路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする21布川村

 21、布川村(註1)
一、小手十九社内 熊野大権現 [祭所 伊弉並尊 事解男神 速玉男神] 神主松本若狭守
 石橋 鳥居 長床[二間に五間] 階四十一旦
 例祭三月朔日 九月十九日 地主加藤茂右エ門
一、愛宕山大権現 堂七尺四面
一、西原 荒屋敷 反り田 脇ノ内 葭ヶ作 平十内 高屋敷 熊野堂 村石 梅ヶ作
 古舘(註2)[いにしえ小梁川氏居す] 柿木平 三郎内 狭末畑(サスはた)
 三戸野返り 橋あり相馬への道なり、岩川絶景なり。湯野山大権現の碑あり。(*1)
一、不動堂[二間四面]
一、織姫堂(註3)[二間四面] 額 與巧奠(*2)
 往古、この村より狭布(ホソヌノ)を織りて狭布(ケフ)の里へ出して売りしとなり、依りて村名を布川とすと云々。
 狭布岡(きょうがおか)、けふの里は国見山光明寺村の辺なりと云えり。それを当時の印行本には経ヶ岡と書きあやまれるなるべし。(*3)
 錦木塚は今の塚ノ目村に塚二つあり是なりと云えり。(*4)
 然るに南部より錦木塚有るとて狭布を献上す。まさに多賀郡壺碑銘に曰く蝦夷国界を去る事一百二十里とあり、小道の一百二十里は大道の二十里なり。多賀城より二十里奥は往古蝦夷と見えたり。なんぞ蝦夷地に錦木塚、けふの狭布あるべき事なし。あゝ星移り物換(かわ)る事かくの如し。(*5)
  後拾遺集能因歌
 仁志幾々波多天奈賀羅古曾久知爾計礼計不農保曾奴乃武念阿波之登也(*6)
 錦木は立てながらこそ朽ちにけれけふの細布むねあはんとや(*7)
  伏見帝御製
 與登々毛爾武念阿比賀太起和賀古比農多具比毛志羅奴計布農保曾奴農
 世とともにむねあひがたき我が恋のたぐひも知らぬけふの細布
  詠み人知らず
 布川にさらす細布さらさらに昔の人の恋しきやなそ
 卯の華にしろまぬけふのさらしかな
一、小手廿五番札所観音堂[二間四面] 竹の内
 布川や波おりきてし水上はいとすみわたるあや竹の内
  竹の内観音奉納
 宇久比須(うぐひす)の二十五声や竹の内
一、地蔵堂[一丈四面]小手地蔵詣第五番 地主五郎兵衛 五兵衛
一、小屋木 久保[観音堂あり] 畑中 木鉢内 関場 駻石(ハネいし) ひよい田 砂地
一、万松山茂林寺 禅宗 階六十一枚
 開山頭陀九世金室全菊和尚(*8)
 松は虬(みずち)に似て九天の日月を呑吐すとはこれらの気色なるべし 開基 稲村周防
 鐘銘略(註4)
一、中屋敷 長作 高田 中ノ内 中紺屋 大木阪
一、南無阿弥陀仏之碑[一丈余の大碑の自然石なり]
 椚塚 犬飼
一、地蔵堂[九尺四面]小手地蔵詣第六番 地主 七郎兵衛 助右衛門
一、七郎内 田ン上 笹の田 女夫阪
一、村高 千百五十三石
一、小手の庄丑寅方にあたる 石田村に隣れり
一、六十三騎 二百石加藤仁右衛門
一、十七軒在家

註1一統「布野川村、封邑。下糠田邨の東に在り延喜式越後国頸城郡奴奈川神社あり…和名抄に同郡沼川郷奴の川と作れり、当村も古は沼川と書きしか、後の世に布…に書替しならむ。又は昔日布などを曝したる事ありて斯は名を負せし」か。
註2一統「山の麓にあり、昔小梁川太郎左衛門居住」
註3同右「小手姫の霊を祭れるものなるべし、又…天の七機姫…を祭しにや定かならず」
註4この行欄外に書き加えたものである。

