路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

『小手風土記』を現代仮名遣いにする・前置き

 天明八(1788)年川俣在住の三浦甚十郎義陳が『小手風土記』を書いた。小手郷二十六村の地誌であり幾つかの村では地元の人と共著になる。江戸時代に各地の学者や文人が著わした他の地誌と比べたら文章は下手なほうに属する。三浦氏は真丹の号を持つ俳人であり読書家でもあったことは引用から察しうるもその引用とてコケ威しの域を出ない。
 文の様式は検地帳と同じ一つ書(ひとつがき)、石高の細かな記載もあって三浦氏は筆頭(ふでがしら)のような村役を勤めた家系かもしれない。ただ、この書式は空行なしに一元の並列になっており、例えばある神社を述べて本殿や境内社を一つ何々と並べた同じ並びでいつのまにか別地域の神社の記述に変わっているなど分りにくさがある。
 自筆本は失われ写本が二種残っている。一つは月舘熊野神社所蔵本、書写年と書写子の名は不明であり明治期に宮司が多く書き込みをしている。この写本を昭和四十(1965)年、川俣町史資料第3集としてガリ版印刷がなされた。古書の解読は木村章、高橋加久吉の両氏。一頁二段組で後書きを含め93頁。宮司の加筆した文を附録としている。
 もう一種は常泉寺所蔵本、こちらは明治十八年金子青々氏の書写と奥書あり、それを昭和六十一年、頁の上半分に筆文字の写真を載せ下に読みを活字印刷する体裁で発行された。古書の解読は佐藤庄吉、遠藤一男の両氏。総頁177。
 二種の写本、本来の所持者は町一番の商家渡辺家の本家と分家筋、金子氏の写した原本は本家筋の書、つまりガリ版本の原本とする見方もある。ただしガリ版本に無くて活字本に出ている地名などあり確実なことはわからない。
 もう一冊参考になるのは嘉永五(1852)年、志田正徳(白淡)氏の著した『信達一統志』、これには『小手風土記』の文章をそのまま引き写した記述が多く、上二種の本で文章の体をなさない語列は文節のいくつかを書き漏らしたとわかる場合がある。志田氏の携行した『小手風土記』は三浦氏直筆とまでは言えないまでも上記の二種より前の写本になるだろう。この書は1977年福島市史編纂委員会の資料叢書第30輯に収められた。
 便宜的にこの三書をガリ版本、活字本、一統と呼ぶ。三書とも発行主体は教育委員会、先生と呼ばれる人達の仕事になる。これら三書とも川俣町の図書室にある。

 私の記述中ではもう一書に略名を用いた。秋里籬島著春朝斎信繁画の『都名所図会』、これは最初を除き『都図会』と記した。この書は三浦氏が手元に所持していたに違いなく引き写しがすこぶる多い。そのいちいちに著者名を書くのが面倒になった。著作権の概念が日本に来たのは明治後期、庶民にまで広まったのは昭和、つまり二十世紀に現れた思考法になる。古くはむしろ己が知識のひけらかしとて引用が文章自慢の種であった。ゆえに昔の著作は誰々撰と称する。

 書写は伝言ゲームに等しい。「書を三たび写せば魚は魯となり虚は虎となる」とは『抱朴子』の言、誤解誤読による誤記、書き洩らし、思い込みによる書き足し、筆の滑り、それらが書写を重ねるごとに増えてゆく。印刷においても同じく原稿の誤りと誤植を伴う。『小手風土記』はまことに誤字と誤記の多い書冊であり、私は数年前知人が持ってきてくれたことで通読したが町の郷土史家は「必要な時に必要なところだけ読む」とのこと。刊行に携わった方達は皆故人であり、ひょっとすると現在生きている人間の中でこの書を通読したのは私一人かもしれない。それほどのマイナー本になる。
 にもかかわらず町史や町のホームページ、里山案内の冊子、郷土にまつわる研究論文やパンフレットの類まで『小手風土記』からの引用は数多く行われ、そのどれにも誤記や誤字を訂正する副文がない。原典の誤りは引用者の責任ではない、その通りではあるけれど、良いのかそれで。高い山を表現しているのに「峯小丈にして研りなせるがごとし」を読んでおかしいと思わないか。批判において避けるべき情緒表現を敢えて使えば恥としないか。日頃恥知らずと言われている私などと同じであってよいのか。私文ならともかくこの引用は町のホームページにある。引用はだいたいが権威付け勿体付けに行われ、「権威主義的」と「役人的」、この二つの言葉は多くの点で重複する。
 引用の動機にはもう一つ、見栄っ張りの知ったかふりがある。(どうだ、おれはこんなむずかしい文章を読めんだぜ、知ってんだぜ)の態度、これは里山案内の小冊子に多く見うけ、中には単語どころか文意まで解していないとわかる引用まである。一見、難解そうな形の文字列がそれを誘引するのだろう。旧仮名遣いではあるし、万葉仮名を踏襲した文字もあるゆえに。それを読みやすくすれば偉ぶりたがりと見栄っ張りが行う引用を動機の時点で排除できるかもしれない、これが作業を開始した発意になる。以下、箇条書きに方針を述べる。

