路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする7大綱木村

 7、大綱木村(註1)
一、口太山(くちぶとやま) 小手五岳の第一なり。
 この山、安達郡伊達郡の境なり。峯尖(せん)にして斫(き)りなせるが如し。登れば道嶮しく積雪(シャクセツ)長(トコシ)なえにして山颪(ヤマオロシ)肌(ハダヘ)を徹(トヲ)す。(*1)
 嶺(イタダキ)に池あり。鎮護岩と云うあり。二間四方程の岩穴なり。猿が首という所あり。(*2)
 往昔、山蔭中納言岩瀬鉾衝宮(ホコツキノミヤ)に通夜し給い栬山(モミジヤマ)のしるべを得、深くもこの山に迷い入らせおわせしに、しるべの者、手古る猿と変じて山蔭公を害せんとす。時に白鹿の神助ありて急危(キウキ)をのがれ給う。くわしくは春日の社記に見えたり。(*3)
 この山より一流(いちる)の渓川(タニカワ)潺々として石になりて下る。瀑(タニ)三つ有り、第一第二第三の瀑と云う。土人伊達郡第一の瀑と称す。(*4)
  峯巒一派長虹に掛く 乱留散漫煙霧の中(*5)
  欻(タチマチ)銀河波底より出ず 白竜倒(さかしま)に下る碧雲の宮
  竦傑(しょうけつ)たる巌涯泗(し)を測らず 驚湍急に硤(せばま)り眼(まなこ)眩むが如し(*6)
  高源漲り落ちて水雲を飛ばし 万馬千雷礀川(けんせん)に吼ゆ(*7)
  飛流雲の如く又虹の如し 人骨清冷一望の中
  高直明々奇絶の処(ところ) 却って疑う素@(註2)天宮より落つるかと(*8)
   口太の春色を眺望して(*9)
  嘴太(はしぶと)も笑い仲間や山の色 亀六(註3)(*10)
一、冠り松
 土人、山蔭公の冠をかけられたる松なりと云い伝う。瀑(たき)の流れ川俣川に落ちる。是を広瀬の源流とも小手川とも云えり。
一、この山、反別七十五町三畝歩 山役永三百二十五文
 花薄たれをとまれと岩倉のおののあきやに人まねくらん
 と書きたる短冊一葉あり、下(しも)ざまの手にはあらずとなん。
 岩倉 栢ノ木(かやのき) 花ノ木[七軒在家] 高屋敷[七軒在家]
一、薬師堂
一、明王
 竹ノ内 入道畑 下り坂(おりさか)
一、小松倉常楽寺 天台宗町飯坂村神宮寺末寺
 中興開山権大僧正大阿闍梨法印寛須大和尚の碑(*11)
 本尊薬師如来天明四年[甲辰]の大飢饉に盗賊この本尊を盗みとりて桑折(こおり)舟渡(ふなわたし)まで行きけるに、俄に薬師如来、大磐石のごとく重くなり盗賊二三日夢の如く、村の長(ヲサ)倒れ者ならんと思いしに本尊を荷いし盗賊なり。賊恐れこの本尊当寺へ返し納めけるとなり。(*12)
 霊験いちじるし、慈覚大師一刀三礼の御作なり。この寺元来飯坂村にありしを此処に遷すと云々。
 大木の樫のあり、安永年中、大風にて吹き倒す。廻り十抱えの余なり。
 石碑 嘉元二[甲辰]年(*13)
 南無阿弥陀仏碑 寛文十三[癸巳]十月十日衷@(*14)
一、小手第七番札所 千手観音堂 九尺四面 階四十二枚
 樅杉茂りて陰森たる山なり 縁日三月十九日 地主 寺嶋六郎治(*15)
  大綱木舟引留めて小松倉乗せて浄土に引や向はん(*16)
 坊主屋敷 大北 @居(*17)
 妻[七軒在家] 南
一、春日大明神宮
一、小手地蔵第廿四番札所 字地蔵堂 地主 南ノ庄八(*18)
 大室 岫(くき) 川耕地(*19)
一、十二天 高屋(*20)
 椚平(くぬぎたいら) 荒町観音堂
一、不動堂 二間四面 字不動坂 別当川又神宮寺
 往昔、丹波国大江山より飛び移らせ給うと言い伝えたり。この山の西の嶺は安達郡木幡山弁天の霊崛に近し。地主太郎兵衛 口留荒町長三郎
 魚板倉[七軒在家](*21)
一、稲荷大明神
 境木 新田 皆平
一、村高 六百六十二石四斗五升六合
一、六十三騎 二百石 [高屋舗]菅野与兵衛 百石 菅野八郎兵衛 百石 菅野利左衛門
一、小手庄辰方に当る地なり。針道村に隣る。安達郡境。ここに往古沼ありて大蛇すみたりと云々。今に蛇かぶり石というあり。寛永十四年の大雨の節、この沼切れて洪水す。是を寛十四の洪水と唱う。今、沼の平という字(あざ)、その沼の旧地なりとぞ。(*22)
    六右衛門 三浦甚十郎 これを記す