*1「湯野山」は「湯殿山」であろう。
  地名の現在表記が異なるもの「平十内→平地内(へいちうち)」「狭末畑→佐須畑(さすはた)」「三戸野返り→三淀ヶ入(みよどがいり)」など。活字本は「狭末畑」を「狭未畑」。
*2「與巧奠」の「與」にママのルビ、活字本は「乞巧奠(きっこうでん)」、七夕の供え物。「乞」を「与」と読んだか。
*3この項、原本は改行なしの一文でまことに意味の通りにくい悪文。語の意味を示すため改行し文意を述べる。
  「狭布(ケフ、きょう)」は古代陸奥国が献じた手末(たなすえ)の調(みつぎ)。文字通り幅の狭い布を言うも地名として歌に詠まれる場合もある。
  機織りには杼を用いて横糸を通す作業に左右の手を交互に開く。布幅の狭さは大和人に比べ陸奥人が小柄だった理由かもしれない。機械も小型ですむ。
  旧仮名遣いでは「狭、協、今日」などが「けふ」、「京、狂、強」は「きゃう」、「橋、叫、孝」は「けう」、仮名表記の異なりは元の発音が異なっていたことを示す。奈良時代7母音であった日本語は今5母音、上記の仮名表記は現在すべて「きょう」。声に出して読む場合「きょー」とて母音を「お」にし前方へ突出させる発語もできる。それが「けふ」の表記なら少し内へくぐもる声になろう。前置きに述べた和歌の表記は旧仮名のままにするとの理由はこのようなところにある。
  「印行本」を一統は「邨行本」と誤記。
*4現在の国見町塚野目古墳群の中にある錦木塚、実は前方後円墳。後世に物語を援用して命名された。
  「錦木」は飾り木。地方によって形態が異なり、木の長さは一尺から三尺、五色の布を巻く形もあれば五種類の木を束ねるのもある。原型は薪だろう。習俗の起源を考えれば宮廷行事「卯杖の祝(うづえのほがい)」かもしれない。正月初卯邪鬼を払うため天皇に奉ったのは梅桃橘柊の枝を五尺三寸に切って束ねたもの。持統2年に始まり、木の種類や調達所に変化はあるも平安時代を通じて行われた。そのまた起源を辿ればおそらく『荊楚歳時記』に見えるかもしれない大陸文化の移入であろう。私はこの書を読んでいない。また卯杖の付け合せに卯槌があって五色の紐を垂らす。
  「錦木塚」は世阿弥謡曲に仕立てた織姫と若い男の悲恋伝説。現在の秋田県鹿角市の塚が著名であり古くから狭布の里と呼ばれていた。
  鹿角の伝説では、山の大鷲が里の子供を攫うこと重なり古老が言うに鳥の羽を混ぜた布の服を着せれば攫われないと。里人のため郡司の末裔にあたる姫君は観音に三年三月の願を掛け布を織る。その姫に錦木売りの若者が恋をした。錦木は楓、槙、苦木、酸木、樺桜の枝五種を三尺に切って束ねたもの、縁組に用いる。この地では男が思いを寄せた女の家の前に錦木を置き、それが屋内に取り込まれたなら求愛の承諾とする風習がある。若者は錦木を姫の門前に置いたけれど取り込まれず置かれたまま。姫には三年三月の発願がある。若者は毎日通って錦木を置いた。九九九日目、若者は雪に埋もれ凍え死んだ。姫も跡を追うかのように三日後、はかなくなる。周囲は二人を哀れみ二つ並べた墓を作り錦木塚と呼んだ。深草少将百夜(ももよ)通いに想を得た説話。
*5鹿角が秋田に編入されたのは明治、昔から岩手南部藩の所領だった。
  「多賀郡壺碑」は多賀城の壺碑(つぼのいしぶみ)、歌枕。一条天皇が宮廷で粗暴の振舞した実方(さねかた)に陸奥守を命じ「歌枕見てまいれ」と言ったその歌枕の中にこれも含まれよう。
  「大道、小道」を里程表現に用いる例を初めて見る。広い道と細い道の意味になってしまう。一里は三十六町(約4km)、それが古代は六町一里で「小里」と呼ぶ記法ならある。
*6「久知爾計礼」を活字本は「久和爾計礼」、「保曾奴乃」を「保曾如乃」と誤記。
*7「狭布の細布(きょうのほそぬの)」は歌語。「狭布の狭布(さぬの、せばぬの)」とも言い、「胸合わず」にかかる。布幅狭い故に胸前で合せられない、恋しい人に逢えぬ辛さの表現。この「けふ」には取るに足らないつまらぬ物という蔑称の響きも感じる。あるいは『袖中抄』などにこの「狭布」や「錦木」の説明はあるかもしれないが私は読んでいない。重ねてのこの言い草は学者なら通らないところ。なに、私とて近くに図書館があればも少しましな注を置ける。いかんせんバス代もない貧、素人言と寛恕願う。『俊頼髄脳』では「けふの細布といへるは、これもみちのくにに鳥の毛して織りける布なり。おほからぬものして織りける布なれば、機張(はたばり)もせばく尋(ひろ)も短かければ、上に着る事はなくて小袖などのやうに下に着るなり。されば、背中ばかりをかくして、胸まではかからぬよしを詠むなり」と記す。
*8「金室全菊」を活字本は「金宝全菊」と誤記。また前行の「万松山」を活字本は「菊松山」とする。

『小手風土記』を現代仮名遣いにする20御代田村

 20、御代田村(みよだむら)(註1)
一、[小手十九社内]宇賀神(うかのかみ) 祭所 稲倉魂命(うかたまのみこと)(*1)
 遠江国(とおとうみのくに)長上郡(ながかみのこおり)大歳社をゆえありてここに遷座すと云う。大歳神は鶴と化して稲の実を含んで来現し給う。
 本邦年徳大神(としとくおおかみ)、五穀成就の御神なり。よりて村名を御代田と号す。あきの方は秋の穂という義なりとぞ。(*2)
一、正一位稲荷大明神 神主 太田相模守
一、薬師堂
 堂の前 小関 上関 中道 篠ノ田
一、天神堂(註2)[二間四面]階三十四枚 松杉数株ありて社涼し
一、松林山真法寺 階二十三檀
 本尊釈迦牟尼如来
 開山 頭陀四世足峰桂芳大和尚
 天明七年[丁未]九月十八日建立(註3) 鐘銘略す
一、真舘 大嶽 岑(みね) 角内 南
一、五幸山(*3)
 杉樹数百株茂りて常に霧深く谷幽なり。群鴉蚊を避けて塒(ねぐら)とす。小手五岳の一つなり。門、神石小祠あり、大日の供養碑あり、鳥井あり、御坂十八丁、縁日三月十七日十八日。
一、小手廿四番札所観音堂[三間四面] 十一面観世音
  鐘の声まだきに四方をおどろかす御光の岑に朝日かがやく
 御光山鐘銘ならびに序、之を略す。天明七[丁未]年霜月十七日と有り。
一、毘沙門堂
 舞柳 大平 坊屋敷 椚平 境ノ目(*4)
一、村高 千三百石 高千三百十八石三斗一升一合(朱)(註5)
一、土地稲穀宜し、唐土(もろこし)の種子の蒔つもりを左に記す。
 日本の種積りへ考え合すべきために左に記すものなり。
 穀を種(う)うるには二月上旬、桃始華<桃始めて華(はなさ)く>を上の時となす。三月上旬、桐始華<桐の始めて華く>を中の時となす。一畝(いっせ)に子(たね)一斗を用ゆ。四月上旬を下の時となす、畝毎に一斗二升。(*5)
 大麦を種うるには八月の社前の中戊を上の時となす、畝毎に子(たね)二升半を用う。下戊を中の時となす、畝毎に子三升を用う。九月を下の時となす、一畝に子三升半。
 小麦を種うるには八月の社前の上戊を上の時となす、畝毎に子一升半を用う。中戊を中の時となす、畝毎に子二升を用う。下の戊を下の時となす、一畝に子二升半。(*6)
一、六十三騎 三百石渋谷助右衛門 同大河内藤治郎

