路傍の草、野辺の花

凡脳ブログ(佐藤幹夫)

春日神社の話、補足

 二年前、町の春日神社について書いた、これはその補足。

1、白澤や青面金剛が三眼であると述べた。
 昨年、岡倉天心『東洋の理想』日本語訳を読んでいたところ次の記述に会った。
「サマーディ(三昧)の神、動かざるもの、すなわち不動は、シヴァ神のおそろしい形相、火炎の中より立上がる久遠の紺青の雄大な幻想をあらわしている。当時のインド人の観念に対応して彼は爛々たる第三の眼と三叉の剣と蛇の輪索とを持っている」三眼はインド人の発想だったか。
 続いて「彼と対をなす女性の神は、強力の弓をたずさえ、獅子の冠をいただくおそろしい愛の神、愛染としてあらわれている━━愛とは言え、その愛は強烈な形の愛で、その清浄の炎は死であり、最高のものに達せしめんがために最愛の者を殺す愛である。毘盧遮那は、如意宝珠の象徴によって不動ならびに愛染とともに三位一体をなす。如意宝珠の神秘的な形は、三角形になろうと努めている円のそれである━━と言うのも、生命と言うものは、言われるところによれば、決して自己を完成するものではなく、いっそう高次の実現の段階にむかって向上しようとするその努力に於て、永久に完成を突き破って進むものだからである」。わかったようでわからないこの後段は古代中国の三足の意匠と通底するものがあるかもしれない。
 私は仏教とヒンドゥ教の違いも知らない。イスラムスンニ派シーア派の違いも知らず、仏教各派の違いも知らない。その一方で現代日本公明党共産党を同質の宗教団体と認知している(そう、私は認知症)。何せこの二政党、発する語ををすべて捨象し、仲間の増やし方や上意の下達方法や集団の結束法や集団内の出世の形など、行動の形を記号として見るならソーセージのように相似している、にかかわらず犬猿の仲、骨肉あいハムとはこれを言うか(黙過願いたい)。党同伐異党利党略派閥抗争の行動は神社的思考に共通するものがある。
 
 三眼によって仏教(あるいはヒンドゥ教)には身体のパーツ数を増した造形が多いのに気づき折にふれメモしてきた。
 蔵王権現は一面三目二臂、軍荼利明王は一面三目八臂、梵天は三面四臂、阿修羅は三面六臂馬頭観音は三面三目八臂など。青面金剛は一面三目六臂なれど隣町飯野の路傍に三面の像を一体見た。
 世には千手観音あり十一面観音もある。では、六本腕の像はあっても六本指の像は無い、なぜか。千手観音があるなら千指観音があってもいいじゃないか。好きな彼氏に贈るセーターを一晩で編み上げニット工場の女性たちから信仰を集める千指観音、両手がイソギンチャクになっている像はどうか。
 レヴィ=ストロークの著作だったか、若い頃読んだ本にアフリカのとある部族は六本指の子供が生れると神の恵みと喜び、川を挟んだ隣部族ではそれを悪魔の申し子として忌む、そんな記述を読んだ。秀吉が六本指だった記録もあり、また中国の漢字に六本指を意味する文字もある。以前メモしたけれど先日はそのメモを探して見当たらず数時間を空費した。インドや中国においては奇形と認識されたか。
 仏像の歓喜天は象頭人身が抱擁し、それは事業の成功を祈る像という。神社の向拝柱に突き出る獏の象面、その起源もまたインドか。獏は人身ではなく『広辞苑』によるなら「形は熊に、鼻は象に、目は犀に、尾は牛に、脚は虎に似、毛は黒白の斑で、頭が小さく人の悪夢を食うと伝え、その皮を敷いて寝ると邪気を避けるという」。毛の白黒はパンダかもしれない。目は犀というも「へ」の字に垂れた笑い目、頭部だけの彫像では歓喜の語感に近い。
 仏像の造形はすべて比喩、真理真実を伝える話法の事柄になる。しかし宗派の争いは飯の種、縄張りなど、真理か否かの論争にならず現代まで続く。

2、狛犬のこと。
 昨年、日本の彫刻家を検索中、明治期の白河地方に小松寅吉、小林和平という師弟の石工あるを見つけた。普通の狛犬は天邪鬼や鞠状のものを前片足で踏む場合があっても、犬のいわゆるお座り姿をしている。ところがこの小松小林両氏の狛犬は獲物を狙う虎のように頭を低くし尻を上げた造形もあって芸術家の魂を持った創造力を感じる。獅子の顔も獰猛ながら現代女性が「ブスカワーッ」と言いそうな表情をしている。
 知人の石屋さんにそんな狛犬があると話したところ、白河は、白河石という柔らかく加工し易い石を産出すると教えてくれた。その狛犬が白河石であるかは知らない。

