路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする21布川村

 21、布川村(註1)
一、小手十九社内 熊野大権現 [祭所 伊弉並尊 事解男神 速玉男神] 神主松本若狭守
 石橋 鳥居 長床[二間に五間] 階四十一旦
 例祭三月朔日 九月十九日 地主加藤茂右エ門
一、愛宕山大権現 堂七尺四面
一、西原 荒屋敷 反り田 脇ノ内 葭ヶ作 平十内 高屋敷 熊野堂 村石 梅ヶ作
 古舘(註2)[いにしえ小梁川氏居す] 柿木平 三郎内 狭末畑(サスはた)
 三戸野返り 橋あり相馬への道なり、岩川絶景なり。湯野山大権現の碑あり。(*1)
一、不動堂[二間四面]
一、織姫堂(註3)[二間四面] 額 與巧奠(*2)
 往古、この村より狭布(ホソヌノ)を織りて狭布(ケフ)の里へ出して売りしとなり、依りて村名を布川とすと云々。
 狭布岡(きょうがおか)、けふの里は国見山光明寺村の辺なりと云えり。それを当時の印行本には経ヶ岡と書きあやまれるなるべし。(*3)
 錦木塚は今の塚ノ目村に塚二つあり是なりと云えり。(*4)
 然るに南部より錦木塚有るとて狭布を献上す。まさに多賀郡壺碑銘に曰く蝦夷国界を去る事一百二十里とあり、小道の一百二十里は大道の二十里なり。多賀城より二十里奥は往古蝦夷と見えたり。なんぞ蝦夷地に錦木塚、けふの狭布あるべき事なし。あゝ星移り物換(かわ)る事かくの如し。(*5)
  後拾遺集能因歌
 仁志幾々波多天奈賀羅古曾久知爾計礼計不農保曾奴乃武念阿波之登也(*6)
 錦木は立てながらこそ朽ちにけれけふの細布むねあはんとや(*7)
  伏見帝御製
 與登々毛爾武念阿比賀太起和賀古比農多具比毛志羅奴計布農保曾奴農
 世とともにむねあひがたき我が恋のたぐひも知らぬけふの細布
  詠み人知らず
 布川にさらす細布さらさらに昔の人の恋しきやなそ
 卯の華にしろまぬけふのさらしかな
一、小手廿五番札所観音堂[二間四面] 竹の内
 布川や波おりきてし水上はいとすみわたるあや竹の内
  竹の内観音奉納
 宇久比須(うぐひす)の二十五声や竹の内
一、地蔵堂[一丈四面]小手地蔵詣第五番 地主五郎兵衛 五兵衛
一、小屋木 久保[観音堂あり] 畑中 木鉢内 関場 駻石(ハネいし) ひよい田 砂地
一、万松山茂林寺 禅宗 階六十一枚
 開山頭陀九世金室全菊和尚(*8)
 松は虬(みずち)に似て九天の日月を呑吐すとはこれらの気色なるべし 開基 稲村周防
 鐘銘略(註4)
一、中屋敷 長作 高田 中ノ内 中紺屋 大木阪
一、南無阿弥陀仏之碑[一丈余の大碑の自然石なり]
 椚塚 犬飼
一、地蔵堂[九尺四面]小手地蔵詣第六番 地主 七郎兵衛 助右衛門
一、七郎内 田ン上 笹の田 女夫阪
一、村高 千百五十三石
一、小手の庄丑寅方にあたる 石田村に隣れり
一、六十三騎 二百石加藤仁右衛門
一、十七軒在家

註1一統「布野川村、封邑。下糠田邨の東に在り延喜式越後国頸城郡奴奈川神社あり…和名抄に同郡沼川郷奴の川と作れり、当村も古は沼川と書きしか、後の世に布…に書替しならむ。又は昔日布などを曝したる事ありて斯は名を負せし」か。
註2一統「山の麓にあり、昔小梁川太郎左衛門居住」
註3同右「小手姫の霊を祭れるものなるべし、又…天の七機姫…を祭しにや定かならず」
註4この行欄外に書き加えたものである。