註1一統「下小国の東に在り…橘長門守殿当邨へ封を移され此地に御舘遊ばし…郡を治め給へり、領一万石」
  橘氏とは下手渡藩立花氏の事である。文化三年[丙寅]八月十三日豊前守種善筑前三池より移封、上郷六ヶ村(下手渡糠田小国小神羽田西飯野)下郷五ヶ村(月舘布川御代田牛坂飯田)合一万石の地を領し御代田に下郷の代官を置いた。後下郷五千石は上知され、旧領筑前三池の地を受封、上郷六ヶ村と合せて一万石を領した。種善-種温-種恭と相襲ぎ、明治維新を迎える。
註2一統「三月二十五日祭礼」
註3「天明七年」以下二行は後世欄外に書き加えられたもの。
註4「御光山」云々以下二行も右に同じ。
註5後世朱にて村高を訂正してある。
註6一統志にはこの外「成龍院 観音院 各修験者 大久保貴見院配下」と記している。

*1「稲倉魂」は通常「倉稲魂」と書く。明治初頭の手書きによる社寺明細にもこの字順は数多く見られ衆庶の間では普通の筆記だった。
*2「あきの方は秋の穂」と突然述べてこれは文に書き漏らしがある。一統は「一説に歳徳明の方と云ふは秋の穂と云ふ儀なりとぞ 明と秋と其訓同じければ也 方と穂と相似たる故に説を立てしならん」と記す。その年の神がいる方角、恵方のこと。
*3現在地名は御幸山(ごこうざん)だが以前は「ごこうぜん)とも呼んだ。駱駝の瘤のような峰が直線に五つ並ぶ。
*4「境ノ目」を活字本は「境ノ日」と誤記。
*5「穀」は粟か稲か、粟と言っても禾を持たない穀物すべてを称する場合もあり時代によって意味範囲は異なる。「華」の文字をガリ版本は古字使用。草冠の下に「人」を四つ四角に並べその下は「夸」の大を外したもの。日本では用いない文字ゆえ書写子も迷ったか誤字を記した。昔の中国文字は木の花を「華」、草の花を「榮」と書きわけた時代もある。
  「桐」をガリ版本は「相」と誤記。「桃始華」や「桐始華」は『月令』に使用、七十二候に入る。
  この穀の一文、出典不明。次の大麦小麦の記法とも6世紀北魏の賈思勰(かしきょう)撰『斉民要術』が述べた時期を踏襲したうえで種の量を加えている。斉は北国ゆえ二月の桃の花は不自然とも思える。いかなる農書からの引用か教えを請う。
*6「社前」の語、「社日(しゃにち)」の前の意味。「社日」とは立春立秋後、第五の戊の日。産土神を祭る。
  「戊(ボ、つちのえ)」は五行十干の中で植物の成長を意味する。ガリ版本はこの文字をすべて十二支の「戌(ジュツ、いぬ)」と誤記。
  「上戊」は最初の戊の日という意味。

『小手風土記』を現代仮名遣いにする19大波村

 19、大波村(註1)
一、水雲大明神(註2) 小手十九社[小手十九社にあらず](註3) 石橋 鳥居 階六十七段
 祭所 瓊々杵尊(ににぎのみこと)国常立尊(くにのとこたちのみこと)建御方主神(たけみかたぬしのかみ)(*1)
  伊達家麾臣下 再興舘主大波伊賀  神主木村美濃守(*2)
 石燈籠一基 享和三寅年九月(*3)
  八束穂の稲のよるべや御供殿 [セノ上]等舟
  紅葉すり中やますます白幣  故白(*4)
一、宮ノ平 西畑
一、大悲山成願寺 禅宗羽州米沢下村正眼寺末寺
一、阿弥陀堂[一間四面]
一、小手地蔵詣第八番地蔵堂[九尺四面]破れ堂 地主 三四郎
 国木町(註4)
一、小手廿二番札所観音堂[七尺四面] 聖観世音菩薩
  大波も静かにすめる御代なれや国木のまちに慈悲の帆をとく(*5)
一、小手十九社内 住吉大明神(註5) 鳥井 杉森あり 字住吉
 祭所 表筒男命(うわつつおのみこと) 中筒男命 底筒男命(*6)
 神功皇后十一年、長門国豊浦に垂迹(スイシャク)すと云々。
 また曰く、住吉大神その荒魂(あらみたま)は筑紫の小戸(おど)に在り、和魂(にぎみたま)は神功皇后三韓を征し玉う時摂州に鎮座す。託(おつげ)の云う、真住吉(ますみよし)真住吉の国なり、よりて鎮座せる地名を住吉と云う。長門国豊浦那珂の住吉は摂州の地名によりて之を通称す。(*7)
  神主 斎藤対馬
一、追分碑 従是(これより)右ハ小国より川又 左ハ掛田より相馬 西福嶋道
一、雷神宮 階八十一段 長床 本社
 疣石(イボいし) 上染谷 染谷[この地の土朱のごとし、よりて字(あざ)とす] 並フ 北向 淵ノ上(*8)
一、追分碑 従是 東相馬 南川又 北保原 西福嶌
一、星ノ宮権現(註6)[字星ノ宮] 槻の大木あり
 竹ノ内 瀧ノ入
一、修験 和生院(註7)
一、小手庄亥の方にあたる村なり、信夫郡に隣れり。
一、土地栗に宜し大波栗と唱う。
 毛詩陸疏広要に云う、倭国の栗の大きさ雞子(タマゴ)の如く短し、是日本の丹波栗の事なるべし。(*9)
一、六十三騎 百五十石安部清右衛門
       二百石栗原新左衛門
 右新左衛門儀、親新兵衛を若松の証人に差し上げ、その身妻子共に梁川に籠城いたし数度(すど)の高名につき、須田大炊介殿より右二百石の判形(はんぎょう)所持仕ると申し候。

 附録及び註
 大波村の項に、後世朱書にて、種々附記してある、これを附録として収めた。但し本文を直接訂正した部分は附録より除いた。

 水渡明神は大波水源上に立たせ給うなり。今此処に引く住吉神より祭神宇志テ是祭なり。(*10)
 大波は水不足にして旱魃のため是祭なり。
 此后に山源の西、福島道に流るる川有り。又南方、立子山山上より東方へ流るる川有り。又一里二丁流れおり道下という処にて合す。是を水渡り川と云う。(*11)
 実方(さねかた)中将、住吉社参詣の折、この川にて身を@める時、御歌有り。この時案内人、木幡主殿あわせて須田縫之輔両人案内、時の社司大波隼人正なり。(*12)
 昔、この地に実方朝臣下りたる古例有りて今に御歌有り。住吉社参詣時の例も有り。又摂州より移せし時のいわれ有り。

