路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする6小綱木村

 6、小綱木村(註1)
一、小手庄十九社 正一位御霊宮 五間四面 神主斎藤大隅
 鎌倉権五郎景正の霊を祭ると云い伝えたり。祭礼八月朔日 元文二[丁己]年正一位神階(*1)
 鳥居階十三旦 手水石銘[宝暦五己寅三月十四日斎藤大隅守藤原信之]
 石燈籠二基 地主 梅木内 菅野利左衛門
 細田 根搦(ネガラ)[山蔭公の藤の根からまりたるによりてかく云うとなり] 笑し壺(*2)
 梅木内[村民梅の口という] 松木内[今、松ノ口と唱う]
一、和尚堂 二間四面 字芹の沢
 往昔嘉祥年中(註2)山蔭中納言と同道しこの地に下り幽棲し給う。ある日(註3)里人を集め、今日はた往生の期至れりと云いてそのまま終りをとげにける。時に天楽(テンガク)空に響き異香(イキャウ)四方に薫ず。山中の草木迄西へなびきしとなり。その所に影像を安置し一宇を建てる。利益あらたなり。何国の人ということ、その名も千年に及べば伝える人なし。
 今、春日御祭礼の流鏑馬ヤブサメ)の的掛(マトカケ)古例にてここより出す。
 七瀧 大柴 遠上 遠下
 刃金 金凝目(カナコメ) 金屑落(カナクツヲチ)(*3)
 この三つの字はいにしえ宝寿という刀鍛冶しばらくこの地に来たりて剣を打ちしとなり。よりてこの字(あざ)残れりと云う。
一、麓山大権現(註4)
一、雷神風神宮
 酢梨 菅田捁 反り@(註5)(*4)
一、薬師堂 五器内 後ろ沢
一、大日堂(註6) 沢 竹の花
一、道陸神(どうろくじん) 関場
 岐神 猿田彦命道祖神 山城国出雲路道祖神遷座なり
一、帷子堂(かたびらどう)(註7) 鳥居階
 安積郡片平村八幡宮の移したりと云う。
一、竹の花荒神 堂九尺四面 階十旦 別当明照院
 大木の桜あり、五つ抱えばかりの古木なり。地主十右衛門
一、荒神宮(註8) 鳩内 一ノ関(*5)
一、小手第六番札所 千手観音堂 九尺四面
 階四十六旦 岩より清水湧き出る 縁日三月十八日 上の台 地主甚右衛門
  跡思ふこつなきなれや上の台のぼりて峯の月を指さす(*6)
一、日月堂 字日月
 淮南子(えなんじ)に曰く、日は陽の主、月は陰の主。宗陽子に云う、日はもって昼を昱(て)らし、月はもって夜を昱らし、日は南に有り、月北に有り、往く有り来る有り。日、南せず北せざるは則(すなわ)ち冬無く夏無し。月、来たらず往かず、則ち望(もち)晦(つごもり)成らず。迭(たがい)に相更代(こうたい)す。これを両曜と謂う。天は左に旋(うつ)り日月は右に転ず。天は旋るに速やかに日月転がるは遅し。ゆえに天に随(したが)い左旋すも実は右転す。日の行く事遅し、一年一周天、月の行(うつろ)う速やかなり一月一周天。日の中に三足の金烏有り、月の中に三足の玉兎桂樹にあり。(*7)
 いにしえ、この堂中に三足の烏、三足の免ありしもこの謂れなり。(*8)
一、太子堂(註9)九尺四面 護法上宮聖徳太子安置す 字太子堂
 誠に太子の御事は日本仏神の最初のごとく崇敬するにもあまりとかや。
一、地蔵堂 小手地蔵詣第廿五番 地主上台利兵衛
一、薬師堂 九尺四面 谷中に独立したる山なり 別当実宝院
 階四十枚 字細久保
 上戸ノ内 下戸ノ内 中ノ内
 春日御祭礼流鏑馬の馬 ここより古例にて出る
 出附(でつけ) 山蔭の黄門、口太山より里へ出付けたりと祝い給う地なりとて字名となれり、委しくは春日の社記に見ゆ。
一、六十三騎 二百石氏家惣右衛門 百五十石佐久間庄蔵 二百石佐藤與右衛門
一、村高
 この村小手四郷の一つなり
   中ノ内住人村上源治郎 町飯坂三浦甚十郎 これを記す
一、古諺に笹峠一本木というあり。西五十沢に同名ありて夫婦木なりと云う。東の一本木は西へ枝繁茂し、五十沢の一本木は東へ枝茂りけるとなり。
一、小手庄巳の方の地なり。比曾村に近し、相馬領境なり。

