいるように見える。小学生の頃、遊んでいた同級生に玉を銜えているのは上等なのだと教わり、いかにして彫ったを不思議とした。それは心の内だけ、友人と交代で足を支え攀じ登って唐獅子に跨った。これまた罰当たりガキ。
 狛犬の元の意味は高麗犬。そして唐獅子は猪(いのしし)鹿(かのしし)と区別しての音標になる。シシの音は獅子、猪、鹿、肉に使う。猪独活、鹿威し、肉置きなどの言葉がある。なを、伊勢神宮は猪と鹿を忌避する。「シシ食った報い」の俚諺

イメージ 13 本殿に戻る。回廊部の突き当たりは竹に虎。








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 真裏に石室状の祠がある。これも小学生時分、大正生まれの父親からそこに鹿を飼っていて花塚山(はなづかやま)に放したと聞いた。だから花塚山の元の名は放鹿山とのこと。また口太山(くちぶとやま)の元の名は人が迷って朽ちる朽人山であるとも聞いた。これらの説は江戸時代天明8年(1789)この地に住んでいた三浦甚十郎の著『小手風土記』などにある山蔭中納言の説による。この中納言藤原氏、房前の五代孫であり、山中に迷い群猿に襲われたところを白鹿が藤蔓を銜えて導きこの里に着いた。よって春日宮を請じた眉唾説話のこと。
 
イメージ 16 本殿は南面するけれど真南ではない。建物で見えないが一キロ南にY字路があって左方は浪江に向かう114号線、右は阿武隈山系の中間を辿りながら茨城鹿島へ通じる349号線。陸奥への本街道4号線に対し脇往還にあたる。社殿は京の都、江戸表からやって来る人がこの里に入るY字路に正面している。


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 本殿の裏側にある木簡。これを述べたいがため起した一文なのにくだらない前置きや与太な空想が長すぎた。
 二枚欠落し文字は左から
  柳鬼井箕尾心?氐亢角壁室危虚?牛斗参觜畢昴胃婁奎軫翼張星
 この文字列が二十八宿だろうと見当つける知識はあった。家に戻って確認すると欠けていた木簡は「房」と「女」、春日様は女房がお嫌いか。どこかで「うん」という声が聞こえた気がするけれど空耳だろう。たぶん。
 そこで疑問が二つ、下位の疑問は配列のこと。黄道(こうどう)二十八宿は古代中国天文術の語で月の軌道を東西南北各々七宿、二十八に分割し、範囲内の代表星を名とした。ゆえに角度の均一性はない。ただ四方ブロック内における左右位置は合っていてもブロックとブロックの連接は合わない。南のブロックは両端に分かれている。
  柳鬼井][箕尾心房氐亢角][壁室危虚女牛斗][参觜畢昴胃婁奎][軫翼張星
 南、東、北、西、南の並びになる。天空に角宿と壁宿が隣り合うわけではない。ちなみに宿名を音読みしても通るけれど倭名もあって角宿は「すぼし」、壁宿は「なまめぼし」という。ここで知ったかふりにすべての倭名をあげてもいいが検索すれば誰でも知れること。
 疑問の第一はなぜ裏側に祀るのかそのことになる。歌舞の起源は雨乞いの巫術、漢や高句麗には霊星を祀る俗もあった。「霊星の祭は水旱を祭るなり。禮において旧名を雩といふ。雩の禮は民のために穀雨を祈り、穀実を祈るなり。春は雨ふらんことを求め、秋は実らんことを求む。一歳に再び祀る」(『論衡』)。春日燈籠は日月を刻み、星を祀るに何の遠慮もなかろうものを。
 二十八宿を用いた渋川春海の貞享暦は1685年成立、現社殿創建の1740年には充分通用した観念になる。星宿の札ごとに幣を置く壁龕状の棚を設けてあるのは設計段階から意図されたものと言える。春日神本来の祭事ではないという意味なら修験道かもしれない。この神社に隣接して神宮寺があった。神仏習合は古くから行われ、明治初年、天皇の神聖を強化する政治意図より神仏分離令が出て廃仏毀釈の破壊行動は全国に及んだ。その時に神宮寺は廃されたけれどこの木簡については幣を置いてあるので「神道でございます」と言いえたかもしれない。
 現代でも修験道で名高い信州戸隠神社では江戸時代、魔除けのお守りに白澤を印刷して配ったらしい。昔に宿坊であった旅館から版木が見つかった。そこで短絡の推測はこの春日神社も何々のミコトを祀る一方、山伏姿で祈祷売薬物乞いもして廻国巡礼する六十六部達の溜り場、情報交換所、地域本部を兼ねていたのではないか。白澤像はその目印かもしれない。