註1一統「大波邨 村邑。上小国村の西北にあり、当邨は参州刈谷の城主土井淡路守殿別封邑なり、其治(ヂンヤ)同郡湯野村に在り、高千三十石八斗五升余、昔天正年中此邨に大波伊賀守と云う人住と云へり、故に大波邨と云か又は小さき山とも打続き…波の打来るが如く…見ゆれば大波と邨名を負はせしか」(*13)
註2一統「九月十九日祭礼」
註3「小手十九社に不有」は朱書で、「小手十九社」の文字を抹消、訂正している。
註4一統「此地大波伊賀守住み給ひし時の古き城蹟なりと」
註5同右「杉森中に鎮座…字を住吉といふ」
註6一統「大波氏北極星を信じ…祭り給ふなるべし」
註7「一統誌」にはこの外に「龍宝院、修験者、大久保貴見院配下」が記されてある。

*1「瓊々杵尊」は天照大神の孫、国を治めるため高千穂の峰に降った。
  「国常立尊」は天地開闢の神。
  「建御方主神」は「建御名方神(たけみなかたのかみ)」であろう。大国主命の子、諏訪神社の祭神。
*2「麾臣下」の「麾(き)」は将軍直属の意味。旗本、近衛。
*3「享和三寅年」を活字本は「亥年」。享和三年は癸亥、1803年。それでは風土記執筆の1788年に反する。寅年の延享三年1746年と見るべきか。一統は「享和二年亥」としてママのルビ。
*4「紅葉寸り」の「寸」にママのルビ。活字本は「紅葉する」。「紅葉せり」がよい。
  「白幣」を活字本は「日の幣」とする。これは紅葉と対照の白が妥当。読みは「しろきぬさ」あるいは「しろにきて」。初穂を神に捧げる前の句に続き、外は紅葉の色が増すにつけ神殿の幣はさらに白きを増すと付けた。
*5「帆をとく」を一統は「法をとく」と解説。また「国木」に「椚(くぬぎ)」と脇注する。
*6三柱の神は黄泉から戻った伊弉諾が禊をした水中で生れたゆえに航海の神とされる。活字本は「底筒男」を「応筒男」と誤記。
*7この一文は語の欠落があろう。「豊浦那珂」を活字本は「豊浦郡阿」と、また「真住吉」を「奥住吉」と誤記。
*8「並フ」は現在地名「奈良婦(ならぶ)」か。
*9「毛詩陸疏広要」は3世紀呉の人、陸璣(りくき)の撰になる『毛詩草木鳥獣蟲魚疏廣要』、小野蘭山が和名を付して『毛詩名物図説』を出している。
  一統は「丹波栗」を「丹波国」と誤記。
*10「宇志テ」にママのルビ。「うして」は「失せて」の訛音。住吉神の効力が失せたので新たに水渡明神を祭った、との意味に解した。
*11「此后」は「この後ろ」、或は「后」を土地神の意味として「このきみ」と読むも可。「山源」は前の行にある「水源」つまり明神の山。さても意味の通りにくい文章ではある。「道下」の地名は今無い。
*12「実方中将」は藤原実方三十六歌仙の一人、長徳元(995)年陸奥守。これは人前で頭頂を曝すのを恥とした時代、殿中で口論となった行成の冠を払い落とした無礼により「歌枕見てまいれ」と一条天皇に言われた話が『古事談』他に載る。
   @はネに支、「禊」か「祓」ではないか。「身を禊(きよ)める時」。
   梁川の八幡宮は実方が勧請したと伝える。川俣の春日神社が山蔭中納言の勧請によるのと同じく地方の主たる産土神を大宮人の功とするのは寄進荘園時代があったことも示す。
*13「其治」にヂンヤのルビは合わない「甚冶」ではないか。陣屋の意味。

『小手風土記』を現代仮名遣いにする18下小国村

 18下小国村
一、熊野大権現 [兼帯]木村美濃守
 祭所 伊弉冉尊(いざなみのみこと)事解男神(ことさかのおのかみ)速玉男神(はやたまのおのかみ)(*1)
 風呂 照内
一、八幡宮
一、観音堂 石燈籠二基 高屋敷
一、愛宕山大権現 松数株あり
 山峯
一、舘 往昔大波蔵人と云いし人居城なり、その子孫伊達政宗に属して今に大波氏あり。
一、若宮
 大波蔵人城中に鎮座して信仰深かりけるとや
一、清水 荒屋敷 片眼梨(メッコナシ)(*2)
 この地の梨片々つぶれてなるなり、よって字名とすと云う。(*3)
 山田 堂の前
一、小手廿三番札所 千手大士堂(*4)
 独立したる山なり御坂二丁余り
  雲晴れて西も山田の入日影たからの庭に露の玉だれ
 上河原
一、牛頭天皇宮(註1)岩穴に立たせ給う
一、照旭山小国寺 村名をもって寺号とせり
 開山頭陀三世梁山恵棟大和尚(*5)
 寺下 宮ノ下 畑尻 女夫清水 貝曲り 行人檀 高野 福田 入ノ内
 西ノ沢 新田 稲葉 伏場小屋 田ノ入 上鍛冶 下鍛冶 宮 如来
一、如来
 馬上内 玄蕃内 松ノ口 津田(註2)
一、照妙院(註3)(*6)
一、堤山御竹藪[長六十五間 横四十九間] 御竹薮守 式左衛門 弥左衛門(*7)
 反別 一町六畝五歩
一、村高 千三十石八斗五升五合(*8)
一、東西十八町 南北六町
一、小手庄北方にあたる村なり掛田村に隣れり
一、六十三騎 二百五十石 安藤藤兵衛
一、土地竹に宜し小国竹と唱う。志林に云う、竹に雌雄有り、雌は@多し。故に竹を種(う)うるには常に雌なるものを択びて陰陽を逃すまじ、信ぜざるべけんや。およそ雌雄を識(し)らんと欲せばまさに根上の第一枝これを観(み)るべし。双枝有るものを雌竹と為し、独枝なるものを雄竹と為す云々。(*9)