註1一統「大綱木邨 公邑。当村は安達郡境にて鞍太山 木幡山 境壇の界境あり、高六百五十七石二斗一升余 当地に別て産神を祭らず春日社を以て産神とするものか」
註2「@1」の字、高橋氏は練と読むも「@1」は「彳」であって「糸」ではない。「糸」は「@2」又は「@3」である。待後考。(*23)
註3亀六は著者義陳俳名真舟の俳友(*24)

*1ガリ版本は「峰小丈にして研りなせるが如し」。高い山の表現に「峯小丈」はおかしい。活字本も同じ。これは「尖」を二文字に読んでしまったミス。一統の文に直した。「研」も「斫」の誤用。
  同様に「山颪」を活字本は「山下風」と誤読。「肌」の字はどちらも「肥」とし、ガリ版本は「肌」と脇注する。実際の口太山は中央の登山コースをとれば一箇所路傍の枝に掴まり登る場所があるも全体険しい山ではない。文芸趣味の修辞。
*2「猿が首」を活字本は「猿が道」。現在名称は「猿の首取」。
*3「栬山」ガリ版本は「施山」、活字本は「槭樹山」。読みは「もみじやま」が妥当。「もみじ」と「かえで」は同義別称として通用する。
  「しるべ」は案内人。
  「手古る猿」は聞かない言葉。活字本は「年古猿」。「年」を「手」に、「年古」の読みが「としふる」であることを示すため「ル」と小さく置いた表記を送り仮名と編集者が誤読したかもしれないし、「手こずる」の意味に読んだとも言える。一統は「道しるべの賊古き猿に変じ」とする。
  ついでに飛躍した感想を言えば春日の使いは鹿、日吉の使いは猿、宗派争いの穿ちも可能。
  「くはしくは春日の社記に見へたり」その「社記」について書き始めたが煩雑な長文となり別稿とした。
*4「渓川…石になりて下る」水が石に変わるはずはない。一統は「石に当て下流す」。実はこの文『都図会』柳谷観音堂の項から写したもの。「渓川潺々として石に鳴りて流れ」その「鳴」を平仮名にしたため一統の筆者も私同様「石に成りて」と読んだのであろう。それでは理に合わず「当りて」に変えたと見る。
*5「一派」は一筋の流れ。以下、高い峯から川が一筋流れ落ちる様を白髪三千丈式に誇張描写。
*6「竦傑」は際立って聳え立つさま。「泗」は「泗水」、かつては淮河に落ちた大河。「泗を測らず」とはそれに比肩しうるとの文芸修辞。
*7「水雲を飛ばし」を一統は「飛氷雪」。次行「飛流雲の如く」を一統は「飛流如雪」。後に「人骨清冷」があり、高きがゆえに遅い雪解け、そして付け句の春に繋がり一統の「氷雪」の字が合う。
*8@は行人偏に東、註2にあるよう偏が「彳」か「糸」かで解読二者の意見が分かれた。ここは「素練」、白い練り絹が文意に合う。一統然り。
  私見ながら「碧雲の宮」や「天宮より落つる」の「宮」は「空」でも通じる。
  また私見ながらこの漢詩は語の好みからして著者の自作ではないかと推測する。
*9「春色」を活字本は「青色」、前者が合う。「山笑う」は春の季語。
*10「笑い仲間」を一統は「わらひけるにや」。
*11「中興開山」を活字本は「中奥開山」と誤記。
*12「村の長」を活字本は「おの奥」と誤読。
*13嘉元二年は1304年、川俣で最も古い石碑かもしれない。現在は年号も読めない。
*14「衷@」は二文字ともママのルビ。@は日偏に于。適語がわからない。
   寛文十三年は癸丑、1673年。
*15「樅杉」を活字本は「梅杉」。
*16「舟引留めて」を活字本は「舟行留めて」、「向はん」を「向らん」。
   「小松倉乗せて浄土に引や向はん」を一統は「小倉のせてやがて浄土に漕や著けむ」。
*17@を活字本は「暖」とする。
*18「南ノ庄八」を活字本は「南幸八」。
*19現在地名、「岫」は「久木」、「川耕地」は「川合内(かわごううち)」。
*20「十二天」は仏教で言う降魔の十二神。水平方位東西南北とそれぞれの中間で八方、垂直方位天と地の二方、さらにそれらを周回する太陽と月を指す。列記すれば日天、月天、梵天、地天、水天、火天、風天、焔摩天羅刹天帝釈天毘沙門天大自在天修験道で重視する。
   現在、久木の地に「十二殿神社」があり明治期の社寺明細帳に記された祭神は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国狭槌尊(くにのさづちのみこと)、豊斟渟尊(とよくむのみこと)、埿煮尊(うひじにのみこと)、大戸道尊(おおとのぢのみこと)、面足之尊(おもだるのみこと)、伊奘諾尊(いざなきのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)、鸕@草葺不合尊(@は玆に鳥)(うがやふきあえずのみこと)。修験道禁止により堂宇の祭神を日本神道に置き換えたと見る。
*21「魚板倉」の現在地名は「俎板倉」。
*22「往古沼ありて大蛇すみたると云々」を活字本は「往古沼あり寛て大蛇すみたりと云」。
   「蛇かぶり石」を一統は「蛇鏑石(へびかぶらいし)」とする。鏑矢は蛇の目模様に塗るのもある。
*23「@1,2,3」は草体字。
*24「真舟}は「真丹」だろう。