 また迂遠な述べ方をする。この地方は古来、小手庄、小手保庄、小手郷と呼ばれ、それは養蚕機織を伝えた小手姫に由来する(私はいまだに読みが「こて」か「おて」かを知らない。どちらにもよむのだろう)。
 『小手風土記』は、仁徳天皇の世「大和國高市郡川俣里より庄司峯能と云し人ひとりの姫小手姫をともなへ遥に陸奥え下り桑を植蚕を飼しめ女工を教しむる 此小手姫東國の人は心に逢とて終に夫を不持して大清水に身を投けて死せしとや」と記す。
 小手姫の出自にはもう一説あって、これは数年前に中学時代の同級生に教わった。彼は今新潟県に住み山形へもでかけるらしい。説は崇峻(すしゅん)天皇の妃、小手子である。天皇との間に一男一女あり。政変の際、父糠手とここまで来て養蚕を教えるものの息蜂子皇子(はちこのみこ)が居るという出羽までは遠く入水して果てる。
 出自は二様あっても(1)京畿の女性が(2)この地に養蚕と機織を伝え(3)入水して亡くなる、この三点は共通する。
 同級生は修験道の発案者を崇峻と想定した。皇位三代にわたり続いた仏教受容の是非による論争政争を終らせるため仏教と神道の折衷融合理論を考え、その実践者が蜂子になる。蜂子は出羽三山の開基であり、修験道創始者として知られる。さらに同級生は崇峻が暗殺を免れ河内に逃れてそこで儲けた子が役の小角(えんのおづぬ)になったとまで空想した。現在も有名な葛城修験二十八宿回峰修行の開祖が役の小角。この場合の数字28は法華二十八品に由来し、黄道ではない、しかし江戸期以降なら掛詞ほどの意識はあったろう。
 羽山信仰も修験道に発するという。もとより祭祀は祖霊地霊を仰ぐ。神は森や岩に宿る。この町の花塚山には大きな石の数個重なる山頂あり、護摩壇岩と呼ぶ。

 川俣町にはこの春日神社の次格で半里西と一里西に春日神社がある(江戸時代には8社あった)。そこにも裏に二十八宿が祀られているのか確かめに行った。
 半里西の小神(こがみ)という地区の社は裏に何と呼ぶのだろう奥津城ふうの造作があり、中には神社の縮尺物と矢大神や鹿の木彫が置かれていた。一里西の地名からし春日神社ゆかりとわかる十二社(じゅうにしろ)という地域の社もまた同じ造作、中は見えない。ともに二十八宿の木簡はなし。
 そこで先の春日神社に戻り、神主宅を訪れた。
「裏にある黄道二十八宿はどういう意味でしょうか」
 留守役の方に尋ねたところ、ここの宮司は亡くなり二年、ずっと宮司不在の状態でいる。何かの折は十二社の宮司が代行している、そちらに尋ねてくれとのこと。
 後日また十二社を訪れ、宮司宅で同じ質問をしたところ、亡くなった宮司、吉田義氏が記した「春日神社のあらまし」「春日神社の伝承祭事」「春日神社の建築彫刻」三枚のコピーを頂いた。

 そのコピーで拝殿には百十五面の建築彫刻があり、幕領期には米三石が祭祀料として宛がわれていたことなどを知った。神事祭事の次第など細かな記述あるも、二十八宿の木簡について言及はない。
春日神社の祭事役人の中には神仏習合の名残が残されている。その一例が十二膳献供式の役人名である。永林坊、千蔵坊、橋本坊、等覚坊などの名がみられるのである。明治初期まで隣接していた神宮寺とは、祭事には密接な関係がもたれていた名残である」(吉田義氏)
 この記述あり二十八宿木簡は修験道からのものと確信を深めた。
 世に多い首や手首の抜かれ折れている木像石仏は廃仏毀釈運動の時の物、そう、日本人はタリバンイスラム国と同じ事をしている。部族や民族は異族他宗を打ち負かすことで自派の延命を図る。飛躍した言い方だが民主主義や人権という思考法はその対立解消の道具であるけれどまだ充分に機能していない。
 幣や鳥居の形にも個人的な空想はあるけれどそれは後日別主題で述べる。つまらない空想を長々と書きすぎた。ひとまず擱筆