註1一統「六月七日十四日祭礼」
註2一本に「澤田」とあり
註3一統「修験者 大久保貴見院配下」

*1伊弉冉の「冉」は冂の中に井の形で筆記されている。上小国の項では「並」。活字本の金子青々氏筆記も同じ。文字面は音や意味が伝わればよいわけで目くじら立てることではない。
*2「荒屋敷 片眼梨」をガリ版本は欠く。
*3「片々つぶれて」を活字本は「片こつぶれて」。これは「片方つぶれて」かもしれない。一統は「かためつぶれて」。さりとて梨の片目片方とは何か。梨には片方の肩が膨らむ品種がある。
*4一統は「大悲堂」。観音堂のこと。
*5「恵棟」は天文年間の人。
*6ガリ版本はこの院名欠。
*7「弥左衛門」を活字本は「治左衛門」。
*8「村高」を活字本は「村馬」と誤記。
*9「志林」は11世紀北宋時代、蘇軾の著『東坡志林』か。
  @は竹冠に横棒が二本足りない聿、「筆カ」と脇注あり。活字本と一統は「筝」とする。これは文脈からして「筍」であろう。筍の沢山出る品種を雌竹と呼ぶ。竹個体に雌雄の別はない。

『小手風土記』を現代仮名遣いにする17上小国村

 17、上小国村(註1)
一、熊野三所大権現(註2) 上下両村鎮守 神主千葉主水
 小手十九社 祭所 伊弉並尊 事解男(コトサカヲノ)神 速玉男神
一、小手地蔵詣第九番地蔵堂[字山の神」 地主丑太郎
 神田 水の脇 高橋 天上(註3)[坂あり] 山神 杉山
 妙田 北 三保(さんぼ)(註4) 堤 台 中ノ内
一、淡波古葉石 石面に煙草の葉のようの紋あり。多葉粉(たばこ)の価高き年は隠れ、煙草の価安き年はあらわるとなり。 猫内
一、観音堂
一、[下小国]瑞雲山龍徳寺 禅宗頭陀寺末寺
 いにしえ猫又というものありて人民をなやますゆえにその地に埋ずむ。一宇を立て猫塚山と号す。中頃古虎山と改む。近代また龍徳の寺号に合すとて瑞雲山と号せしとなり。
 開山頭陀二世泰山祥安和尚
一、小手地蔵詣第七番地蔵堂
 八ツ根入 竹の内 五郎内
一、稲荷宮(註5) 神祇拾遺に曰く、和銅四年稲荷神影向(ようごう)偶(タマタマ)了(おえ)たるに仲秋の午の日故にて今に至り丹此日を(*1)
 別当坂 鐘ヶ作 駒場 宮内
一、吉備大明神[下ツ道の国勝の男、名は真備(マビ)、霊亀二年入唐、経史を研覧し軍術衆芸悉く伝えて帰朝す](*2)
 山城国、上御霊(かみごりょう)八所の一神なり。吉備大臣は右大臣正二位なり。本朝無双の才人なり。元正天皇遣唐使なり。唐土(もろこし)にして野馬台(やまだい)の文を読まんとするに文義暁(さと)しがたし。時に我が朝初瀬観音を心中に念ぜり。その時、蜘蛛下りて糸を引いて教えければ容易に読めりとかや。天平五年に帰朝し、光仁宝亀六年十月に薨じ給う。年八十二才。(*3)
 この地に勧請不詳、なを後人考うべし。(*4)
 宮脇(註6) 腰巻 木戸ノ内 小屋下 水口
一、小手廿一番札所観音堂(註7)[一尺四面]千手観世音(*5)
 小国川下は濁れど水口はわたのいとなみまわる影より
 杉もり老木の桜あり 縁日八月廿七日
 真坂[末坂とも] 馬場 小梅 原 谷 杉の内(註8)
一、小手地蔵詣第九番地蔵堂[字山神] 地主丑太郎
 @僧(ガソウ) 応原 柿ノ内 小池 茶畑(*6)
一、土地真綿に宜し、小国綿と唱う、伊達の上品とす。
一、六十三騎 百石犬飼彦左衛門

註1一統「上小国村 公邑。秋山邨の北にあり高千三百五十石五斗一升余当村は山と山との際に在りて其境国内の形に似たり 故に上下を分て斯は名付しか 又出羽国にも小国と云所あり 蓋彼地より移せし者か或は彼処より来りて旧邨開発せしにや未だ定かならず」
註2一統「小手郷十九社往古上下両邨の土神なるよし後の世に下の小国邨にて当社へ移し奉りて産神と仰ぎ奉る祭礼は十月九日…当邨に神田と云う字有り是は産神へ御供米を奉る田なるべし」
註3,4一統「当邨にも天上阪と云うあり前に云へる天女の古事なるべし又三保と云う地名あれば天女の古説疑なく」云々。
註5一統「別堂坂と云所にあり此処鐘ヶ作駒場宮内など言へる景色の地あり」
註6一統「宮脇腰巻とて朝霧の山の腰に棚引し風景いとよろしき名勝なり」
註7一統「水口と云所に安置す堂九尺四面小手庄巡礼札所二十一番…八月廿七日祭礼」
註8其の他、一統誌に「良善院、光正院各修験者大久保貴見院配下」など見える。

