冬なのに夏の花を提示する。私はボケている。
ワルナスビ。
黄色の葯が目立つ3センチほどの白い花。茎と葉裏の主脈に棘がある。
植物の棘は虫の食害防御に発生する。しかしこのワルナスビ、ヒト科のみならず家畜が食べても有害。
果実はミニトマトを細長くしたほどの濁った黄色、その写真を撮ろうと行った日はすでに刈られていた。
アメリカフウロ。花期は5月と6月。
ワルナスビ同様アメリカからの帰化植物。茎と葉の赤色が目立つ。花は5ミリほど。私のカメラはスーパーマクロ機能がなく1センチ以下の花は写せない。ブログ名に反し何年も花の記事が少ないのはそれが第一の理由になる。
このアメリカフウロは手持ち図鑑に記載なくて掌状葉が似たタチフウロからフウロソウの仲間を検索し名を得た。
畑の周囲や舗装道路の割れ目にあり水田の周囲には見ない。乾燥地を好むらしい。
7月に入っても弥次々と花を付けすぐに尖った朔果を結んでいたが末には枯れた。
これは年々増えそうな予感がする。あるいは温暖化の文脈で述べる人も居るかしれない。
以下余談。
過疎化の進行する里山では竹林が面積を広げている。
里山は桜の花を境に枯れ色を緑に変える。この地の染井吉野開花は例年4月初旬、山桜はそれから一週間後、葉と同時に出る。
日本人の文化伝統なら鶯の対に梅だけれど、全くの個人嗜好、私は鶯の対に山桜を挙げたい。その時期の山歩き、昼酒昼飯は日が当り風の当らない岩や草の上に座を占める。眼下に白色の秀でた山桜あって鶯がひと声、そして閑として寂、その心地良さは比類ない。
人は浮かれ町の桜の散り汚れそのころすがし山桜花 凡脳
4月半ばから日に日にどの木も葉が伸び広がり山の色が若緑になる。5月は全山の緑、草も茂り植物全体の生命が躍動する。その中にあって竹が枯れ色を呈する。
これによって面積の広がりがわかる。
「竹の秋」は春の季語、「竹落葉」は夏、「麦の秋」も夏の季語なれど5月末にその穂はまだ青い。竹林の七賢や竹渓の六逸など隠者が竹林に住まうのは一般の大きな流れに逆行している比喩でもあろう。
「竹の冬」という季語はない。葉がすっかり枯れ色を帯びたその5月下旬、筍が出る。筍は日に1メートル伸びるのも有る。竹にとっては冬と春が同時になる。
秋の花ヒガンバナ。
白色を今年初めて見た。住宅街の空地片隅にあり翌日切り取られていた。
翅の全開飛翔まであと数分のオニヤンマ。
いかなる事情か翅が展開しきれず成虫になったアカタテハ。いくら羽ばたけど飛べず、地をのたうつばかり。
夏に見かけたメクラグモ。
これだけ足が長ければ歩みもさぞ早かろうと人は思うかしれない。実際は恐る恐るの緩慢な歩みをする。杖を頼りの盲人に擬しての名前、座頭虫とも呼ぶ。メクラは差別語とて広辞苑第六版は「盲蜘蛛」の項目を消した。
季節外れを列記したがこれは現在、三日前見た四季桜の六分咲き。
道路の水溜りは氷が張り、そばの雑木山は霜柱を踏んで歩いた。
ヤフーからの移行組です。その移動において横に並べた写真はひっつき、行間はスマホから受けたメールをパソコンで開いた場合の間延びに変わりました。少なくとも読む方の知見を乞うた神社や仏像の話3本は見易い形に直したくて編集画面を開くとこれが脇にあるべき文字列が重なった画面、直す気が失せました。
ブログを止める選択肢もあります。しかしまだ神社について結語を述べていない、あるいは怒りを発した折の言いっ放し利用に必要とて続けます。基本は地理誌の一端を述べる態度です。
福島県の川俣町に住む70歳、老ばかりか貧にして愚、孔子の言う上知と下愚とは移らずの下愚に属します(広沢虎造はもっと簡潔に「馬鹿は死ななきゃ治らねぇ」と言いました)。
ブログを書くとて友人を求める意志はなく、どなたか聡明な方が何かの検索によって目にし親切か憐れみの心で教示を下さる、そのことをのみ期待します。象が針の穴を通る水準の望みです。以上は新規参入の弁。