路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

犬に吠えられる

 どこの犬にも吠えられる。
「人相が悪いからだ」と身内は言う。
 そればかりではあるまい、現にその身内のところへ電話をすると電話の向こうからまで吠えられる。
 なぜあの犬、今、飼主が話している電話線の向こう、二百キロ離れたその先に厭な男が立っているとわかるのか。恐るべき天才犬。

 道を歩いて犬がワンと吠えたら、(おじさんは顔が悪いけど心は優しいんだよ)という思いを込めワンと答える。ワンワンと吠えたらワンワンと答える。犬はいっそう吠え立てる。
 こちらは赤の他人の家の前をただ右から左、歩調も変えず通り過ぎただけなのに、犬、最後に誇らしげな強音ワンを発し家の中に居る飼主へ得意顔を向ける。「へっへっへ、旦那、あっしが追っ払いやしたぜ」とでも言いたげな顔。古来、岡っ引や警官と犬は同義語だった。

 さはさりながら過日のこと、町をやや外れたあたり、二股道を左に進み、三十メートル過ぎてまた二股道、それを右に進んだ。どちらの分岐かしらないが首にリードをつけたままの犬が後ろについた。柴犬ほどの大きさの雑種犬。
 道を歩くのは私一人、上り坂である。立ち止まって振り返ると犬も止まり、歩けばまた犬もついてくる。どこまでもついてきて、あと百メートルも進めばまた分かれ道があり、更にその先も三叉路になる。
 以前住んでいた土地で、妙に人懐っこい猫が煙草を買いに出た私の足下にまつわり、ほんの五分ほどの距離だが家屋の間に畑や空き地もまじって何度か曲る細路地、その途中ではぐれ、猫は戻って来なかったことを思い出した。
 そこで引き返すことに決め犬のリードを取った。犬はニッコと笑……いはしない、がそんな嬉しげな顔をするや勢い良く駆け出す。リードを引いた。犬は戻って私の足に鼻を寄せたり路傍の草を探索したり、こちらを見上げまたエヘッと笑い……はしないがそんな眼の色。そして駆け出す。リードを引く。
 リードを引くこと三度。犬は私の歩調に合わせ歩くようになった。「何度言ったらわかんの」と常に叱られてきた私より頭がいい。
 分岐点に戻り、近くの家の庭に出ていたおばちゃんに「これはどこの犬でしょう」と尋ねた。
「それ、向かいの」とおばちゃんが指差す。道路反対側十メートルばかり坂のある家。
 振り向いた視線を戻したら、私の連れた犬がおばちゃん家のメス犬と細い鉄柵の隙間越しに鼻面を寄せ合っている。気が合ってるとわかる。
「昼はいないんだよ、そこの男の人」
 おばちゃんは言いながら私の連れた犬を胡散臭げに見、自分の犬を柵から引き離そうとする。私の犬は哀れなロミオであった。
 向かいの家に行き、柱にリードを結んで食器と思える植木鉢用の皿に握り飯と茹で卵を一つずつ置いた。水はボウルに残っている。
 そうしてまた山への道を歩む。
 また別の日、未舗装の林道を歩いていたら、一軒家の庭先でリードを外した大型犬と飼主がじゃれあっている。伸びをした犬の頭は人の背丈ほど。道を通る私に気づいた犬が猛然とダッシュしてきた。飼主が「オウッ」と叫ぶ。
 独活の大木と評価を受けている私は逃げも身構えもせず薄ぼんやり突っ立ったまま。二十メートルほど突進してきた犬は私の腿へ脇腹をドシンとぶつけ、その勢いでUターンしていった。

 この二つの事例から思うに、おおよその犬は私に向って(あっち行け)と吠えるのだろうけれど、何割かは(おれを遊びに連れてけ)と吠えているのではないか。今はそんな気がしている。
 昔の犬は殆ど放し飼いだった。首輪のあるなしで飼犬と野良犬を区別する。鎖や紐の拘束はストレスに違いない。

 とある家では吠えてやまない犬を叱ったのち洗濯物を干しながらのおばちゃん曰く。
「うちのは帽子かぶった人見っつと吠えんの、ごめんない」
 帽子をかぶらない時でも近所の犬に吠えられているからその理由付けは当るまい。

 人相風体の悪さでは若い頃から警官の不審尋問を数限りなく受けてきた。
 ところが、いつぞや裏山へ行っての帰り神社側へ下りた。踏み分け道が町一番の古い社殿脇へ通じており、本殿正面に六十段ほどの石段あって下に長床、その前が雑草茂る境内となる。
 その石段を下りていくと境内で遊んでいた小学校低学年の女の子二人が驚きの表情で私を見る。
「おじさん、ここに住んでんの?」
 小学生の素直な眼差しは神殿から下りてくる私の姿を神々しいものと受け止めたのだ。残念ながら神の一人ではない。
「山から下りてきたんです」誤解を解いた。

 後日、このことを知人に自慢したら、
「ホームレスと思われたんでしょ」にべもない。

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