*1文末混乱、日本語になっていない。活字本は「稲荷神影偶に仲秋の午の日故にて今至り此日祭り」と、こちらも文にならず書写の乱れが続いた。ガリ版本の「丹」は祭であろう。
  『神祇拾遺』は室町期卜部兼満(うらべかねみつ)の著。
  稲荷神の影向伝承は二月初午、この記述は影向が春から秋まであったとの意味にも取れ「仲秋」の語が何かの誤りと思える。。
*2「真備」の読みは「まきび」と「まび」、どちらも用いる。「衆藝」を活字本は「象藝」と誤記。
*3この文は『都図会』「上御霊社(かみごりょうのやしろ)」から引き写し。
  蜘蛛が糸で教えた事を一統の淡白氏「此説妄れり 取に足らず」と記す。
*4「後人」を活字本は「後入」と誤記。
*5堂の大きさが一尺四面はありえない。ガリ版本はママのルビ。一統は「九尺四面」。
*6@は髟の下に害。現在の地名は我僧。パソコンのフォントにはないけれど漢字には髟の下に我ならある。字典によると馬偏の横に我の文字と同義で馬が首を振る動作を意味する。日本で使われた例は知らない。別字であろう。

『小手風土記』を現代仮名遣いにする16秋山村

 当郡南に一邑有りて川俣と謂うなり。まさに二川の流れ街中に合す。是、小手庄二十六郷庶民儈合県の魁なり。また近邑は絹機(きぬはた)をもって渾(ふる)う。業となすその織り出す品類は綾(あやぎぬ)において巧み、至って繊縠(せんこく)なるは豪貴の襟を飾るに応ず。また細綸絹紈(さいりんけんがん)の軽羅は一衣三両なり。大と無く小と無く昼夜各(おのおの)止まずなる、ある嫗婦(おうふ)の繰車の音は雷声が如き響きし、また叔女の機抒の音は冬風の烈(はげし)きに似たり。毎月六度儈県し商売交易を為すものなり。所謂(いわゆる)三都における有斯絹(うすぎぬ)の名なり。また紫染をもって名誉となし諸国これを好みて賞美す。おおよそこの廿六郷の邑民(そんみん)は稼穡(かしょく)を委(やすんず)るに山舎田屋豊饒にて富家(ふうか)軒を並べ寛々たり。東は相馬の地に隣し、南は田村郡に旁(そ)い、西は安達郡に向う。恰も凾中の如きなりと雖も伊達の中(うち)小手郷二十六の村民は言語人物など別しての風姿有るなり。また県阜(けんざと)飯野(いいの)築館(つきだて)小嶋(おじま)手渡(てど)秋山などなり。(*1)
 大波 小国[上下] 御代田 布川 手渡[上下] 糠田 小嶋 飯坂[町在] 大綱木 小綱木[町在] 五十沢[東西] 鶴田 立子山 小神 羽田 松沢 飯野[東西] 大久保 青木 秋山
 高合(たかあわせて)三万千三百四十三石一斗九升余
 人数合 一万四千九百三人
  内 男八千六百三十二人
    女六千二百七十人
    馬二千三百四十三匹
    牛十二匹
 家数合 千九百四十一軒
 寺 四十六ヶ寺
(註)本巻の序の様に用いられてあるこの一文は、日下兼延著「信達風土雑記」(元文年中の作)より収録したものである。現在、常泉寺所蔵に係る写本「渡辺嘉兵衛本」にはこの一文は一巻の序に用いられているが「渡辺嘉兵衛本」の底本と思われる「同弥左エ門本」に準拠して、三巻に収録した。しかし筆跡等より見て、本文は後世に書き加えたものと思われるので、この一文は「小手風土記」に元来なかったものと思料される。この一文には現在亡びさった産業としての「川俣紫」を始め、六斉市の張行、高業、高利貸資本の担い手としての問屋の多い事を示すと共に、更に天領として「言語人物等別有風姿」する所謂「川俣人気質」を述べているのは注目して良い。(木村記)

 16、秋山村(註1)
一、正一位稲荷大明神 小手十九社 神主
 往古、人皇四十三代元明帝の御宇、和銅四年二月十一日午の日、山城国三ツの峰に出現し給う。
 本社第一宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)、第二素戔嗚尊(すさのおのみこと)、第三大市姫(おおいちひめ)。(*2)
 二月初午参りは和銅年中二月初の午の日出現より恒例の祭事となる。
  稲荷山しるしの杉を尋ね来てあまねく人のかざすけふかな 顕仲朝臣
  稲荷山杉間の紅葉来て見ればただあさ地なる錦なりけり 周防内侍(すおうのないし)(*3)
 この社に移せるに霊杉生茂りて木立物ふり神さびたる風情いと尊し。祈るに蒼生を守り給う。すべて霊瑞あらたなる御社なり。例祭四月八日。神主斎藤播磨守。(*4)
一、小手地蔵詣第十番地蔵堂[二間四面] 地主[荒屋敷]新次郎 三右衛門
 地蔵堂、旧地は境前という処なり。今、古堂と云う。
一、麓山(はやま)大権現 月山 親子不見山(註2)
一、愛宕大権現(註3)
一、小蓰王(こしょうおう)大権現 御坂階 並杉数株有り(*5)
 御堂[三間四面] 長床[二間梁に五間] 祭礼三月十四日
 鐘撞堂 鐘の銘に曰く
 奉寄進小蓰王大権現明和九年[壬辰]九月吉祥日
 奥州伊達郡小手秋山村庵主清覚常休
一、川面(かわづら) 津軽采女正(うねめのしょう)様御代官 御知行三百石高橋清左衛門
 根本(註4) 岩ヶ作 柿木平 南 横道 中間 高屋舗 思窪 中森 駒返 一貫森 片平
 鈴ノ入 小屋場[才神 道祖神(註5)] 元内 椚平 舘野[古舘有り] @田(註6) 平内 町作ノ入
 井戸神 葭作 稲荷様 天笠 足ノ股 蟹沢
 (此所コンザツシテワカラズ後ニ改タダスベシ)(*6)
一、小手廿番札所観音堂[二間四面]階八枚
  木の葉降る音高屋敷夢さめてしぐれにまがふ月の秋山(*7)
一、霧ヶ久保[切岳坊とも] 這松、馬場などあり。(*8)
一、越へ田[肥田とも] 堀の内館(註7)
 葭ヶ作 神井戸
一、水雲大明神(註8) 古木の桜老松有り
 足ノ又 天笠 [修験]吉寿院(*9)
一、天上坂 一貫森
 天上の山の頂に沼有り、真井と号(なづ)く。いにしえ天女くだりて浴す時に人行きかかりしに天女おどろきて羽衣を着し飛び去ると云えり。よりて村の字に天上天笠などの名有るとかや。(*10)
一、金毘羅大権現 階 石燈籠二基
 讃岐国象頭山(ぞうずせん)金毘羅大権現を移し奉るなり 寛永年中
 椚山 石崎舘
一、地蔵尊 石仏なり 眼の願上するに霊験あらたなり 道の上に細道に並杉数株あり
一、正学寺 斉家宗(*11)
 本尊釈迦牟尼仏 往古の本尊は弥陀如来なり
一、南無阿弥陀仏碑 寛延三[癸亥]年(註9)十月吉祥日
一、六十三騎 百石今野九左衛門 百五十石神野與惣兵衛 百五十石高橋内蔵之助 二百石高橋清四郎
一、川面 椚平 作の入 是を秋山三家と云う
 六十三騎の内清四郎儀、親太郎左衛門会津若松へ証人に差し上げ、その身妻子ともに梁川へ籠城仕(つかまつ)り掛田責め、御一類数度の高名仕るにつき、須田大炊介長茂(註10)より右二百石給わり判形(はんぎょう)所持仕り候。
 東は羽田、南青木、西立子山、北小国
一、村高 七百九十三石九斗五升二合一勺
   黒沢金右エ門 三浦甚十郎 之を記す