*1「湯野山」は「湯殿山」であろう。
  地名の現在表記が異なるもの「平十内→平地内(へいちうち)」「狭末畑→佐須畑(さすはた)」「三戸野返り→三淀ヶ入(みよどがいり)」など。活字本は「狭末畑」を「狭未畑」。
*2「與巧奠」の「與」にママのルビ、活字本は「乞巧奠(きっこうでん)」、七夕の供え物。「乞」を「与」と読んだか。
*3この項、原本は改行なしの一文でまことに意味の通りにくい悪文。語の意味を示すため改行し文意を述べる。
  「狭布(ケフ、きょう)」は古代陸奥国が献じた手末(たなすえ)の調(みつぎ)。文字通り幅の狭い布を言うも地名として歌に詠まれる場合もある。
  機織りには杼を用いて横糸を通す作業に左右の手を交互に開く。布幅の狭さは大和人に比べ陸奥人が小柄だった理由かもしれない。機械も小型ですむ。
  旧仮名遣いでは「狭、協、今日」などが「けふ」、「京、狂、強」は「きゃう」、「橋、叫、孝」は「けう」、仮名表記の異なりは元の発音が異なっていたことを示す。奈良時代7母音であった日本語は今5母音、上記の仮名表記は現在すべて「きょう」。声に出して読む場合「きょー」とて母音を「お」にし前方へ突出させる発語もできる。それが「けふ」の表記なら少し内へくぐもる声になろう。前置きに述べた和歌の表記は旧仮名のままにするとの理由はこのようなところにある。
  「印行本」を一統は「邨行本」と誤記。
*4現在の国見町塚野目古墳群の中にある錦木塚、実は前方後円墳。後世に物語を援用して命名された。
  「錦木」は飾り木。地方によって形態が異なり、木の長さは一尺から三尺、五色の布を巻く形もあれば五種類の木を束ねるのもある。原型は薪だろう。習俗の起源を考えれば宮廷行事「卯杖の祝(うづえのほがい)」かもしれない。正月初卯邪鬼を払うため天皇に奉ったのは梅桃橘柊の枝を五尺三寸に切って束ねたもの。持統2年に始まり、木の種類や調達所に変化はあるも平安時代を通じて行われた。そのまた起源を辿ればおそらく『荊楚歳時記』に見えるかもしれない大陸文化の移入であろう。私はこの書を読んでいない。また卯杖の付け合せに卯槌があって五色の紐を垂らす。
  「錦木塚」は世阿弥謡曲に仕立てた織姫と若い男の悲恋伝説。現在の秋田県鹿角市の塚が著名であり古くから狭布の里と呼ばれていた。
  鹿角の伝説では、山の大鷲が里の子供を攫うこと重なり古老が言うに鳥の羽を混ぜた布の服を着せれば攫われないと。里人のため郡司の末裔にあたる姫君は観音に三年三月の願を掛け布を織る。その姫に錦木売りの若者が恋をした。錦木は楓、槙、苦木、酸木、樺桜の枝五種を三尺に切って束ねたもの、縁組に用いる。この地では男が思いを寄せた女の家の前に錦木を置き、それが屋内に取り込まれたなら求愛の承諾とする風習がある。若者は錦木を姫の門前に置いたけれど取り込まれず置かれたまま。姫には三年三月の発願がある。若者は毎日通って錦木を置いた。九九九日目、若者は雪に埋もれ凍え死んだ。姫も跡を追うかのように三日後、はかなくなる。周囲は二人を哀れみ二つ並べた墓を作り錦木塚と呼んだ。深草少将百夜(ももよ)通いに想を得た説話。
*5鹿角が秋田に編入されたのは明治、昔から岩手南部藩の所領だった。
  「多賀郡壺碑」は多賀城の壺碑(つぼのいしぶみ)、歌枕。一条天皇が宮廷で粗暴の振舞した実方(さねかた)に陸奥守を命じ「歌枕見てまいれ」と言ったその歌枕の中にこれも含まれよう。
  「大道、小道」を里程表現に用いる例を初めて見る。広い道と細い道の意味になってしまう。一里は三十六町(約4km)、それが古代は六町一里で「小里」と呼ぶ記法ならある。
*6「久知爾計礼」を活字本は「久和爾計礼」、「保曾奴乃」を「保曾如乃」と誤記。
*7「狭布の細布(きょうのほそぬの)」は歌語。「狭布の狭布(さぬの、せばぬの)」とも言い、「胸合わず」にかかる。布幅狭い故に胸前で合せられない、恋しい人に逢えぬ辛さの表現。この「けふ」には取るに足らないつまらぬ物という蔑称の響きも感じる。あるいは『袖中抄』などにこの「狭布」や「錦木」の説明はあるかもしれないが私は読んでいない。重ねてのこの言い草は学者なら通らないところ。なに、私とて近くに図書館があればも少しましな注を置ける。いかんせんバス代もない貧、素人言と寛恕願う。『俊頼髄脳』では「けふの細布といへるは、これもみちのくにに鳥の毛して織りける布なり。おほからぬものして織りける布なれば、機張(はたばり)もせばく尋(ひろ)も短かければ、上に着る事はなくて小袖などのやうに下に着るなり。されば、背中ばかりをかくして、胸まではかからぬよしを詠むなり」と記す。
*8「金室全菊」を活字本は「金宝全菊」と誤記。また前行の「万松山」を活字本は「菊松山」とする。