註1一統「在小綱木村 公邑 飯坂の南に在り 高八百石」
註2同右「嘉祥年中彼沙門山蔭中納言と同道し」とあり
註3〃 「一日」とあり
註4〃 「当荘中には此神を所々に祭れり信夫郡には更に祭る所なし」とあるが、信夫にも祭ってある所がある。
註5@の一字、高橋氏は草と読んだが草の字は「@2」と書くのであり「@」に近いのは「筆」「草」がある。後考をまつ。
註6一統「澤と云へる地に安置…三月廿八日祭礼」
註7同右「帷子と片平とは其音同じければなり 八月十五日祭礼」
註8〃 「加具津智神を祭…愛宕と同体」
註9〃 「皇子の御事は日本儒神仏の三道を開き給へるの大徳」
註10〃「上戸下戸の名は前漢の代に始…夷狄を防かん為堡城を築き…三段に分…酒を多く呑者をば上の戸口…少しも呑ぬ者をば下の戸口を守らしむ、その字を移して此地名を負せしならん」
註11〃「当村は小手荘辰巳の地…小手郷四コの内也」

*1「鎌倉景正」は景政とも書く。後三年の役で右目を射られながら奮戦した逸話が名高い。
  「元文二年」は丁巳、活字本が正しい。

  次行「宝暦五己寅」も活字本の「己亥」が正。
*2「笑し壺」を活字本は「箕レ壺」、一統は「呉壺」とする。この名不明。
*3現在の地名は「刃金」が「上羽金(かみはがね)」、「金凝目」は「金米(かなごめ)」、「金屑落」は「金草内(かなくさうち)」。前行の「七瀧」は「長滝」。
*4「菅田捁」の「捁」にママのルビ、活字本も同字。現在の地名に「菅立目(すがたつめ)」がある。捁に「詰」を入れれば読みが同じになる。
  「反り@」は草体文字、原註にある通り解読二者の意見が草か筆かで別れガリ版本には(筆)カと脇注あり。現在の地名に「楚理草(そりくさ)」があって「草」を正と見る。
*5「鳩内 一ノ関」はガリ版本欠。
*6一統は巡礼歌として「跡思ふ子綱木なれや上の台登て峯の月にゆびさす」。
*7淮南子の書名は知っているが宗陽子を知らない。教えを乞う。この日月に関する一文、例えば日が南北に動かなければ冬夏が無いというのは太陽軌道の上下と解したけれど論脈は不自然、どこかに欠字遺漏があるかもしれない。記してある送り仮名に沿った読みを試みるも論脈に合わず変えた部分や返り点を無視した所もある。出典がわかれば確認できる。
  活字本は「天ハ左に旋り」の所、「旋」を「施」と誤記。一統は「金烏」を欠き、「兎」を「鬼」とし、「桂樹」を「柱樹」と誤る。編集者の誤読かもしれない。
  太陽と月に住む三足の烏と兎は古代中国の伝説。なぜ三足なのかの疑問は未だに解けない。教えを乞う。
  「月中に桂あり、高きこと五百丈、下に一人あって常に之を斫(き)る。樹、創(き)るにしたがい合す」ギリシャのシジフォスが岩を押し上げると同じ無限労働をするのは物欲の罰を受けた花売りの呉剛。それは『酉陽雑俎』の話。

*8「免」は当然「兎」。