註1一統「秋山村 公邑 立子山邨の東にあり高七百九十三石九斗五升二合余古事記中之巻に曰く秋山の下氷壮夫(したひおとこ)神座す按ずるに是書に依りて名付し邨名なるか其近隣に男手神など云へる山あり」(*12)
註2同右「親子不見山と云あり、其説詳ならず、又月山と云あり、山中に鎮座す、此地に出羽国月山を移せるか、或は月に対して名付けしか」
註3同右「霊験の事あり邨人尊信す世人之を養老と申…養老元年出現し給ふ故なるべし…六月廿四日祭礼」
註4上秋山で現在の大字秋山の上の方半分に当る。
註5一統「小屋場と云所に鎮座なり…所謂道祖也猿田彦命を祭」
註6@1=@2 読み不明。高橋は「絞」と読む。(*13)
註7一統「永禄天正の頃堀内何某殿住給ひし旧蹟ならむ。或は霊山国司の家人居住せしか」
 堀ノ内は平安後期の名主の住居であり、堀を廻らした中を自作し、その外の田畑を小作にしたもので、現在の佐藤健三郎家は秋山、羽田に多い佐藤氏と共に古い家系である。(高橋記)
註8一統「古木の桜あり又老松数株茂り高皇産霊神を祭れり、此地、足の股、天竺など云絶景あり」
註9寛延三年は庚午に当る。癸亥は寛保三年に相当する。
註10一本に「長義」とあり。

*1原文は返り点を付した漢文なので読み下してみた。誤りがあるかもしれない。
  「儈」は仲買人、「儈合」「儈県」は競り市。また「県」は中国の郡大県小と同じ用い方であり現代で言えば一つの町、一都市のこと。「県」は「縣」と書いており、一統はその一つを懸と誤記。
  「繊縠」はガリ版本と活字本一統みな「繊穀」と記す。繊維の話ゆえ縠に改めた。しかし穀を援用している例はいくらでもある。細糸の練り絹のこと。
  「細綸絹紈」糸は細く、織は薄い白絹。
  「機杼」の杼をガリ版本は抒と誤記。口語は「ひ」、機織りで横糸を通すシャトルのこと。
  「音似冬風烈矣」の矣の文字をガリ版本はムの下に火、活字本は炎にする。「機杼の音、冬風の烈炎に似る」では意味が通らない。一統の矣を採った。
  「有斯絹」。川俣絹は古くから軽目羽二重と称し薄くて軽いことを特徴とする。
  「諸国」を一統は「隣国」と誤記。  
  「稼穡」は「家穡」と書かれていたのを改めた。意味合いに違いは無い。
*2ここの文と引用和歌は『都図会』「三の峰稲荷大明神の社」から引き写し。
  「元明天皇」は天智天皇の第四皇女、「和銅四年」は711年。
  「宇賀御魂神」は「宇迦御魂」「倉稲魂」とも書き穀物の神、福の神。弁才天に比定され天女像で描かれることもある。「稲魂女(うかのめ)」の語もあり。
  「素戔嗚命」は天照大神の弟。賢姉とバカ弟の対になる。平塚雷てう氏が日本の昔は女性が太陽だったと述べたのは正しい。ギリシャ神話は双子の兄アポロンが太陽神、妹アルテミスが月の神。
  「大市姫」は天照大神素戔嗚命が誓約を交わした際に生じた宗像三女神の第一、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。市場の神。宇賀神の弁才天女性像はこの市姫由来とも言える。
*3「あさ地」にガリ版本は(浅茅)と脇注する。『都図会』の表記は「あを地」、活字本も「あを地」、一統は「青地」。引用の元である『夫木抄』は確認していない。周防内侍は平仲子。
*4「木立物ふり」を一統は「木立も年ふり」とまともな日本語。「祈るに蒼生を守り給う」を「永く稷を守り給う」。
  神主名をガリ版本は「幡摩守」と誤記。
*5「小蓰王」がいかなる神かわからない。地元の方は「こしょうさま」と呼び記述の通り釣鐘がある。木立に囲まれ目に付かないことからこの釣鐘は戦時中の供出を免れた。「小蓰王」を大正新修大蔵経で検索した。念のため「蓰」の他に「蓯、簁、篵」なども入れてみたがヒットなし。仏教、道教、修験の辞典になくどなたか教えを請う。
*6地名を列記した部分、解読者は匙を投げた。「中間」を活字本は「中内」とする。現在の地名に「仲田」があり「中田」かもしれない。
  字名の表記文字が現在異なっているものをあげてみる。「根本→根元」「高屋敷→表屋敷もしくは新屋敷」「思窪→柿窪あるいは栃窪か」「小屋場→古屋場」「井戸神→井戸上」「葭作→芳作(よしさく)」「稲荷様→稲荷沢」「足ノ又→芦ノ亦」などある。
  @は月偏に「受」からウ冠を抜いた文字。註では人偏にも書いている。現在地名では舘野(たての)に隣接して「渋田」がある。
*7活字本の印刷は「音」の字を欠く。「まがふ」を一統は「迷ふ」。
*8「抔」を活字本は「杯」と誤記。
*9「天笠」を活字本は「天竺」。ガリ版本も註において一統の引用文中に「天竺」。現在の地名に近似語はない。
  一統は「水雲大明神」が高皇産霊神(たかみむすびのかみ)を祭ると記す。
*10「名有るとかや」を活字本は「名のるとかや」。また、一統では天女が羽衣を著せずして昇ると記す。
*11一統は「秋山山正覚寺 済家宗」。現在名も正覚寺
*12「下氷壮夫(したひおとこ)神」の「氷」をガリ版本は「水」と誤記。「下氷」とは色付いた紅葉の意味。秋山の下氷壮夫とその弟、春山の霞壮夫(かすみおとこ)が女を得ることに賭け事をした話。
*13@は「*6」に記した手書き草体字。