1、ガリ版本を底本とし旧仮名遣いを現代仮名遣いに改める。
 底本の「于(に)」「爾(に)」「尓(に)」「川(つ)」「津(つ)」「者(は)」「寸(す)」「越(を)」「能(の)」「連(れ)」「个(け)」などを平仮名にする。略字の「卜」は「歩」。
(例)「小手姫東国能人ハ心尓不逢とて終于夫越ふ持して大清水尓身越投けて死せしと也」
   「小手姫東国の人は心に逢わずとて終(つい)に夫を持たずして大清水に身を投げて死せしとなり」
 底本の編者、木村高橋の両氏は原本を忠実に写そうという学者的立場に加え、読み側に立っての気遣いをお持ちゆえ適宜脇注あってこの仮名を読むに停滞はない。
 ただし和歌や俳句の場合は音調が変わるので旧仮名遣いのままとする。それでも意味に紛れがある場合など濁点を施すことはした。
2、ルビを多くする。誰もが文意を解し声に出して読めるようにするのが基本方針になる。
 底本にあるルビはカタカナ、私のルビは平仮名表記。底本に「志く連」へ(時雨)と脇注の形で漢字ルビがあるように私も一語だけ漢字ルビを「すまひ」に(相撲)と置いた。
3、誤字と誤記を指摘し、できるものは訂正する。また三書の異同指摘も含む。
 私は古文書を読めない。行書草書の木偏手偏言偏の区別すらできない。活字本の写真で金子氏筆記を見ても確実な判断はできないということ。底本では「請」を「清」、「稲」を「福」とする例が多い。原書がその文字か解読者の誤読かそれはわからない。「勧清」は「勧請」と直し注にその旨を記したが本文に誤字をそのまま記し注で直す場合もあり、どちらかに統一はできなかった。
 底本の「日本記」や「縁記」は誤字としない。現代の学校では『古事紀』や『日本書記』と書けば不正解だろうが「日本記」は日本の記録、「縁記」は由縁の記録と解せる。私は教師ではない。もし「縁記を担ぐ」という語があればそれは縁起と直す。
 仮名表記においても「娘小手姫をともなへ」は「伴い」のことだけれど、「い」と「え」の発音が逆転するのはこの地域の方言、訛音になる。誤字ではない。これも他の語とまぎれる場合は直したけれどそのままの所もある。私が子供の頃は「え」と「ゑ」、「い」と「ゐ」を言い分け聞き分ける年配者がまだ居た。
 年号の誤字「永録」などは自明の事として注も置かず「永禄」に直した。
 誤字と三書の異同は全てを取り上げたわけではない。煩瑣すぎて略したものも多い。
4.(註1)とあるのは底本の注、(*1)が私の注。底本の注番号は単語に付してあり、私の注番号は行末文末に付けた。ともに各村の末尾に内容を列記する。
5、小文字は[半角括弧]に括った。
6、フォントの無い漢字は「@」を置いて注にその形を記した。
7、行数節約のため横列記の地名や人名を縦列記にした場合もある。

 私は学者の文章に偏見を持っている。大学教授数人が時代を分担して執筆の『福島県の歴史』を一読したのは三年前、その印象を言えば学者の文というもの俺はこれを知ってるあれを知ってると記述する。そして知らないことと苦手分野は話頭に上げない癖を持つ。この態度は教授でもない郷土史家さえ踏襲する。卑近な例を言うと小手郷一の宮、川俣町の春日神社は本殿の裏側で黄道二十八宿を祀っている。これは珍しい意匠になる。この稿を書くにあたって郷土資料をいくつか目を通したがその記述は皆無、つまりこれも、知らない分らないから書かないの態度になろう。現に目の前にある物が無い物扱いになっている。
 以前『小手風土記』のわからない言葉を郷土史家の方に文書でお尋ねしたさい、この書を比較検討した初めてのものという返信を頂いた。これだけ誤字と誤記の多い書冊なのだからすでに誰かが批判ぐらいはしているだろうと考えていたが図書室の史料にそれらしきものはない。誰もしないなら俺がやろうと考えたのも作業動機の一つになった。
 「こんなことも知らねえのか」「はい」「バカじゃねえか」「バカです」。学者はこれが言えない。知らなくても知っているような顔つきを保つのはそれはそれで苦労もおありだろうが「いやぁ専門外で」という万能の言いわけ言葉があるので同情はしない。幸い私は学者でも郷土史家でもない、現に目の前にある文字が分らなければ分らないと書く。さらに幸か不幸かバカと言われることには慣れている。事実だから仕方がない。だから誤りを正そうとしながら別の誤りを増加させたかもしれない。私の注には故意に与太デタラメを含むエッセイ文の箇所もあり、またかすみ目により見落した入力ミスとていくらもあろう。私の注には信を置かないでいただきたい。
 誤字などのアラ探しは私のような自分に甘く相手に厳しい、心の狭い男に向いた作業ではある。この稿は誰に頼まれたのでもなく一人勝手にただ知人に献呈するため書いた。長年、私の貧を憐れみ無償で米を持って来て下さる方がおいでになる。その方にせめての恩返しとしたい。
 三浦氏が著述の1788年、モーツァルトは39から41番までの交響曲を書き、ギボンは『ローマ帝国衰亡史』を書き、ロシアとスウェーデンが戦争を始め、アメリカでは合衆国憲法が発効した。地球上の人口が現在の十分の一だった時代のこと。

 底本は26ヶ村のうち地元である「町飯坂」のみ12頁あり他は平均3頁、このブログでは町飯坂のみ上中下三回に分けてアップする。というのもこの稿は下書きのメモ帳入力、これをこれからB5のワード文書縦書きに落としルビも増やしてゆく。その前に私の誤りを指摘していただきたい。