3、「小手」の読みが「おて」か「こて」かを知らないと述べた。
 先に高橋氏の白澤文章を教えてくれた知人がいくつかの書冊を持って来てくれた。中に地名辞典の伊達郡、小手郷部のコピーがあり(平凡社『日本歴史地名大系』1993年)、そこでは小手保、小手郷、小手森に「おで」のルビが振られている。従ってこの地の「小手姫」は「おてひめ」になろう。濁音はズーズー弁の訛音。
 ただし、崇峻妃の小手子はたぶん最も古い表記だろう『上宮記』に「古氐古(こてこ)」と記す。その息蜂子は「波知乃古(はちのこ)」、娘の「錦代(にしきて)」は同じ、小手子の父大伴糠手は「大伴奴加之古(ぬかてこ)」と記している。これは昨年『上宮聖徳法王帝説』の註記に見た。
 この文庫本はそれ以前二度読んでいる。それでも記憶容量微少な私はボケの効用と言うべきか何度でも新鮮に読める。昨年は厩戸皇子のライバルに厠戸皇子が登場する下世話な小話を作るために読んだ。
 本はどれほど読んだところで当人の能力分しか理解できない。学校は今も必読書を提示したり読書感想文を書かせたりしてるのだろうか。子供にすべて読む時間は無かろうし、心情を適切に言語化するのは大人とて至難の業だ。
 それはそれとして、地名辞典により江戸時代に山伏が里人としてどこにもいたとわかる。隣町飯野の大久保村検地書上帳に「家数一九九、男五三四.女四五三、出家四.山伏八、馬六一、酒造三軒.大工一」、青木村では「家数七〇(役家三四、肝煎.小走五、寺.山伏.脇家三一)、人数二〇四」などの記述がある。山伏が生活の資を何に得たのか、衣食住の日常がどんなものであったか気になるけれどそれはわからない。修験道は仏教と日本神道の融合に道教のあれこれを付加する形になっている。江戸期の人は寺の坊主と山伏との違いを生活の中でどのように区別していたのか、それは知りたい。大久保の山伏は春日神社に直接関係していた。

4、春日神社の祭事、十二膳献供式に奉仕する方と出会った。
 先祖代々その式に用いる箸を納めているという。加えて山幸に属する食料も出す。
イメージ 1 箸は長さ尺二寸の竹製、閏年はそれより長めにする。節間が尺二寸の竹は数少ないらしい。それを見つけ、伐りに行く日は潔斎して出かけるとのこと。鉈一丁で割る削るを行い一膳拵えるのに一時間要するという。「面取りは鑢が早いじゃありませんか」私が口を挿んだところ、「それではササクレが出る」即座に否定された。菜の取り分け用を加え毎年十三膳の箸を納めている。この方は子供さんがおらず「おれで終り」と残念の感情もなしに言った。
 神社の秋祭には各町内毎に若連が御輿を担いで練り歩く。この方は神事に携わる側でその若連とは接点を持たないという。つまり、酒を喰らって鉦太鼓に「ワッショイワッショイ、ヨイヨイヨイヨイ」の騒ぎは神事に名を借りた衆庶の娯楽であろう。ただ、この若連、祭の前に各家庭を廻って寄付を集める。そこから各町とも20万ほど神社に上納している。それでも社殿の修理に届く額ではない。ゆえに現在の春日神社は境内社とて一つ壊れ二つ廃れの流れにある。いや、こんな言い方をしたからとて私が社殿を守れと主張するわけではない。
 衰退を防ぐには役人や議員に働きかけ文化財指定を受けてそれをもとに事業者や財団の援助を仰ぐ保守的権威主義的方法と、霊験あらたかなご利益神をでっちあげ何とかスポットだの何々の聖地だのと宣伝して参拝者を増やし、お札を売り賽銭箱を唸らせる創造的方法がある。それは宮司など関係者の才覚による。無信仰の私は神社の消長に関与しない。同じく町おこし村おこしの運動にも興味がない。自然災害によるか人々の無能によるかの違いはあっても歴史上多くの文明が都市が言語が滅んだ。滅びの分量に見合うか知らないが滅びの上に新たな文明と都市と言語を人類は作ってきた。価値の創出は権威主義的な方法を取らない人々が行う。

 箸を納める方は布引山という低山の東麓に住まう。この山では憑依状態になった男児が宣託する神事、宣童(のりわら)が行われたと町史にあってご存知か尋ねたところ、それは知らないが沸かした湯に笹の葉を浸し人々に振り掛ける湯立神楽はあったとのこと。
 宣童についてはこれまで五十代から八十代までの方、十人以上尋ねたけれど誰一人知らなかった。広辞苑に載る語だけれど、この地では死語になっている。なお、春日神社は布引山西南麓にある。