『小手風土記』を現代仮名遣いにする15小神村

 15、小神村
一、小手十九社春日大明神 鳥居階
 往昔、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)この山の木の上に影向(ようごう)ならせ給うゆえに木上山と云う。その後文字を小神と改め村名となれり。(*1)
 御山は松杉の古木枝を垂れ繁昌の社地なりけり。例祭は九月朔日、貴賎群れをなす。[神主]高橋近江守(*2)
一、羽黒山大権現 例祭三月廿八日
一、四作 天ヶ作 柳ヶ作 清水ヶ作 中ノ作
一、六橋 川原田橋 二本柳橋 道合地橋 森内橋 猪耕地橋 正道橋
一、八内八門 いにしえは八内、今は二十余内あり
 城の内 宝内 宮根(クネ)の内 森内 鶴内 柳城内 鍛冶内 坂倉内
一、苗代地蔵堂 小手地蔵詣十九番
 この里の農夫常に尊信しければ一夜の内に多くの田のしろを掻(カキ)しとぞ。今に苗代の時、その例になろうて尊像へ泥を塗り侍るとなり。
 宮下 安斎将監
一、阿弥陀如来 [字]荒屋敷 行屋の内に安置す
 勝道上人の御作にて霊験あらたなる尊像なり。(*3)
一、唐松山
一、麓山大権現 御井戸[権現の御手洗(みたらし)なりと云う]
一、紙漉内 笠松 長門
一、小手十八番札所観音堂
  つぼむ花小神にあるを哀見てか地うちひらき春は来にけり(*4)
 東中内 上戸ノ内 斎藤大学(*5)
 下戸ノ内 地蔵天地 矢古呂内[弥五郎内とも云う]
一、行人檀 杉槙あり
一、小手地蔵詣十八番地蔵堂[字]杉ノ内[地主]伝兵衛
 吉後 浜居場 葭内 赤羽根(*6)
 狐石[大石有り道往来に明月音あるゆえに百百(ハウハウ)石と云い伝えたり](*7)
 堂号門[また樋合門とも](*8)
一、阿弥陀堂 古寺跡なり東蓮寺という名のみ残れり
 往昔、東蓮寺は秀衡公一郡に一宇を建立有りし寺なりと云えり。おしむらくは文治の兵乱に一炬の煙となりにける。
 その後、桜田玄蕃御影舘に在城の節、かの地に移し東円寺と改むと古人云い伝えたり。この説不詳、後人猶考うべし。
 ここに東蓮寺阪とてわずかの阪有り。往来の人転ぶ時は悪しと云い伝えり。土人に聞くにその謂れ知る人なし。
一、雷神宮
 ここに古木の石となりし物有り、社有り、鳥居あり。
一、伽羅陀山延命院泉福寺
 釈尊、伽羅山にして延命地蔵経を説かれし因によりて山号陀号となすと云々。
 この寺に琵琶のばちの如くの石あり、奇石なり。
 本尊釈迦牟尼仏、脇檀に文殊普賢を安置す。
一、村高 九百三十八石九斗二升九合(註1)
一、小手地蔵詣十七番地蔵堂 [荒屋敷]地主市右衛門
一、小手十九番札所観音堂
  月の舟西に小神の夜も更けていつみのめぐむ寺にありあけ(*9)
一、名号碑[無能和尚筆]
一、十王堂 いにしえ森内にありしをここに移せしと云う。
 岩物杜(ガンブツモリ) 鰻内(ウナギうち)[古舘あり土陽(註2)孫兵衛という人居す。いにしえ上杉家へ属して北越に旅して戦いしと云い伝えたる]
 広畑 台 館
 平田城内 女夫石(めおといし)[宮下入に有り] 座頭石(*10)
一、道郷内(註3)[古舘あり寺嶋淡路居す]

註1村高は朱書、後年附記したもの。
註2一本に「土湯」とある。
註3一本に道郷内の次に「一、六十三騎 百五十石 武藤大学」を附記してある。

*1一統の志田氏「神の木の上に出現し給う故なれば木神とこそ唱ふべきに小神とは心得ず」と付記する。『都図会』の寂照院の項に次の文がある。「本尊観世音は椎の木の上に出現し給へり、この故に木上山(こかみやま)といふ」。
*2「繁昌」を活字本は「磐昌」と誤記。
*3一統は勝道上人のことを詳しく「補陀落山碑に云有 沙門勝道は下野芳賀人也俗姓若田氏云々 神護慶雲の頃の人なり 嘉永六年までに一千五十七年なり」。
*4ガリ版本は下の句「春にけり」とて「来」の字を欠く。「か地うち」は地名の「鍛冶内」。一統は「小神」を「小袖」と誤記。
*5人名をガリ版本は欠く。
*6現在の地名表記は、吉吾(きちご)、浜井場(はまいば)、吉内(よしうち)。
*7「明月音」にママのルビ。「百百」のルビを活字本は「ドウドウ」。意味不明の行。
*8活字本は「堂号内」、「門」は誤り。現在の表記は道合内(どうごううち)。
*9「いつみ」は泉福寺の「いずみ」。一統はこの語を略し「月の舟西に漕行夜も更て小神の恵む寺に有明」とする。
*10「女夫石」を一統は「女石」とする。