路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

常泉寺山門下の子安観音はマリア観音と似ている

 川俣町の仏像の話。
 先日、観音堂の縁框に腰掛け一服していた折に管理者の方が掃除をするとて鍵を開けた。その時に像を見て以前新聞記事にあったマリア観音を思い出し写真に収めた。

 川俣町の仏像の話。
 先日、観音堂の縁框に腰掛け一服していた折に管理者の方が掃除をするとて鍵を開けた。その時に像を見て以前新聞記事にあったマリア観音を思い出し写真に収めた。

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 一瞬は金属製かと思える色調。右手に持っていた何かは盗まれたとのこと。

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 抱いた子供は取り外し可能と見える別木造り。母体と色合が大きく隔たり、他にもう一体あるかもしれない、あるいは頻繁に外したことによる手擦れの箔落ちか。

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 箔押し技法は知らない、ただ衣服の鳳凰紋など熟練度の高い作業に見える。

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 蓮華座下の岩座は荒磯のようなゴツゴツの岩場。

 十字架は見当たらない。蓮華座と母体も離せそうな造りで胎蔵物や墨書の存在を尋ねたけれど管理人の方はご存じないとのこと。
 家に戻り、マリア観音を検索し山形県東根市龍泉寺新潟県十日町市松之山松蔭寺の二体を見る。どちらも子供が着脱式になっており、新聞記事で読んだのは龍泉寺の像だった。
 昔、と言って年代は不明、酒田港から仙台へ向う旅人が隠れキリシタンであり、国境の関所を通るに背負った像が露見すれば死罪になる。そこで宿をした龍泉寺が預かり隠しておいた。旅人は戻らない。年を経てその像に光背と台座を誂え子育て観音として開帳したところ人々の信仰を集めたという物語である。
 その像は子供の腕に光を当てるとマリアの胸に十字架が現れる。マリアの黒目の裏にも十字が刻まれている。
 一方、松蔭寺の像は冠の模様に十字がある。ただしそれはこじつけとも言いうるし、子供を着脱できる形式をマリア観音の根拠にすればこの常泉寺の像もマリア観音になる。

 以前、郷土史家高橋圭次氏から頂いた資料の中に県北曹洞宗の寺の歴代住職名を列記した一冊があり、常泉寺三代前の住職亮光和尚が山形県高玉村出身と記している。高玉村と東根の龍泉寺は距離にして三里か四里、同じく曹洞宗、和尚が龍泉寺に在籍したか確認できないけれど、あるいはこの像、亮光和尚が山形から持ち来たった物ではないかとの空想が生じた。龍泉寺の像を模して作った、あるいは逆、または一時代の流行形態であったかそれらは知らない。

 龍泉寺の像と常泉寺の像は岩座のゴツゴツ感が共通する。准胝(じゅんでい)観音なども岩座に立つけれど座の起伏は平板でここまでゴツゴツする例は少なかろう。
 キリシタンの言葉にハライソがある。ポルトガル語の天国、パライゾ(paraiso)のこと。宣教師が来た時代の日本語は「は」を「ふぁ」や「ぱ」と上下の唇が触れる発音をしていた。ゾがソに変化したのはカナ表記で濁点を省略する習慣によるか。荒磯の読み「ありそ」「あらいそ」はハライソと音調が通じ、九州や南海諸島には神が海の彼方からやって来る伝承が多い。これが岩座に荒磯を連想した理由。ことに山形県龍泉寺の像は岩上に直接片膝立ちの姿勢で座る。それゆえ荒野あるいは苦界に現れた救世主の感が強い。

 子供の着ている服を較べるなら川俣の像は天平時代を思わせる丸襟、龍泉寺の物は襟に西洋式のフリルが付く、十日町の像はまったくの和風、江戸時代絣模様の袷を着ている。

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 堂宇は2年前新たになった。
 常泉寺に縁浅からぬ80才の方に伺った話によると、以前のお堂は渡辺酒店(現在廃業)の先代が建て、格天井に花の絵があり畳敷き、一時、人も住んだという。すればこの観音像、線香ばかりでなく酒食の香も受けた。またその方から、亮光和尚は戊辰戦争で亡くなった二本松藩士の遺児兄弟を引き取って育て、一人は養子になって寺を継いだ玉光、もう一人は東京に住まう華族である元二本松藩主の許へ行き漢学者となった服部宇之吉であると教えていただいた。宇之吉は清国滞在中に義和団事件に遭遇し籠城記を書いている。

 私は像の由来を知るため常泉寺へ出かけた。応対してくれたのは住職の奥さん。制作年や仏師、胎蔵物や墨書の有無など記録が残っているかお尋ねしたが奥さんは知らず(つまり学術調査はしていない)、それで堂宇が新しくなった折に高橋圭次氏が書いたA4一枚紙の説明書を持ってきてくださった。
 高橋氏は天明8(1788)年成立『小手風土記』の一節を引く。
  観音堂 小手郷順札札所二番
   本尊正観音。 行基菩薩の御作なり
          大同二年の草創にして坂上田村麻呂の守本尊なりと
   子安観音一躰 渡辺弥平治と云者建立す
          七月十日八月十八日祭礼なり
 天明8年すでにあり、亮光和尚が山形から持ち来たったかもしれないとの私の空想はここで消えた。そして渡辺酒店の主はこの弥平治氏の末孫であろう。
 高橋氏は次に明治11年亮光和尚が県に出した『社寺明細調書』の境外仏堂を引く。
  観音堂
  一 本尊仏 子安観音
  一 堂宇  縦二間三尺五寸 横二間一尺
  一 祭日  八月十日
  一 境内地 三十坪 民有地 名受常泉寺
  一 寄附物 鰐口一ツ
 そして「明治11年になると本尊は子安観音になり、聖観音は無くなり、大同2年に溯る平安時代の仏像だったかどうか残念ながら確認できません」と行基の作仏無きを惜しむ。
 行基のみならず、およそ神社仏閣の縁起譚はみな眉唾なのが一般的ではある。

 私が亮光和尚は高玉村出身と述べたところ、奥さんはご自身で作成した家系図を持って来てくれた。亮光を上に置き、次の住職玉光、良光、亮一と続く全ての兄弟姉妹配偶者を一覧できる図。その玉光時代に、寺と渡辺家は姻戚関係を結んでいる。ただ家系の話になると私など、三毛子が述べる天璋院様と二弦琴師匠の系譜が呑み込めない漱石の猫と同じで頭が混濁するばかり。世間では男脳女脳なる科学を装ったあざとい言葉がある、家系の認識においてならこれは女性が勝る。天皇家の膨大な系譜を縷々述べた稗田阿礼が女性だった。私はこのことをつい先日柳田国男の小文を読むまで知らなかった。
 ともあれ観音堂に関わる人の中に断定はできないもののキリスト者として名を挙げた人は見ない。この町の歴史に隠れキリシタンの風説も聞かない。ひとえに子安観音としてこの像はある。
 新しいお堂の施主を尋ねたら、それは寺で建てたとのこと、造営は山門と同じく山形の大工さんだと教わった。
 つまらない付けたし冗談を言えば子安観音に十字架は見えない、されど常泉寺の家紋が丸に十文字。


 以前の記事で述べたように私は信仰心を持たない。「おのれのみ悟り顔して坊主かな」といった戯れ句も作る。それゆえ神仏の造形物を見ても一番肝腎なものが見えていないのではないかという気懸りは常に持つ。知見をお持ちの方に教示を請う。
 この観音堂は普段施錠してあり覗き口も無い、しかし秘し隠しの像ではない。